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「で、今日もタカが来るまで待つんだろ?」
赤みの強いフルーツ紅茶を淹れながら、竜さんが話題を逸らしてくれた。というより目線を私から外してくれた、と言うべきか。完全に固まってしまった私を気遣ってのことだろう。
「さぁ? それはどうだろう。そもそもボクはいつもこの時間にこの場所で過ごしているだけで、ミスターが勝手にボクのいる場所に現れているだけに過ぎないのさ」
差し出されたティーカップを小指を立てながら手に持ち、優雅に口をつけながら北之原先輩は話す。所作の一つ一つが美しいのはそうなんだけど、どこか気取っているようにも見える様が一周回って面白く映った。
ところで、竜さんが言った『タカ』とは一体?
「言われた通り、そっちのピアノは調律しといたからよ」
「結構。いい腕の業者が必要なら、いつでも連絡しておくれ」
「おう。今までは見様見真似で俺がやってたんだが、やっぱプロの手が加わると響きが違う気がするわ。……そういや詠ちゃんはピアノ弾けるんだっけ?」
二人が壁際のアップライトピアノを見ながら話していたので、私も自然とそちらを向いてぼうっとしていたら、突然竜さんに話を振られた。思わず目を丸くさせる、どうして竜さんがそれを知っているのか。
「ええと、私、言いましたっけ……?」
「ああ、いや。新平に聞いたんだよ、ピアノが弾ける女の子を紹介するってさ」
「新平くんが? ……新平くんが!?」
さらに驚愕する。そして思い返す……が、私、別に隠してた訳じゃないけど新平くんにピアノが弾けるなんて言ったことはないはずだ。そもそも人様に自慢できるような腕前じゃないし、わざわざ言ったりしないから。いつだ、いつ知ったんだ? まるで心当たりが無さ過ぎる。
「ちょっと弾いてみてくれよ。ちょっと前に調律師にメンテナンスしてもらったから響きがよくなったんだ、ほら試しにさ」
そして私が悶絶する暇すら与えず、竜さんは追加砲撃をぶっ放してきた。
「い、い、いやあその、私はそんな上手じゃ……」
「いいね、とても興味深い。キミの演奏が聞きたいな……ねぇ、子猫ちゃん」
「ひぃっ」
そして傍らのイケメンから援護射撃が。眩い笑顔と甘い声に充てられた私は今すぐにでも砂になって崩れ落ちそうな大ダメージを受けた。情けない声だけが絞り出る。
「ああ……それじゃもう……謙遜とかじゃなくて本気で、本当に素人なので笑ったりしないでくださいね?」
「おおっ、嬉しいね! 何弾いてくれるんだ?」
「あー、曲は……去年流行ったポップスとかで……」
私の手札で、人前で披露できる曲と言えば先生から貰った例のスコア……去年の夏祭りで演奏した数曲くらいだ。時々弾いたりはしているから、今でも譜面を見ずに弾けるくらいには身体に刻み込まれている。
竜さんと北之原先輩に促されるままにピアノの椅子に座り、鍵盤に触れると……久々に触った生のピアノの触感はやはり、キーボードとは全然違っていて感動してしまった。適当に音を鳴らすと、響き方も全然違う。
アップライトピアノなので、椅子に腰掛けることで観客に背を向けることになる。それもあってかここに座ってしまうと、不思議と恥じらいはどこかに吹き飛んで行ったようでスラスラとそのまま演奏を始めることができた。家ではない場所でピアノを弾いていると、去年の夏祭りでのステージを思い出す。あの緊張を乗り越えてしまった私は、今こうして誰かの前で演奏するということは大したプレッシャーにはならないようだった。我ながら感心してしまう。
そんなに長尺に演奏する必要はないと思ったので、所々を省略して短めに一曲を切り上げる。かなり短略になってしまったが私が弾き終え、両手を膝に戻す前に後方から盛大な拍手が聞こえてきた。
「いい演奏だ、ブラボー! 俺の目に狂いはなかったな!」
「賞賛に値する、キミの勇気と演奏に感謝を」
「ええ、お上手でビックリしちゃいました〜。今日の先生、ツイてます。こんなに素敵な演奏を聞けてしまうなんて」
振り返ると、並んだ三人がやたらとご機嫌な様子で私に拍手喝采を浴びせてくれた。小恥ずかしさはあるけどお眼鏡にはかなったようで取り敢えず一安心だ――
「――増えてる!?」
「こんにちは〜。中言崇史、姫ノ上学園の音楽教師です。君は姫ノ上の生徒じゃありませんね〜? よろしくです〜」
しれっとそこに立って私に拍手を送っていたのは、暗色の白髪が目立つ大人びた美丈夫――本人が名乗ったが、攻略対象キャラクターの一人である、あの『中言先生』だった。
服装は明らかに仕事上がりと言った風貌で、暑くて脱いだであろうスーツの背広を腕に抱えている。まさか過ぎる人物が目の前に突然現れたことで私はただ呆気に取られることしかできなかった。
そう言えば、さっき竜さんが言っていた「タカ」って……まさか中言先生のことだったの!?
北之原先輩の隣に腰掛けた中言先生は、独特の間延びした口調で「いやぁそれにしても暑いですねぇ」と言いながら手で自分の顔を扇いでいた。隣の北之原先輩はそんな中言先生を横目に険しい顔付きになっている。そうだ、この二人はゲームでライバル関係にあたるんだ。
「フフン、ミスター。今日もこの場所で会ってしまうとは……奇遇だね。しかしボクが先にここへ来ていたという事実は覆らない、つまりアナタはボクを真似たという訳だ」
「? ……ええ、北之原くんとは最近とてもよく気が合いますねぇ。ピアノも頑張ってるって聞いてますよ〜、先生早く聞きたいなぁ」
「ピアノだけではないとも! 当然ヴァイオリンにも力を入れているとも。生憎ボクは受験生という立場だから、表立ってコンクールなどには出場することは控えているけれどね」
「そうですねぇ、北之原くんが美術部員で生徒会長じゃなければ絶対に吹奏楽部に勧誘したんですけどね〜。生徒たちにも色々ありましてね〜、夏のコンクールに向けて部員が足りてないのが先生、最近の悩みなんです」
竜さんに言われて、私は中言先生の注文であるカフェラテの用意に取り掛かる。その間に二人の会話に聞き耳を立ててみると、この二人は親しげと言うには少し複雑な関係性のように思えた。
……ゲームでこの二人はヒロインを巻き込んだ三角関係、つまりはライバル同士に割り当てられたキャラクター、っていう知識くらいしかなかったけど。どうやら北之原先輩はかなり強めに中言先生をライバル視しているようで、一方中言先生はそれに全く気付いていない様子だ。中言先生だけが持つのほほんとした雰囲気は扱いづらいというか、それで北之原先輩が空回っているようにも見える。まあ、そもそもが大人と高校生だから軽くあしらわれてるってだけかもしれないけど。
「どうぞ、カフェラテです」
「わぁ、ありがとうございます。えっと〜、茂部さんはどちらの高校生ですか〜?」
私がカウンター越しにカフェラテを差し出すと、ふにゃりと笑った中言先生はそのまま私のネームプレートに目を向けた。しっかり私の名前を把握して呼んでくるあたり、おっとりしていそうで実は目聡いというキャラ設定を思い起こされる。今までに恭くんや美南くん、そして新平くんなどのイケメンたちを近くで見てきたけど……彼こそまさに“才色兼備”という言葉が似合う筆頭のイケメンだと思う。
「高校は、駒延です。二年生です」
「ああっ、そうなんですね〜。ところで茂部さんはピアノがお上手ですが、どこで習ったのですか?」
「あ、いや……ほとんど独学みたいな感じです。敢えて言うなら、さっきの曲は学校の先生に教わりましたけど」
「――やっぱり。太郎くんの教え子なんですね!」
驚いた。私もだけど、突然嬉々とした様子で立ち上がり声を張り上げた中言先生に、竜さんと北之原先輩もびっくりした様子で目を丸くさせていた。
中言先生はカウンターに両手をついて、ずいっと身を乗り上げるようにして前屈みになった。視線の先は、私だ。
「先程の譜面のアレンジは絶対に太郎くんだと思ったのですよ! 彼はお元気ですか? 音楽科ではなく社会科の先生になったと聞いていましたが……君にピアノを教えているということは、今でも音楽は続けているということですよね!!」
「ちょいちょい、タカよ。詠ちゃんが引いてるぜ、ちょっと落ち着け。……で、詠ちゃん! 太郎ってまさかあの太郎か? 俺も知ってるぜ、姫ノ上のちびっ子ピアニスト!」
明らかに興奮状態な中言先生を諌めながら、そう言う竜さんも食い気味に私へ迫ってくる。……そう言えば、佐藤先生も竜さんを知っていると言っていたような……そうだ、中言先生とも同時期に姫ノ上学園に通っていたから――でもこの感じだと、中言先生はかなり佐藤先生に対して好意的だ。佐藤先生から聞いてた話じゃ顔見知り程度だと思っていたのに……?
「あの……お二人が言ってる太郎って、“二番手奏者の佐藤太郎”で合ってます?」
一応、先生から聞いていたあの不名誉な二つ名を口にしてみる。と、中言先生はキョトンとした顔から一転、すぐに分かりやすく眉を吊り上げながら強い口調で答えた。
「二番手だなんてとんでもない! 彼は僕にとってのオンリーワンです! 僕はまだ諦めてないですからね、太郎くんとのセッションを!」
拳を固く握り締めながら熱く語る中言先生。先程までののんびりした雰囲気が嘘のようだ。竜さんは目を細めて微笑んでいて、「タカのこんな姿を見るのも久々だなぁ」と呟いている。
私はなんて反応すべきか困ったまま取り敢えず首を傾げた。そして中言先生の隣に座る北之原先輩は豹変した中言先生のことを椅子の上から見上げたまま口をあんぐりと開けて見つめている。その表情が少し面白くて、私は吹き出すのを堪えることになった。