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「即戦力じゃねぇかよう。いやぁ〜ほんっとうに助かるぜ!」
「い、いや……そんなことないですよ」
テーブルを拭いていただけで、カウンターの向こうに立つ竜さんが感嘆するようにため息をつきながらそんなことを繰り返し言ってくるものだから私は反対に居心地が悪くなるような、そんなむず痒さを覚える。
今日は私がこの音楽喫茶『メゾ・クレシェンド』で働き始めた栄えある一日目。竜さんは相変わらずのノリで接してくるけど、不思議と気疲れはしない。私の何倍もの人生経験があるからなのか、大人の余裕であったり私への気遣いだったりが何とも言えぬ心地よさを感じさせるのだ。
ただ、こんな風に毎分で私のことを褒め殺してくるのだけはやりづらい。悪い気分ではないのだけど、こんなに褒められたり全肯定される経験が今までにあまりなかったこともあってどんな反応をしていいのか困る。それでいて、このお店は平日はほとんどお客さんの出入りがないからずっと二人だけでこの会話ばかりなのだ。
「やっぱりな、女の子がいるだけで店がこう……パッと明るくなる気がするんだよなぁ」
「そう言えば……今は竜さんお一人って聞きましたけど、今までにバイトの人だったり店員さんを募集したりはなかったんですか?」
「時々謎の繁忙期があるんだこの店には。そういう時には臨時で雇ったりしてたけど、知り合いで手伝ってくれる人を探してたな。坊主――新平はあいつの母親から押し付けられたようなもんだったがな」
「ああ、ちょっとだけ聞きました」
ちょい、と竜さんが壁を指差したのでそちらに目を向けると、壁に掛けられたコルク板にたくさんの写真が飾ってあった。かなりごちゃっとしているけど、一枚一枚をよく見ると全部がこの店で撮られたらしい人々の笑顔の写真だった。みんな楽器を手にしているので、ここで演奏をした人や常連さんの写真だろうか、所々に竜さんの姿もある。
竜さんが指差した一枚を見ると、そこには不貞腐れた顔でトランペットを手にステージ上で仁王立ちしている少年の姿があった。幼さが残る顔立ちと服装からして中学生だろうか、こちらを睨んでいるような目つきをしていながらも、不服さが滲み出ている表情が絶妙に面白くて怖さは感じられない。
あれ? ちょっと待って。この少年の顔はどこかで……っていや、まさか?
「新平くんだ!?」
「可愛いだろ、この頃の坊主。ここを手伝わせてた頃でな、この時は何とか周りに協力してもらって囃し立てて、やっとの思いで演奏させた時の写真だ。あいつが演ってくれたのは後にも先にもこの時だけだったっけなぁ。あぁそうだ、ここにこれが飾られてるって坊主に言うんじゃねぇぞ? まだ気付いてないんだあいつ。知ったら勝手に剥がすだろうから」
「ってことは、勝手に貼ってるってことじゃ」
「坊主の母親には許可貰ってるから、大丈夫さ!」
端っこの目立たない位置だから確かによく見なければ気付かない、かもしれない。新平くん……見つけた日には大騒ぎしそうだなあ。でもこの写真の新平くんはまだ幼くて――か、可愛い。背もまだ伸びる前で……今と雰囲気はかなり違うけど、顔立ちは今にも名残があるように見える。私は“今”の新平くんの姿しか知らないから、何とも新鮮な気分だった。
「これらの写真を見るに、新平くんもそうですけど……このお店に訪れる人っていうのは竜さんの知り合いが多いってことですかね?」
「あー、まぁ平たく言えばそうだな。まぁ新規で来てくれたお客さんもみんな次の日には常連みたいな顔して来てくれるもんだから、自然とこんな雰囲気になってったんだろうな」
「それで大体お客さんの流れって言うか、一週間のルーティンみたいなのも把握してるってことなんですね」
「そういうこった。んで、そろそろ今日は常連の一人が来る頃だと思うぜ?」
壁の時計を見ながら竜さんが言う。時刻は夕方六時を過ぎる前、まだそんなに遅くはない時間だ。
そして竜さんの宣言通り、それから程なくして店の扉が勢いよく開かれた。
「――ごきげんようマスター。今日もボクがやって来たよ」
「おうよ、待ってたぜ」
突如現れたそのお客さんは、店に入るなり透き通るようなテノールの美声を響かせながらの登場だった。いきなりだったので私は反応に遅れてしまったけど、竜さんは特にそれを咎めることなく親しげにその青年に声を掛けた。
現れた青年が流れるような所作でカウンター席に座るのを、私は呆けて眺めることしかできなかった。本来なら私がやるべきだったのに、竜さんが青年に水を用意する。
青年は席に着くなり、優雅にその長い脚を組んで「いつもの」と言った。それだけで彼がここの常連であることは明白だった。
「ところで……見慣れないレディーがいるね?」
――そして、鮮やかなコバルトブルーの色を宿した瞳が私を映しながらそんなことを言った時、私はヒュッと喉の奥が詰まる感覚を覚えた。蛇に睨まれた蛙、と言うべきか。実際は睨まれた訳ではないけど、まさにそんな感じだった。
「知り合いの紹介でな、今手伝ってもらってんだ。いじめたりするんじゃねぇぞ?」
「まさか、ボクがレディーを泣かせるとでも? それは心外だよマスター。……しかし、彼女はボクが認知していないレディーだ。姫ノ上学園の子ではないよね?」
彼がそう言って首を傾げると、肩につく程度の長めの金髪がさらりと靡く。姫ノ上学園のブレザーがよく似合う、そして日本人離れした彫りの深い顔つきは息を呑むほど美しい。
「――こ、駒延に、通ってます」
「ああ、そちらの子だったか。あまりボクと変わらなそうに見えるけれど、三年生かい?」
「いえ、二年です……」
「そっか。ではボクが一つ歳上、だね」
柔和に微笑む姿はまさに眩い。緊張で情けなく声が震えてしまったけれど、彼はそんなこと気にも留めていない様子だ。と言うよりこの自信に満ち溢れた満面の笑みを直視しているとこちらも何だかどうでもよくなってくる気がした。
私はその、あまりにも見覚えがありすぎる顔にほとんどの確信を持っていた。ほとんど……いや、もうこれは確実と言っていいだろう。
「ボクは姫ノ上学園の三年生。絵画を愛する美術部員であり、生徒会長も務めている――そうこのボクこそが北之原財閥の御曹司であり完全無欠の存在――北之原絵里。この名前をとくと胸に刻んでおきたまえ」
攻略対象の一人、『無欠』の王子。北之原絵里……!
唯一の先輩キャラである彼は日本とカナダのハーフという西洋の血を持つ、ビジュアルにおいては他より抜きん出ている特徴を持つ色男だ。癖のない金髪と青い目の王子は定番中の定番であり、そして財閥の跡取りともなれば、容姿と設定で見れば彼こそがまさに一番“王子”を体現した存在だろう。
しかしゲームにおいてこのキャラクターはメインビジュアルを飾る存在ではない。ド定番の設定を与えられながらもメインに輝かなかった彼、その理由はこの――極度の“ナルシスト”にあると思われる。いや、これはこれで面白い設定だから別にメインでも私はいけると思ったけど。
実際、こうして出会ってものの数分であるにも関わらず私はすでにひしひしと彼のナルシスト発言を身をもって体感していた。実際目にすると結構な衝撃があるな、これは。でも顔がいいだけにツッコミもしづらい……と言うより口を出すのも烏滸がましいと思わせられると言うか、ナルシストなのはナルシストでも彼はあくまで“事実”を述べているだけだから。
「なぁ詠ちゃん、最近の若い子ってのはこいつみたいなのにみんな惚れてくもんなのかい?」
「どうでしょう……人によるかと」
竜さんが呆れ気味に耳打ちしてきたのを聞くに、竜さんもこの人――北之原先輩の自信に満ち溢れた言動には何か思うところがありそうだ。
そんな私たちの会話すらも聞こえていただろう当の本人は、それでもやはり「だから何か?」みたいな顔をして変わらず自信に溢れた笑みを浮かべたままだった。