四章 エキストラの話②
結局、助けを求めた相手は詠だった。当然と言えば当然ね、彼女はこの世界で唯一私と“同じ”存在だから。
私の様子が可笑しいことにはすぐ気が付いたらしい。その後、コテージに移動して……部屋に詠と二人きりにしてもらって、私は車内での出来事を詠に伝えた。
「……何だか、美南くんがどうして突然そんなことを言い出したのか想像ついちゃうなあ」
でもどうしてか、詠はそれを聞いても全く驚いた様子を見せなかった。何故……いや、冷静に考えて。客観的に見て、彗星が私に依存しつつあるのは公然の事実だったのは確か。ってことは、詠はいつかこうなることを予想していたのかしら?
どこか呆れたような含みを見せながら、詠は苦笑いを浮かべていた。思い返せば、彼女もいつだったか西尾兄……“推し”との関係性について頭を悩ませて、私にその胸の内を打ち明けたことがあった。今やそれが逆転してしまったと思うと、人生というのは分からないものだとつくづく思う。
「自分は卑怯だ、とか思わなくていいと思うよ。大事なのは今の自分が相手に対してどう思うかだと思う。あとは、相手の気持ちをちゃんと受け止めてね」
詠から核心を突かれて私は何も言えなくなる。実際、かつて私が彼女に掛けた言葉は「そんなに気にするな」だったし、あまり難しく考えてしまうのはよくないことだと分かってはいるのだ。
分かってる、分かってるんだけど。……要は、私が彗星に対してどう思うかってことでしょう。
彗星について考える。出会いから、今までの関係。……情けというか、やはり私が彗星に対して抱く感情は“同情”と“後ろめたさ”だ。
そこに恋愛観を持ち出したことはなくて、彗星に好かれたいとかそんなことを思ったことはなかった。……でも。
今回のキャンプは、間違いなく彗星を利用しようとした。もちろん、彗星のことが心配だったから……東条ダイヤという存在があまりに気掛かりで、それでまた彗星が傷付くのは嫌だったから。だから確かめたくて、彗星を利用してしまった。
そのツケが回ってきたとでも言うべきかしら。
……起きてしまったことは仕方がないし、私は私でこの感情……そして彗星の気持ちに向き合う他ないのだろう。
私は大きなモヤモヤを抱えたまま眠りに就く。当然だけど、あまりよくは眠れなかった。
そうして私にとっては複雑なまま、このキャンプ旅は終わりを迎える。
◇
彗星とはあれ以来、顔を合わせたりちょっとした会話くらいは交わせるものの、お互い気まずさを覚えたまま以前のような関係ではなくなってしまった。
私のせいでもあることは分かっている。と言うか、彗星はちゃんと私に気持ちを伝えて……それで私がそれに応えずにいるから、彗星もどのようにするべきか分からずに困っていることだろう。だから今の状況においては完全に私が悪い。分かってるのよ、それは私だって。
ゴールデンウィークが終わって、学校が始まってからもずっと私と彗星はそんな感じだった。同じクラスなだけに周囲の視線が痛い。普段からいつも私の傍に彗星が立っていたのに、明らかに気まずそうにしている二人を見たクラスメイトたちもさぞ困惑したことだろう。直接それを聞いてくる人はいなかったけれど。
「……辛気臭ぇ顔」
昼休み、教室での居心地が悪くて席を立ち、屋上にでも向かおうと思って廊下を歩いていると。ふと、俯いて歩いていたところで頭上から低音のイケボが降ってきた。
「大丈夫かよ。今にも死にそうだぞ」
「……私を心配しているの?」
「いや、お前の殺気で死にそうになってる周りの人間をな? ちょっと落ち着け、あまりにも顔が怖過ぎるんだよ」
廊下で鉢合わせたのは西尾兄。六月に入って衣替えの時期になり、さっそく半袖のシャツになった彼はより一層その身体つきの良さが際立っている。
彼は私の顔を覗き込むようにしながらそんなことを言ってきた。……そんなに恐ろしい顔になってたのかしら、気を付けないと駄目ね。
「飯食いに行くのか?」
「……屋上にでも行こうと思って」
「頭空っぽにしたいなら屋上はやめとけ、引くほど人多いぞ。一人になりてぇのか?」
私がそこで黙ると、それが答えになったと確信したらしい西尾兄は「じゃ、着いてこい」と言って歩き出した。ここで素直になるのは少し悔しい気もしたけれど、まるで心を読まれてしまったように扱われてしまえば従う他ない。実際、私は人の目が少ない場所に行きたいと思っていたから。
それにしてもこうして西尾兄に構われるのは初めてだった、こんなに面倒見がいいなんて。そういう性格だとは知ってはいたけれど、まさにお兄ちゃんって感じ。頼りがいがある、と言うべきかしら。
そうして、西尾兄に案内された場所は旧校舎の空き教室だ。今は使われていない教室だし、人通りも少ない。そこには誰もいなくて、西尾兄は「滅多に人は来ねぇはずだ」と得意気に言った。どうやら彼の隠しスポットらしい。
「……悪いわね、気を遣ってもらっちゃって」
「すれ違う通行人が気の毒だったんでな。で、俺は行ったほうがいいよな?」
「あ……待って! あなたさえよければ……っいえ、何でもないわ」
思わず呼び止めてしまった。でも、本当に思わずの行動だったのですぐに取り下げる。
しかし西尾兄は一度目を丸くさせたものの、何も言わずに私と自分の椅子を並べるとそこに腰掛けた。そのまま手に持っていた小さな手提げを近くの机に広げる。
西尾兄が自炊をするキャラなのは知っていたけれど、思っていたよりもちゃんとしたお弁当を持っていて驚いた。多分、自分で作ったのよね。明らかにお昼は購買で買った菓子パンとかかじってそうな見た目なのにこのギャップ、確かに刺さる人には刺さるかも。
そんなことを思いつつ、私も持参したお弁当を広げる。でも正直あまり食欲がなくて、私はお弁当を机に置いただけでそこから動けずにいた。
「食わねぇなら食ってやろうか?」
「ああ……別に構わないわよ」
「マジかよ。いや冗談さ、ちゃんと飯は食ってくれよ。ブッ倒れんぞ?」
「まるでオカンね」
このまま食べないと真剣に母親目線の説教が始まる気がしたので、私は静かに食事を始める。
西尾兄は食べるのが早くて、私がまだ半分も食べ終えていない内に自分のお弁当を平らげると無言でスマホを弄り始めた。……彼を無理に拘束してしまったかと、今更申し訳なく感じる。そんな私の目線を感じ取ったのか、顔を上げた彼は「俺は気にせずゆっくりよく噛んで食え」と言ってきた。やっぱりオカンじゃない?
私がお弁当を食べ終えるまで、西尾兄は何も言わなかった。途中で私が声を掛けたりもしなかったから、ただ二人で無言の時間を過ごしただけ。でも不思議と、私は気まずさを覚えたりはしていなかった。西尾兄もただそこにいただけで、私が呼び止めてしまったことに対する苛立ちなどを見せる素振りもない。
「いい人が過ぎるんじゃないの」
「あァ?」
「あなたのことよ」
私は笑いながら言ったけど、西尾兄は心底理解できていないように怪訝な顔をして首を傾けた。狙ってやっていないなら本当にただの善人だ。……いや、まさにその通りに違いない、西尾新平とはこういうキャラクターなのだ。
「あなた、詠から私と彗星のこと聞いたでしょ?」
「何のことだかな。だがお前ら、明らかに何かがあったのは見てりゃ分かるぞ」
聞いているかどうかの回答ははぐらかされたけれど、続けて西尾兄は呆れたようにしながら言った。この言い方は……本当に詳しくは聞いていないのかしら。でも、少し呆れた風なのはあの日コテージで詠に話を聞いてもらった時の彼女の反応と少し似ている気がした。
「その感じじゃまだ解決してねぇってところか?」
「……ちょっとね」
「何があったか知らねぇが……困ってることがあんなら協力すんぞ? 茂部も気に病んでたことだしよ。本当はお前らで解決させんのが一番なんだろうが」
きっと、詠と西尾兄は私たちに干渉するのは最低限と決めているのだろう。でもこうして長引いてしまっている以上、お節介を焼かざるを得ないと思われてしまったようだ。また自分で自分が情けなくなってしまう。
「……私が解決させなきゃ駄目って分かってるのよ。でもどうしても、答えと勇気が出ないの」
西尾兄は私の表情を窺っている。……もうここまで話してしまったし、彼ならば大丈夫だろう。私はもう、包み隠さず言ってしまうことにした。
「恋愛的な意味合いで“好き”っていうのが分からないの。あなたはどう? すぐに答えられる? 何をもって相手のことを好きって言えるか」
「好っ……、そ、そいつは、大層な悩みだな」
西尾兄は明らかに動揺している。その反応が新鮮だったので少し笑ってしまった。でも、西尾兄はそれで大体のことを察したらしい。少し考えたようにしてから「なるほどな……あァ、それであいつ……」とぼそぼそ呟いたりしている。もう、私たちがどういう状況なのか分かったことだろう。
「なんつーか……それに関しては、俺よりキョウに相談すんのが適役って気がするぜ。悪ぃが俺は惚れた腫れただのにはあんま経験がなくてな」
「そうなの? 結構遊んでそうなのに」
「お前……俺を何だと思ってんだよ」
だって明らかに女遊びしてそうな風貌じゃない。……でも、彼がそれでいて硬派なのはもちろん私も知っている。それでいて揶揄ったのだ、少し意地悪だったかしら。
「でも、そうだな……これは俺が個人的に思うことだが、別にその気がある訳じゃねぇのに弄ぶような奴はどうかと思うな。それで傷付く人間を間近で見てきた分余計に、な」
「あ……」
これは、もしかして――灰原姫乃と西尾弟のことを言っているのかしら。
昨年の話だったか、詠から相談されたことを思い出した。灰原姫乃が西尾弟を泣かせたって話。兄のほうがそれについて詳しく知っている……とは、この兄弟の関係性からして思っていなかったけれど。でも、一番近くで弟のことを見ていたのなら勘付いてないはずがないわよね。
灰原姫乃が実際に西尾弟に対してどんな仕打ちをしたのか。詠から聞いた話では、どうやらデートをドタキャンしたってことだったけれど……もしかすると他にも西尾弟が傷付く出来事は多くあったのかもしれない。
そして、自分に置き換えて考えてみる。私は……知らず知らずの内に彗星を傷付けてしまっていたのかしら?
「いやでもな、俺が思うにお前は大丈夫だ。そもそも“好き”ってのが分からねぇなら、やっぱ自分でどういうことなのか考えるしかないってことだろ? 知らない内なら仕方ねぇさ、俺が嫌ってるのは“分かっててやってる奴”のことだからよ」
「……分かってて、ね。そうよね」
私の顔が曇ったのを見て、西尾兄は慌てたように言い加えた。私は違うんだと言ってくれた、けれど。彼が言うように“分かっててやってる奴”とは、私も該当してしまうのではないかしら。
「お前は、感情がどうであれ美南のことを大事に思ってんだろ?」
――ああ、いや。違うわ。
私はそこまで考えて、ふと詠のことが頭を過ぎった。そう、これはかつて詠も悶々としていたこと。彼女もまた自分の“記憶”を利用したことに対して後ろめたさを覚えていた。
でも彼女は乗り越えて、私には言った。「最早彼らは私たちの知るキャラクターではない」――これに尽きるのではないか。
「今の自分が、相手に対してどう思うか……」
詠の言葉を復唱する。今の自分、今の私。……あまり覚えていないけれど、前世の私はあのゲームを手に取り、中言先生を好きになった。でも今の私はどうだ、中言先生のことは格好いいとは思いつつも別に恋心を抱いている訳でもない。
では、彗星は? ――罪悪感は、ある。でも何より心配だった、守ってあげたかった。それは決して邪な感情ではなかった。
「多分お前なら、自分で答え出せるんじゃねぇか。だってほら、お前は頭も悪くねぇだろうしさ」
「それはあまり関係ないと思うけど……でも、ありがとうね。少しすっきりしたわ」
私の中で答えを出すには、まだ少し時間が必要だと思う。でもどうすればいいのか、その答えは喉まで出かかっているような気がした。
「――西尾兄も、これを機に考えてみるのも悪くないかもしれないわね」
「え? 何をだよ」
「“好き”について」
「俺が!?」
同じような質問を詠にもした。彼女に対してはもっとストレートに、西尾兄のことが好きなのかどうかを聞いてみた。
答えは、少なくとも彼女は友達だと思っているそうだ。……でも実際どうなのかしら。私は、彼らはもっと深い関係になれると思うのだけれど。
「詠が推す理由も少し理解できたわ」
「お酢……? 好きの話じゃなくて酢の話か?」
「違うわよ。まあ、私たちは一緒に考えるとしましょ。自分の中の“好き”についてね」
私がそう言うと、西尾兄は難しい顔をした。ちょっと急かし過ぎたかしら。
西尾兄は好感度を上げても極端に反応が変わったりはしないキャラクターだったから、デレ具合が分かりづらい印象だった。その代わり好感度を最高値にすると分かりやすくデレ始めるから面白いのよね。
つまりは、多分彼は自分の中で自覚できずにいたのだと思う。ヒロインに対して“好き”って感情が。……そんなキャラクターに、この段階で自問させるのは酷かもしれない。
でも、いいわ。だってどうせ、この男は私が知るゲームキャラクターではないのだし。存分に悩んでほしい。詠との関係がこれからどうなっていくのか、私は楽しみにしているのだから。
少しの勇気を胸に。まだ気持ちの整理はついていないけれど、勇気は湧いてきたのだと思う。緊張した足取りで私は廊下を歩く。
西尾兄と過ごした昼休みが終わって、教室に戻った私は彗星に「放課後に話をしましょう」と声を掛けた。彗星はこれでもかというほどまでに目を丸くさせ、すぐに深く頷いた。その場では、それ以上の会話はなかった。
待ち合わせ場所は裏庭の花畑。彗星にとっては数少ない心安らぐ大切な場所。あそこなら邪魔も入らず二人で話せると思ったから。
でも、いざその時を目の前にした今はやはり足が重かった。憂鬱ではない、今までにないほどの緊張を抱えているからだ。心拍数が上がっている気がするし、額には冷や汗が滲む。
彗星はあの時、私に告白した時――半分は勢いで言ってしまったような印象を受けたけれど、少なからず緊張していたと思う。彼はあれだけの勇気を出したのだ、ならばそれには誠意で答えなければならない。
大丈夫。気持ちはまだでも、言うべきことは頭の中で整理できている。そう自分に言い聞かせるように心の中で何度も呟きながら、階段を下り始めた時だった。
「――は?」
視界が一転。間違いなく、背中を強く押された感覚があった。その瞬間だけは世界がゆっくり動いて見えていたような気がする。私が混乱している間に地面が視界いっぱいに広がってきて、
「――――っぐ、あぁっ……!」
咄嗟に肩を丸めて、まさに転がりながら私は踊り場まで落ちていった。庇うようにした左半身、肩の付け根と左脚に激痛が走る。息ができなくなるほどの痛み、声にならない叫び。
転がった際に頭を打ち付けたので、まず頭の中も視界も真っ白になってしまった。痛みに悶絶し、呻いているとやがて視界が開けてくる。同時に一気に頭が回転してきたようだ。
放課後の今、ただでさえ人通りが少ないこの階段。当然ながら周囲に通行人すらいない。自力で立ち上がろうにも痛みによって指先すら動かない。
涙で滲む視界で、私は必死に目を凝らした。階段の途中に誰かが立っていたのだ。普通に考えればその人物こそが今、私のことを突き落としたということ。
「――あ、んたは……ッ!」
呼吸をするのもままならない痛みの中、私は叫んだ。でも、名前を呼ぼうとしても続かない。その間、その人物は私のことを冷たい目でじっと見下ろしていた。
「お前が悪い」
ぼそりと小さく相手が言った。鈴が転がるような可憐な声と、誰もが目を引くような可愛らしい顔立ちを恐ろしいほどまでの憎悪の感情に歪ませ、そして私を睨みながら。
「私は悪くない。――お前らが間違ってるんだ」
「ま、待ちな、さ――」
呼び止めたところで意味はなかった。吐き捨てるようにそう言った彼女は、ゆったりとした足取りのまま踵を返してこの場から消え去った。
痛い。そして訳が分からなくて、私はらしくもなくその場で声を出さずに涙を流し続けた。痛みと混乱のせいで、ここで冷静に考えることなんてできなかった。
私は彼女を知っている。でも、実際に話したことはなかった。だから向こうは私のことは知らないはずなのに。
――灰原姫乃。どうしてこんな真似を?