四章 エキストラの話①
詠には言っていないことがあった。それは、今回のキャンプ――実は、“美南彗星”のイベントに関連することを意図したものだった。
詠は私と同じ転生者とは言え、西尾兄弟……主に兄のほうのルート詳細しか知らない様子だったから無理もない。だから敢えて今回のことは黙っていた、私の中での検証があったから。
実は、ゲームでは彗星の好感度を一定まで上げると発生するデートイベントに今回のような泊まりのキャンプがある。本来なら彗星から提案されるそのイベントは彗星ルートにおいて必須とも言える重要なイベントなのだ。
どうしてわざわざ、私らしくもないこんなことをみんなに隠れて画策したのか。それは、このイベントは本来『美南彗星、東条ダイヤの三角関係イベント』の一つだったから。
詠から東条ダイヤのことを聞いてからずっと気掛かりだった。本人には気にするなと言いながら、一番気に病んでいたのは恥ずかしながらこの私だったから。
やっと癒えてきた彗星の心の傷が、東条ダイヤが現れることによってまたぶり返したらどうしよう。それは私が一年生の頃から思っていたことだし、詠から東条ダイヤの話を聞いた時はかなり焦ったものだ。
東条ダイヤが姫ノ上学園ではなく、駒延高校に入学してきた。その事実が良い方向に転ぶのかは分からない、それに詠の話だと彼はかなり原作からかけ離れた容姿と性格になっていたらしいから。
彼が姫ノ上学園に入学しなかったのは嬉しい誤算だった。でも、本当にもう彗星と関わりが断たれたのか――その確信が欲しかったために、私は今回のイベントをわざと設定したのだ。
初めは私と彗星の二人でキャンプをしようと思っていた。私が考える最悪の事態を考えればあまり詠を巻き込みたくはなかったのだけど……でも、反対にもし何かあれば詠も状況を知っていたほうがいいと思って、詠も誘うことにした。すると何の因果か話を聞きつけた西尾弟も参加することになり、気が付けば……という状況だ。
逆によかったのかもしれない。彗星と西尾兄弟、そして私と詠……無理やり作ったこのイベントで、もし東条ダイヤが現れるようなことがあれば、この世界には“強制力”のようなものが働いていることになるだろうから。
ちなみにゲームでのこのイベントでは、彗星とヒロインがキャンプの計画について話していたところに東条ダイヤが突然現れて無理やり参加を決めるといった流れがある。寧ろ、今回の状況で言えば西尾弟がその役目を果たしたような気がするけれど。
東条ダイヤが現れなければそれで、私の中での杞憂はそれで消化できると思っていた。だからその不安を抱えつつも今回のキャンプは全力で楽しもうと、そう思っていた。
「トラ、大丈夫か」
「大丈夫よ……困ったわね、雨なんて聞いてないのに」
取り敢えず手に持ってきた保冷バッグを車に積み込んで、慌てて車内に避難した私と彗星。傘なんて持ってないし、二人ともびしょ濡れになってしまった。流石に気持ち悪かったのか彗星はマスクを外した、当然よね。
「車にタオルを積んでたはず……ほら、髪拭きなさい」
「いや、君が先に」
「私はあんたがレジャーシートを傘代わりに持っててくれたから濡れたのは肩と足元だけよ。あんたは見てるこっちが寒そうだもの、ほら早く」
助手席に積んでいた私のハンドタオルを手に取って彗星に押し付ける。かなり豪快に濡れている彗星は、前髪からぽたぽたと水滴が落ちているほどだ。彗星はこんな時でも遠慮がちにしていたけれど、私が強引に前髪にタオルを押し付けると渋々といった様子でタオルを受け取った。
彗星がサングラスを外す。久々に彼の素顔を見た気がする、相変わらず整った顔立ちだ。
私は外を眺めて、思わずため息が出た。天気が崩れてしまったことによる落胆もある。けれど、それ以上に私はほっとしているところがあった。
ゲームで私が知っていたイベントにおいて、こんな雨に見舞われるシーンはなかったはず。今日一日は周囲を警戒していたけれど、東条ダイヤが現れる気配もない。やはり自分の杞憂だったと、安堵のため息でもあった。
「……想定外、だったな」
「え? あ……そうね、災難ね」
私の表情を見てか、彗星が呟いた。慌てて私もそう付け加える、ここでほっとしただなんて言ってしまえばどういうことかと詰め寄られてしまうだろうから。
「みんな、ちゃんと避難はできたようだ」
彗星が窓の外を見てそう言った。瀬葉のおかげで荷物の被害も最小限に抑えられたし、私たち以外のみんなもテントの中に隠れたみたい。詠は西尾兄と隠れたようね、あの図体だと少し窮屈じゃないかしら……でも詠からすればラッキーかもしれないわね、推しと狭い空間に閉じ込められるって中々体験できるものではないから。
「……髪が濡れてしまっているな」
私もぼうっと窓の外を見つめていると、不意に彗星が私の髪先に触れた。何かと思ったけど、彗星は丁寧にタオルで私の髪を拭っている。このシチュエーションには小恥ずかしいものがあったけれど、今更その手を振り払うのも逆に恥ずかしい気がしたのでされるがままにしておく。
……と、思ったのだけど。
「……くすぐったいわ。大丈夫よ、自分でやるから」
あまりにも彗星が丁寧にやるものだから、長い間こうしている小恥ずかしさが勝ってしまった。顔を背けてタオルを引っ張るも、彗星は無言のままタオルを離そうとしない。はっきり言わないけれど抗議のつもりなのかしら。
「彗星。ちょっと」
「これくらいは尽くさせてほしい」
「なっ――」
かあっと、頬が熱くなる感覚。例え見慣れた顔、聞き慣れた声だったとしてもこんなことを真っ直ぐに伝えられてしまえば照れてしまう。
一瞬言葉に詰まった私だけど、すぐに手のひらで自分の口元を隠した。狼狽えている顔を、彗星に見られたくなかった。
「や、やめてよ。私は別に、あんたに尽くされたい訳じゃないもの。これくらいは自分でできるわ」
「そうか……だが、俺が君に尽くしたいと思うこの気持ちは、一体どうすればいいのだろう」
どくりと胸打つ音。この言葉は――私はこの“台詞”を知っていた。ゲームにおいて美南彗星が語る、好感度が高まった時に起きるとあるイベントでの一幕。
でも、すぐにその考えは捨て去る。だって私はヒロインじゃない――彗星は彗星だから、この言葉が自然に出てくるのは可笑しな話じゃない。そう、でも、だから……彗星が私に対して執着しているこの状況は、非常によろしくない。
「そんなこと言わないで。……私は望んでない」
「……どうして。だって俺は、君に受けたものを返したいと思うだけだ。しかし……迷惑というなら控えよう」
「違う、あんたを傷付けたい訳でもなくて……っ」
どうしてか今日は彗星との会話がままならない。余裕がないせいでもあるのだろう、そもそも今日の状況が私にとっては詠にも彗星にも後ろめたさしかないものだから。
「……傷付かないさ、俺は。君が為すことには意味があるんだ、俺は信じているから」
彗星が真っ直ぐに私を見つめて、言った。その言葉はさらに私の心を抉る。私だって勘付いてはいた、彗星は私が“何かを知っている”ことに気が付いている。それでいて私が傍にいることを良しとしているのだ。
それは私が一度彼を助けてしまったから。それ以来、彗星は私に対して『私がやることは正しい』と思い込んでいる節があるのだろう。全てを理解した上で、私が何かを知っていることを踏まえて。
それは、困る。だって私が彗星を助けて面倒を見てあげてしまったのはほんの出来心だった訳だし、この先もずっとそれを続けるつもりはなかった。そもそも私が知るのはゲームでの三年間だけで、その先の彗星の未来に私は存在していないものだと思っているから。
だから以前にも、私に執着するのはいつかやめてほしいと伝えておいたのに。
「駄目よ、私なんかを信じたりするのは。もっとちゃんと、あんたは……自分で考えて、自分でどうするのか決めなきゃ」
「考えている。その上で決めた、君を信じると」
「っだから、私だけじゃなくて! もっと視野を広く持ってほしいって言ってるのよ!」
「ならば言い方を変えよう。――君のことを愛している」
は、と声にならない声が零れる。何かを言おうとして、でも言葉にならなくて。
私の思考はそこで停止した。数秒経って、理解が追いつく。でもそれを処理しきれずに、私は口をぱくぱくさせるだけだった。
あ、あ、愛……愛している? 好きすらも超えた、愛。唐突かつ刺激が強過ぎる言葉だけど、これだけのインパクトのあるこの台詞もまた、私は知っていた。
ゲームで攻略対象キャラクターが最後に告白してくる時、彼らは総じてこの言葉を使うのだ。「愛している」と。
好きという生半可な言葉ではなく、ド直球な告白。プレイヤーとしては何だかむず痒い言葉だったけれど、乙女ゲームとして考えればこれくらい直球のほうが伝わるといった魂胆だろう。
いや、それはそれとして、よ。
彗星は今なんて? そして、誰を愛しているって?
「な、な、な、な、何を、ぃいい言い出すのよ突然、」
「……俺だって、この気持ちはまだ隠しておくつもりだった。だが、どうやら今の君に俺の言葉は届いていないようだから」
「ま、待って。本気で言っているの!?」
「ああ本気だとも。この際だ、言わせてもらう。君は以前に俺と約束したはずだ――俺を助けた責任を果たすと」
『君には俺を助けた責任があると、思わないか』
確かにあの時約束してしまった。だって実際その通りで、私は私自身が彗星に執着させるきっかけを分かっていて生み出したから。彗星が転生者のせいで被った不幸があるなら、私が知るゲームでの三年間はせめて無事に乗り越えられるように、そんな意味を込めての約束だった。
それにあの時は、彗星が捨てられた子犬のような様子でそんなことを言い出したから。
「君は、君が責任を果たすまで俺の傍にいてくれるのだろう。だったらそれまででいい、その時まで俺と付き合ってほしい。俺を君の恋人にしてくれないか」
「――――そんな、こと……言われても……」
私が身じろいだ時、私の髪を撫でていた彗星の手が頬に触れた。その時思わず、私は反射的にその手を払い除けてしまったのだ。違う、違うのに。傷付けたくはないのに。
手を払われた彗星だけど、表情は変わらなかった。マスクとサングラスを外してから見ていた表情は、私のことを愛しているだのと言った時から、そしてこの瞬間までぴくりとも動かない。彼はゲームでも冷徹だったけれど、これほどじゃなかったはずだ。これもきっと転生者たちの影響なのだろう。
けれど、今はその瞳が微かに驚きと悲しみの色を宿したのを私は見逃さなかった。もう長いこと一緒にいるのだ、彼の微妙な表情の変化くらいは見破れる。だからこそ、傷付けてしまったという罪悪感に苛まれた。
「……キャンプは、中止よ……」
「! ……待ってくれ、俺が悪かった。俺は……」
「違う、ここで帰るわけないじゃない。……コテージを手配するから、今日はそこに泊まるの。だからもう、片付けよ」
先程から車を打ち付ける雨音が小さくなってきていることには気が付いていた。窓の外を見ると雨はもう止んだと言っていいだろう、その証拠に少し離れた位置のテントから詠と西尾兄が出てきたところだった。
私は早足に車を降りた。彗星に背を向けて、もう顔を見合わせないように。
どうしらいいのか分からなかった。とにかく今は、誰かに助けてほしかった。