10
流石に雨に濡れた状態でこのままだと身体が冷える。私と新平くんは横並びの体育座りで、私はどこを見つめていいか分からないまま取り敢えず目の前の何もない空間をぼうっと眺めていた。
「――――。」
しばらくして、新平くんがため息をついた。深いため息だ。思わず彼の横顔を見ると、片手で目元を覆ってしまっておりその表情は分からなかった。
「……大丈夫?」
何となく、心配になってしまった私はそっと声を掛けた。どうしてか新平くんがいつもより一回りくらい小さくなってしまったような気がしたのだ。不思議なことに、このテントは今も窮屈なままなのに。
「音が……煩ぇな」
新平くんは顔を覆ったままぽつりと言った。音、となると……雨音? 確かに、このテントを打ち付ける雨音は結構な轟音だ。まるでバケツをひっくり返したかのような大雨、先程少し打たれただけで肌が痛いと感じたくらいだ。
「……新平くん」
名前を呼んでみた。けど、彼はじっと動かないままだ。私は少し焦っていた、新平くんのこんな姿を目の当たりにしたのは初めてだったからだ。
「雨も、煩ぇのも嫌いなんだよ」
――私はふと、ゲーム中のとあるシーンを思い出した。放課後に新平くんとヒロインが教室に二人きりで、大雨によって停電になってしまったシチュエーションだ。そこで雷に怯えるヒロインに、新平くんは優しく言葉を掛け続ける。私が大好きだったシーンの一つだ。
そんなイメージがあったからこそ、新平くんが雨音だけでこんなに弱々しくなってしまうことがあまりにも予想外過ぎた。いや、でも。そう言えば新平くんは人混みを嫌っている……それは単に人が多いから嫌なのではなくて、騒がしいから、が理由だったり?
「あの、ごめん、イヤホンとか持ってなくて」
……去年、初めて新平くんたちとお出かけした時。サーカス劇を見に行った時、開演前の騒がしい時間をジャズで乗り切ったことを思い出した。思い返せばあれが私と新平くんが初めて意気投合した瞬間だったな。
咄嗟に出た言葉がこの程度で、言ってから自分の情けなさを痛感する。明らかにテンパっているのが見え見えな自分の言動が嫌になった。
ゆっくりと顔を上げた新平くんと目が合った。一見、表情はいつもと変わらないように見えるけど、普段よりも表情がないように感じた。
でもそれは一瞬の間だけだった。
「なんでお前がそんなに慌ててんだ?」
「えっ!? いや、だって」
新平くんはそう言って小さく笑った。どうやら慌てふためく私が滑稽に見えたらしい。私としては複雑な心境だけど、どうやらそれで少し新平くんは和んだらしい。それだったらまあ、いいかと思った。
「まァ、俺にも少しばかり苦手があってな」
新平くんは私の顔をじっと見つめたまま続ける。先程より身体は強張っていないようだけど、それでもどこか緊張感があった。どうも、やはり新平くんはこの状況が落ち着かない様子だ。
私は戸惑う。だって新平くんが“雨が苦手”だなんて、そんな設定はなかったはずだから。それどころか雷に怯えるヒロインを慰めるイベントさえ用意されていたのに――どうして。
「どうしてか知りてぇか?」
まるで試すような口振り。思わず押し黙る、私は頭の中に浮かぶ様々な疑問ばかりを消化させるのに精一杯なのに。
「……言いたいの? 言いたくないの?」
だから思わず、疑問を疑問で返してしまった。嫌味に聞こえてしまっただろうか、言ってから口を押さえる。新平くんは面食らったようにして目を丸くさせたかと思うと……ふっとまた笑って、肩を落とした。
「素直だな、お前は」
「いやあの、ごめんなさい」
「謝んなって、困らせた俺が悪いんだからよ。……俺も素直になるか。ちょっと俺の、昔のトラウマ話を聞いてくれるか?」
新平くんはそう言うと、自身の頭上にあるテントの布を指で押しやった。相変わらず外は大雨で、雨音は煩い。でも新平くんの声は真っ直ぐに耳に飛び込んでくる。
「俺が八歳の時、親父が死んだ時の話だ」
新平くんは静かに語る。私は息を殺すようにして、じっとそれを聞いていた。
「交通事故さ。俺は、その場にいたんだ。そん時に雨が降っててなァ、それがどうも忘れられねぇんだ」
交通事故で亡くなった新平くんのお父さんの話。これは知っていた、知っていたけど。新平くんが語る“それ”は紛れもない事実で、私が知る“設定”でも何でもない。目の前のこの人が体験した現実で、私の目の前にいる新平くんが抱えるトラウマだった。
交通事故、お父さん、雨――そして人集り――その情景がどうしてか、私の脳裏に鮮明に浮かび上がってきた。目が眩んだような感覚があって思わず瞑目する。
「……大丈夫か。いやなに、突然悪かったな。こんな辛気臭ぇ話をして」
「あ……ううん、大丈夫……いや、新平くんこそ。それは、無理もない……よね」
新平くんが過去を語るシーンはゲームにもあった。けれど、やはりその詳細は特に明確に描写されていた訳ではない。だから、新平くんがお父さんの死に直面していたことは私も知らなかった。そしてそれに伴って、新平くんにとって雨がトラウマになっていることも。
「……交通事故の現場に居合わせたって……新平くんはその時大丈夫だったの?」
「正確に言うと、親父は車に轢かれたんだ。俺は親父と一緒にただ歩いてただけで、気が付いたら地面に転がってた。その瞬間に何が起きたかは今でもよく分かってねぇ。ただあとから聞いた話じゃ、突っ込んでくる車に気付いたらしい親父が咄嗟に俺のことを遠くに放り投げたんだってよ。親父は即死だった、そしてその車を運転してた奴も即死だった。救いようのねぇ話だよ」
そこで新平くんが、自身の二の腕に抱いている手にかなりの力が入っていることに気が付いた。指先が白くなるほど、かなり力を入れて握り締めている。
「俺はちょっとした打撲で済んだが、何が起きてるのか分からねぇままじっと救急車が来るまで呆けてたんだ。そん時、ずっと雨に打たれてたせいもあってか数日は寝込んだ。後にも先にも、あんなに熱出したのはあの時くらいだな」
口調は変わらずだけど、だんだんと指先の力が強まっている気がしたので私は思わず新平くんの指先に触れてしまった。そこで彼ははっとした表情を浮かべて、初めて自分の手に力が入っていたことに気が付いたらしい。……続けて何かを言おうとしたようだけど、言葉は出ずに視線が泳いだ。作り笑いはもうやめたみたいだ。
私は、また新平くんの指先が強張ってしまうのではないかと思うと、一度触れた手を離せずにいた。新平くんはそれ以上なにも言わない。私は新平くんの指先に触れたまま、視線は前をまっすぐ、テントの入り口に向けていた。――しばらくして、私は沈黙を破った。
「……しんどいね」
一瞬思った、“ヒロイン”ならなんて答えるだろうかと。でもその考えはすぐに捨て去った、こんなことを考えたって仕方がない。
最早、今この目の前にいる“西尾新平”は私が知る設定を持つ彼と同一の存在ではなかった。ならば私はヒロインの言葉を真似たとて、それは何とも薄っぺらいものになってしまうだろう。
「怖かった、だろうなあ」
私だったらきっと、死ぬ瞬間より目の前で“死”を見てしまったことに対する恐怖が勝る。
何故なら私は、一度“死”を自覚しているから。私には前世があったことを覚えている。
……実のところ、本当に死ぬ間際のことは曖昧にしか覚えていない。と言うより私は、最近は意図的に考えないようにしていたことがある。それは――不思議と“ハイ☆シン”のことははっきりと覚えているのに“かつての自分”のことを全く思い出せなくなっていたことだ。同じゲームをプレイしていた友達が何人かいたことくらいしか、身の回りの人たちに関してもその程度の記憶しかない。自分の顔や名前、家族については思い出そうとしても無理だった。……そもそも、元からはっきりと覚えていた訳じゃないけど。去年よりはさらにその辺りの記憶があやふやになった自覚がある。
はっきり言えるのは、私は高校生の時に死んだ。ゲームをプレイしていた真っ最中の時だ。でも確か、私もまた――交通事故で命を落としたような記憶が微かにあるのだ。でも別にトラウマにはなっていない、私は“茂部詠”としてこの世に生を受け、それから十六年間は過去のことを一切忘れて生きてきたから。
それでいて、私についてはもう少し謎な部分がある。私は今世においても、幼少期の記憶があまりないのだ。全くない訳じゃなくて、とにかく思い出が薄いという感覚。まあ、何度も引っ越しや転校を繰り返したせいでその土地ごとの記憶がごっちゃになっているだけだろうけど。だから時々、私はこの世界に馴染めていないような気がしてならない瞬間を覚える時がある。
「ごめんね。私は素直だから、こんな時に気の利いた慰めはできないんだけど」
だから私は、こんな風に現実を突きつけられるとどうしていいか分からなくなってしまう。何かに思いを馳せるのは苦手じゃないんだけど、私は人と向き合うことに消極的だから。
でもこの人は、新平くんは、私の知っている新平くんじゃなかったとしても――それでも彼は、私の中ではかけがえのない“推し”のままだった。
だから。
「新平くんには、これからずっとずっと幸せでいてほしいのに。どうしたらいいのかなあ」
ただ素直に、心の内を吐露する。これが私がずっと、切実に思っていたこと。
「――臭い台詞かもしれねぇがよ。止まない雨はない、とか言うだろ」
数秒経って、私の手に温もりが覆い被さった。見ると、今は新平くんが反対に私の指先を握っている。その表情はどこか穏やかで、先程までの緊張感はすっかり消えていた。
「俺は今、充分幸せだと思ってるよ。それはお前のおかげでもあるんだぜ」
「――――、本当に?」
「ああ、本当に」
にかっと笑った新平くん。その指先が天井を指したので、私はそこで随分と雨音が静かになっていることに気が付いた。
新平くんがテントの入り口を捲り上げる。と、まだ雨は降っているもののかなり雨脚は遠ざかっているようだった。
「おい、見ろよ。向こう側」
「え? ――あ、虹……」
二人でテントから顔を出して、新平くんが見やった方向を私も見ると、遠くの空に薄っすらと二重の虹が掛かっているのが見えた。
虹。……久しぶりに見た、気がする。新平くんが隣にいるからだろうか、それはとても特別な印象を受けた。
「あっ、すげー! 虹だよ執事さん! カメラカメラ、撮れる!?」
そして、少し離れた位置のテントから顔を覗かせた恭くんのはしゃぐ声が聞こえてきて、私と新平くんは顔を見合わせると――二人揃って、声を出して笑った。