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鳴り続けるスマホ――これは電話か。目を擦りながら片手で手に取り、画面をタップする。
だけどそこに表示されていた名前を目にして、私は一瞬固まった。……恭くん。彼の名前が表示されていたのだ。
てっきりトラあたりからの電話かと思っていた。ただ無視する理由もない、出るのが遅くはなってしまったけれど、私は通話ボタンをタップして応答した。
「もしもし?」
『あっ起きてた……明けましておめでとう! 朝早くにごめんね。今年もよろしく、茂部ちゃん!』
「こちらこそ、今年もよろしくお願いします」
元気な、それでいてちょっと眠そうな声が響いた。
気になったのが、声の響き方と雑音の感じが室内ではなさそうなこと。初日の出でも見るためにもう外出してるんだろうか? そう思っていると恭くんは向こうからそれについて切り出してくれた。
『今外にいるんだけどさ……』
「初日の出ですか」
『あ、うん。いやぁ寒くて寒くて……ちなみに茂部ちゃん、出てこれたりする?』
……一瞬言われた意味が分からなくて言葉に詰まる。恭くんもそれを悟ったのか、慌てたようにして続けた。
『いや今さ、茂部ちゃん家のめっちゃ近くにいるんだよね。もしかしたら起きてるかなーと思って電話してみたんだけど……初日の出、一緒に見に行かない?』
「一緒に……!?」
私は慌てて洗面所へ向かい、自分の顔を見た。顔は……まあいつも通りか。問題は寝癖だ、変な寝方をしたからか大変なことになっている。まあそんなに長くもないし、ちょっと整えれば大丈夫だとは思うけれど……。
「……す、少しだけお待ちいただいてもいいですか。支度しますので! すぐに!」
『あっ、うん! 大丈夫、ゆっくり準備して! 俺たち待ってるからさ!』
プツンと通話が途切れる。よし、恭くんは待ってると言ってくれたけど……さっきも寒いって言ってたし、この極寒の中いつまでも待たせる訳にはいかない。急いで支度しなければ。
適当に髪をまとめて、それなりに温かい服を選んで着替える。普段愛用の安っぽいジャンパーに手を掛けようとした時、脳裏に先日の恭くんの私服が浮かんだ。……王子と並んで初詣、それにこんなダサコーデでは逆に浮いてしまうのでは?
ふとソファに目が向いた。そうだ、私に掛けられていたコート。これが今一番この家にあるマシなデザインのコートだ。
それを纏うと、ふんわりと香水の香りがした。ジャスミン……だろうか。お母さんの香り。香水は苦手のはずなのに、どうしてかこの香りは別に嫌じゃなかった。
「……置いてったんだし、ちょっと借りてもいいよね」
汚さないように気をつけないと。……クリーニングに出したほうがいいのかな? まあいいや、今はせっかくだし借りちゃおう。
コートのおかげでかなりマシな、それどころか普段の私とはかけ離れた雰囲気の大人コーデになってしまったけど、これなら恭くんと並んでも問題ないレベル……だと思いたい。
貼らないカイロを握り締めて、私は意気揚々と家を飛び出した。
吐く息は当然白い。覚悟してたつもりだけど、あまりの寒さに外に出た瞬間硬直してしまった。
このままこの場で凍り付いてしまうんじゃ。ポケットの中でカイロを握っているけどあまり役に立たない。もっと大きいやつ三つくらい持ってくればよかった。
身体を動かせばいくらかマシになるかもしれない。家を出てから周囲を見渡してみるけど、恭くんの姿はここからは見えなかった。
少し小走りでメイン道路へ出てみる。まだ日が昇ってない時間帯だけあって人通りも車通りもない、静けさだけがそこにあった。神社に行けばもう人で賑わってるんだろうけど……見知った場所がここまで静かだと新鮮な気分になる。
ところで恭くんの姿が見えない。家の近くにいる、って言ってたんだけどな。少し離れているのかな? こちらも探そうと歩き回るとかえってすれ違ってしまうかも。
と言うことで、この辺で待ちつつ連絡を取ってみることにした。
コートのポケットからスマホを取り出す。電話を掛けたいんだけど、手がかじかんで上手く操作できない。何か液晶反応しないし。両手で一生懸命やろうにも中々思い通りの操作にならなくて、終いには鼻水が垂れてきた。
「さっむ……寒すぎ……」
ちょっと虚しくなって、思わず一人呟いてしまった。
指先を温めようとカイロをポケットから出したら、すぐに温もりが冷めてしまって役に立たない。
仕方なく息を吹きかけることで指の硬直を解こうと奮闘している、と。
ぴとりと、温かい何かが私の首筋に触れた。
――いやこれ。温かいどころか……
「あっっつ! 熱っ!!」
「……っお……す、すまん」
痛いほどの寒さには応える激熱な何かが後頭部に当てられ、私は大きく跳ね上がった。すぐに缶コーヒーか何かかと理解したけど、それと同時に誰かが私のすぐ後ろに立っていたことに気がつく。
頭上から降ってきた声は、少し戸惑いを混じらせた低い声。
この声はよく知っている、けれど最近は全く聞いていなかったあの声――そしてこの身長差は、
「え? あ……」
振り返る。
そして目の前に立っていた人を認識して、その瞬間に私はつい先程までの寒さも熱さも感覚まるごとどこかへ吹き飛んだような衝撃があった。
「まァこの寒さだ、すぐ冷めるだろ」
――黒のレザーコートに革の手袋がよく似合う、私の推しが。
新平くんが両手に二つの缶を持ってそこに立っていたのだ。
◆
「あ……な、なん――」
言葉にならない。いやそれどころか、頭が回らなかった。
でも一番最初に感じたものは、視界いっぱいに映る推しの姿に歓喜するオタク魂だった。それからすぐに、何故こんなところに新平くんがいるのかという疑問。
ほんの二ヶ月程度だ、会わなかったのは。それでも随分久しぶりに思えて、改めて新平くんを目にした時、やっぱり彼が好きなんだなあと感じた。
……前世から好きで好きで大好きで、新平くんのグッズは毎日持ち歩いていた。つまり私の推し活において、推しを感じなかった日はなかったのだ。
この世界で私が記憶を取り戻して以来、当然それから毎日新平くんのことを考えていたし思いを馳せていた。それが初めて、ここ数ヶ月は彼のことを考えないようにしていたのだ。
言わば封印だ。感情への封印を施していたつもり、だったのだけど。
腰が抜けそうな、でも寒さで身体が上手く動かなかったのでそれこそかなり変な中腰態勢のまま固まっている私を新平くんは無表情に見下ろしている。
元々の身長差に加えて中腰な私だ、まるで蛇に睨まれた蛙状態だ。
「おい。久しぶりだな」
私はこの再会の瞬間、何も言えなかった。でもこの衝撃によって私の体感が長かっただけで、実際はこの沈黙の時間はそれほど長くはなかったのかもしれない。
私の感覚でしばらくした時、新平くんは何でもないようにそう言い放った。
「いや……そうでもねぇか?」
――いいえ、そうでもありますよ。
封印していた気持ちが溢れ出るともう止まらない。久方振りの推しの供給に、私は平静を保っているような澄まし顔をするので精一杯だった。いや、この変な中腰のせいで平静を保っているとは言い難いかもしれないけど。
「……げ……んき、でしたか?」
「――おう」
何とか口にした言葉だけど、少し掠れた声だった。新平くんは一拍置いてから返事をしてくれる。その時、左側の口角がほんの少しだけ上がったのを見た。
「お前は変わりなさそうだな」
「あ……そ、そう、ですか?」
「あァ、その変に挙動不審な辺りが特にな。ちゃんと立てよ、んでこれ持っとけ。お前があんまり寒そうだからこっちまで冷えてくるような気がしてよ」
ぐいっと、二の腕を掴まれて身体を起こされた。……いやちょっと待って! アルバイト先がコンビニに変わってから重量物を持ち運ぶことが減ったから、最近二の腕のたるみが気になっていたところだったのに……!
それに今は厚手のコートを着込んでいるし、余計に腕が太く感じられたはずなんだけど。……い、いや、それにも関わらず新平くんの手のひらは大きかった。私の二の腕を鷲掴み状態だ。すぐに離されたけど、すでに私の心拍数は久しぶりに最骨頂へ到達していた。
それから渡された小さな缶ひとつ、ホットココアだった。きっとこれが先程私の首筋に当てられたものだろう。
素手で受け取ると、冷えた指先には少々キツいものがあったので袖越しにそれを手に乗せる。……何となく流れで受け取ってしまったけれど、私はそこでこの状況を省みた。
あれ待って、恭くんは? ……それよりどうしてここに新平くんが?
「――ごめーん二人とも、お待たせー!」
その疑問を心の中で唱えた瞬間、まるでそれに答えるようにして背後から元気な声が聞こえてきた。
全体的に黒を貴重としたコーデな新平くんとは対象的に、ファーの付いた白いコートに身を包んだ恭くん。
何やら布の塊を腕に絡めたまま、笑顔でこちらへ駆けてくるところだった。