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三章です!
「あれっ?」
夜九時、帰宅してリビングへ行くと、強い味噌の香りが部屋に充満していることに気がつく。
テーブルを見ると小さな付箋が一枚、そしてその上に五百円玉が置かれていた。
『拝借。――母』
「この感じは……ついさっきか。なんでいっつもすれ違うんだか……向こうが意図的に避けてるのかな……?」
冷蔵庫横に積み上げられているダンボール、お徳用のカップ麺の山から確かに一つが減っていた。多分、お母さんが先程帰ってきていたのだ。
私は分厚いジャンパーを脱ぎながら付箋を見下ろす。
もう、これくらいの厚着をしなければ寒さを凌げなくなった十二月末――姫ノ上学園での文化祭があった以降あたりからか、最近どうやらお母さんが定期的に帰宅している形跡が見受けられるのだ。
毎週火曜日と金曜日、夕方頃。帰宅の目的は何かを取りに来ているのか誰かを連れ込んでいるのか……驚くべきことにそんな中でも一度も会えていないので意図は分からないままだが、このくらいに帰ってきてはいつもカップ麺が一つ消えている。そしてこのようにメモ書きと律儀にお小遣い……カップ麺代なのかな、それを置いていくのだ。
まあ、お母さん以外に誰かが居たような形跡もないし。単に腹ごしらえが目的で帰ってきているのかもしれない。
とは言えもうすぐ年末、年越しだというのに――未だにこうして私とは会わないつもりなのだろうか。……最後に会った時、私も素っ気ない態度をとったのは少しだけ悪いと思ってるけど。
――当然だけど、こうして家で過ごしている間は私の独り言以外に喋る機会なんてない。
私は学校でもあまり喋る方ではないし、バイト先のコンビニでも定型文くらいしか言わないし……我ながら、順調に『根暗』の道を辿っているように思う。
こうして思い返すと前のバイト先ではかなり緩くやってたんだなあ、と思う。――休憩室でいつも新平くんと盛り上がっていたっけ。
……いけないいけない、思い浮かべた新平くんの顔、声、覚えていた全てを頭を振って無理矢理振り払う。
あれは夢。私は夢だと思うことにした。
あれ以来、私は新平くんと会っていない。連絡も取っていない。……向こうから連絡してくるなんてことは有り得ないし、私はメッセージアプリで新平くんの名前を見る度に胸が締め付けられる思いだったので、非表示にしてしまった。……流石に削除はできなかった。でも、いつか頑張って消したいとは思う。
それはそうとして。メッセージと言えば、トラからメッセージが来ていたんだった。明日会う約束をしているのだ、それについての確認らしい。
冬休み入ってバイト三昧だった私だけど、ついに明日は一日掛けてトラと遊び尽くす予定になっている。すっかり根暗になっている私にとって久々に陽気になれるまたとない機会だ、明日に備えて早く寝なければ。
楽しみだった。プライベートで遊ぶ友達なんてトラ以外にいないし、何より『今世』でここまで親しくなれた人は少なかったから――本当に楽しみにしていたのに。
翌日、バイト先から急遽応援を頼まれてしまった。
・・・ ・・・
用事があると言って断ればいいのだろうけど、何と言うかここの店長は少しばかり面倒な人で……五十を過ぎた独身の女性なのだが、あまり生意気な態度だとバイトから排斥されてしまうのだ。
どうしてこのコンビニが人手不足なのか、入って分かった。絶対にこの店長が原因で、この人が誰彼構わず追い出したりするからなのだ。加えてそんな光景を目の当たりにした新人は怯えてすぐに辞めていくし。
私は案外こんな場所でも上手くやれるタイプの人間のようで、店長からは特に目の敵にされることもなく穏やかにバイトを続けられている。……ただ、こんな感じで予定を潰されることが多々あるのは少し耐え難い部分もある。
トラに電話で謝ると、全然気にしていないどころかすぐに次の予定を決めてくれた。……申し訳ない。
……うん、今日は朝一からのシフトだし終わる時間もそんなに遅くならないはず、次の予定をモチベに頑張ろう。
――こんなことばかりだと、やっぱり以前のバイト先は学生の都合優先にしてくれていたし、かなりの優良物件だったんだなあと思い知らされる。……流石ヒロインが雇われるバイト先。
さて、それはさておき……土曜日のコンビニはそんなに混み合わないので身構える必要もない。お昼時は流石に大賑わいだけど、それ以外はぽつりぽつりとお客さんが現れる程度なので緩く仕事に専念する。
個人的に平日のシフトより休日に一日入っているほうが時間の経過を短く感じるのはどうしてだろうか。
「いらっしゃいませ!」
もうすぐ上がりということもあって気合いが入っていた私は、自動ドアが開いた音が聞こえたと同時に振り向いて愛想よく挨拶をする。
大抵の客は店員の挨拶なんて気にも留めずに素通りするところだけど、その時、その人だけは違っていた。
「――――」
息を呑んだのは相手か、私か、それとも両方か。
とにかくお互いの姿をほぼ同時に認知して、そして二人とも揃って固まっていた。
そこに立っていたのは一人のイケメン。そして私が知っている人だった。
問題なのは彼が心配になるほどの泣きっ面だったことで。
「…………っ!」
「あっ、ちょ……待った――!」
私の顔を見るなりダッシュで店を出て行ってしまったので、私は慌ててその背中を追いかける。
店を出る間際、品出しをしてた先輩に視線を送るとサムズアップをしていたので多分抜け出しても大丈夫ってことだろう。
彼は私が追いかけて来たことに気付いたらしい、一瞬こちらを振り向いてぎょっとした表情を浮かべていた。だけど立ち止まることはなく、それどころか逃げ足を加速させる。
は、速い――どんどん遠ざかっていく背中に為す術もない、少し走っただけで息が上がっていた私は掠れた声で「待って――!」としか言えず……そして情けないことにそのまますっ転んだ。
息切れのせいで視界がチラチラしてるし、転んだ衝撃でぐわんと目眩がした。転んだ瞬間にカエルが潰れたみたいな声が出たような気もする。
でも、それが功を奏したらしい。激しい息切れでしばらく私は蹲ったままだったけれど、しはらくして私の目の前に人が立ち尽くしていたことに気が付いた。
顔を上げると――明らかにおろおろとしている泣き顔の青年が。ただでさえ泣いていたのに、余計に涙腺を刺激してしまったらしい。それでも私のことを心配して逃げるのを諦めてくれたのだろう、何だか私のほうが情けなくてこっちも泣きそうになってきた。
私はぜぇぜぇと肩で息をしながら、何とか起き上がり彼と向き合う。
「な……何があったんですか……? ――恭くん」
「茂部ちゃん……ごめんね、俺のせいで……」
最後に会ったのは何ヶ月も前だけど、変わらず綺麗な尊顔を涙で濡らしながらそう言ったのは、私の推しとも関わりが深い例の人物――西尾恭くんだった。
盛大にすっ転んだ私だけど大した怪我はなかった。思いっ切りアスファルトの上だったけど、真冬で厚着をしていたため手も足も擦りむいたりはしていない。ちょっと膝を打ち付けて痛いくらいかな。
そんなに人通りは多くないとは言え、多少人の目が気になる歩道のど真ん中に居座る訳にもいかなかったので、取り敢えず私は恭くんを連れてコンビニへと戻った。
「何か買いに来たんですよね? 代わりに買ってきますよ、ここで待っててください」
「……えっと……水とティッシュを……」
頬の涙を袖で拭いながら話す恭くん、何だかその姿が痛ましくて私は急いでコンビニの中へと駆け込んだ。
彼はコンビニ裏の日陰に待機させて、私はポケットマネーで水とティッシュを購入してから恭くんの元へと戻る。……まさかコンビニアルバイトやりながらコンビニで買い物する日が来るとは思ってなかった。
「ありがとう……ごめんね茂部ちゃん、迷惑かけて……」
「大丈夫です。ここで休んでいきます? ちょっと寒いと思いますけど……」
「あ……ううん、長居はしないようにするから……」
――これはまずい。何がまずいかって?
絵面だ。
私はさり気なく目線を逸らし、恭くんを真っ向から視界に入れないように努めながら会話をしていた。
だってイケメンなのだ。私の好みじゃないにしても、二次元を切り取った三次元のイケメンが涙ながらにしおらしくそこに佇んでいるのだ、この破壊力は老若男女問わず心に大きなダメージを与えることだろう。
恭くんってわんこキャラの印象が強かったけど、今の姿はまるで捨て猫だ。どうも放っておけない、そんな母性本能を盛大にくすぐってくる姿をしているのだ。
そんな彼をどうして放置できるだろうか。否、無理だ。
ふと思い出した、姫ノ上学園の文化祭での出来事。
冷徹の王子様こと美南彗星くんとの出会いもこんな感じだったような。
ただ、彼の場合はまるでSF映画のワンシーンで化け物に追い詰められた時の人間の反応そのままだったから、今ほど私の心を抉りはしなかったのだろう。