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ふと身体が痛くなって、カーテンの隙間を見ると薄っすら日が指していた。いつの間にやら朝になっていたらしい。
一睡もできなかった。一旦スマホを置いて、伸びをしてから洗面台に立つ。……クマだらけの酷い顔だった。
徹夜してしまったのはやはりあのサイトを見ていたから。恐らく転生者によって作られ、この世界を知る転生者だけが集えるコミュニティサイト。
色々と納得した。スレッドの中には『文化祭』のタグがついた書き込みで、リアルタイムに新平くん含む攻略対象キャラの動向が記されているものばかりだったから。
「転生者だらけとか……」
これは、ちょっと。予想外だった。
一通りに目を通したと思ったところで、まさか一夜を過ごしてしまうとは。でもまあ、徹夜するだけの価値はあったと思う。
今日が日曜日でよかった。加えて、バイトは夕方からだ。午前中は少し休んで、なんとかこの混乱した頭を落ち着かせてからバイトに臨もう。
◆
――要するに、昨日の文化祭に押し掛けてきた熱狂的なミーハーたちは全員転生者で、このサイトによって集ったコミュニティサイトの集団……言わば、『信者』のような人たちだった、ということ。
色々と言いたいことはあるけど、まあ、いい。
疑問なのはその存在を教えてくれたあの人、『益子トラ』さん――彼女また転生者であるのだろうけど、一瞬で私も同類だと見抜いてこのサイトの存在を教えてくれたのはどうしてなのだろう?
……自分なりの考察で、ある程度の想像はしてみた。まずは昨日新たに出会った攻略対象キャラの一人、『美南彗星』くん。
彼はゲームでの性格と実際の性格で大きな乖離が生じているように思えた。そう、彼は自分のファンに酷く怯えていた。……これって、要するに『私たち』が美南くんの性格を捻じ曲げてしまった、ということなのでは?
そして益子さんは、ミーハーたちから美南くんを守ろうとしていた。だからつまり、私のことも転生者だと見抜いた上で私に釘を差すつもりだった、とか。
「――はあ。一人で考え込んでてもな」
思わず、呟きが零れる。周りに人はいなかった。
寝不足だった身体を休めようと、今朝から午後過ぎまで仮眠したはいいものの。やっぱり重たい頭と身体は解消されることはなく、結局この倦怠感を抱えながらバイトに臨むことになった。
昨日が文化祭だったからって、新平くんがシフト休みで本当によかった。昨日の今日、この衝撃のあとに平静を保てる自信はなかったから。
とは言えバイトはバイト、何とか目の前のことに集中して雑念を取り払うことに努める。こうして仕事に打ち込んでいる間は少しだけ頭も楽になれていたような気がした。
新平くんがいないのもそうだけど――お母さんが同じ家に居なくてよかった、とも思った。
ふと思ったのだ。お母さん、この四月から『私』が変わったことに気づいているのだろうか? ……前世を思い出してから会ったのがたったの一度、あの数分間だけだったし、気づいてるほうが驚きなんだけど。
新平くんの推し活に狂い始めた様子を誰にも見られていないのは幸いなことだ。それに、前世を思い出しただなんてお母さんには口が裂けても言えやしない。増してこの世界は『乙女ゲームの世界』だなんて……頭が可笑しくなったと思われるに決まってるし。
だからこの事実は私の胸に秘めて、一生抱えたまま私は『ただのモブ』としてこの世界でも生きていくもんだと、そう思ってた。
「見つけた」
俯いたまま、陳列台の前で立ち尽くしていた私の背中に声が掛けられた。聞き覚えのある声。若く、それでいて落ち着いた声色の女性の声――
「昨日ぶりね。詠」
ほぼ初対面、ながらも私を下の名前で呼ぶ数少ない顔見知り程度の相手。
私をここまで追い込むことになったきっかけの一人、そして転生者である益子トラさんがそこにいた。
・・・ ・・・
「ミルクティーひとつだけ? ここのパンケーキ美味しいわよ? あ、パフェもいいわね」
「いや……その……値段が」
「何よ、私の奢りじゃ食べられないって言うの? 昨日の覆面のお礼くらいに考えてくれればいいわよ。彗星も昨日からずっとあなたに感謝してたわ」
私のバイト上がりは日没後の少し遅い時間だったにも関わらず、私のバイトが終わるまで待っていてくれた益子さん。
彼女に連れられ、私は入ったこともない小洒落たカフェの一角で縮こまっていた。いやこの店、メニューの『ゼロ』の数が私の知ってるファミレスとかのメニューより明らかに多いんですが。カフェってこんなもんだったっけ……?
私服姿の益子さん。やっぱり全体的に落ち着いていて、でも全身ハイブランドで揃えられているってことは素人目に見てもすぐに分かった。手に持ってるバッグも、それ、中古で買っても簡単に手が出せないようなレベルのブランドじゃ……と考えたところで目がチカチカしてきて、目眩がしそうになったので考えるのをやめた。
「……ところで……益子さん」
「ん? トラでいいわよ、トラで。苗字で呼ばれるのちょっと苦手なの、お願い」
「あ……はい。ではトラさん……」
「待った。さん付けはなしで、はいどうぞ」
畏まろうとしたのを強制的にやめさせられる。……笑顔で私を見つめている、これには逆らえなかった。
「……トラ」
「フフ。なに?」
水の入ったグラスを片手に大人っぽく微笑む益子さん――いや、トラ。この人本当に同い年なんだろうか? グラスの中身がハイボールでも違和感ないと思う。……その佇まいがあまりに綺麗なので、少しときめいてしまった。
「あの、どうして私のバイト先が分かったんですか?」
「だって自分で言ってたじゃない、西尾兄と同じだって。ちょっと調べれば分かることよ。ま、たまたま立ち寄った先でシフトと被ってたのは偶然ね」
私のグラスの中の氷が溶けてカランと音が鳴る。
……言われて考えたけど、新平くんのバイト先が割れてるってこと? それってやっぱりあのサイトの情報だったり。……あれ、でもそうだとしたらお店にも昨日のミーハーが押し寄せて来そうなものだけど。
「詠。あのサイト見た?」
そのまま自然と飛んできた質問。ある程度の予想はできていたので、私も特に狼狽えることなく小さく頷いて返した。
トラはとても小さなため息をつくと、そのまま頬杖をして視線を宙に投げた。天井のシャンデリアあたりを眺めているようで、その動作に特に深い意味はなかったと思う。
「気づいてると思うけど。私も転生者で、あなたと同じ。この世界がゲームだって知ってるわ。……思い出したのは中一の時だったかしら……」
そう語るトラ。思い出したのが中学生の時……それじゃ、割と前から自覚はあったんだ。てっきりゲームのオープニングと同時に思い出したものだと思っていたけれど。
「私はつい最近、高校の入学直前です。ちょうどオープニングくらいの時でしたかね……思い出すのに規則性とかはないってことなんでしょうか?」
「そうね。多分、ないと思う。……まあ実際分からないけど、あのサイトを信用する限りじゃ今四十代以上の人でもずっと前から自覚してたみたいな話聞くわ。言ってしまえば私たちの親世代でも、前世では同級生だった……みたいなことも有り得るかもね」
まさに目から鱗の情報だった。それは考えたこともなかったな。前世でゲームをプレイしていた私も高校生だったと思うけど、当然、当時成人済みだったプレイヤーも多くいることだろう。逆に中学生とか、もしかしたら小学生だっていたかもしれない。
「それと、ちょっとだけゾッとする話だけど。まだ自覚してないだけの人だってこの世にたくさんいると思うのよ。……昨日まで普通に接してた相手が次の日には別人になってるだとか、私も少し前までは毎日そんなことに怯えてたわ。今は別にそんなこと気にしてないけどね」
……私は、そんなこと考えたこともなかったな。毎日新平くんのことしか考えて……なんか私、能天気だなあ。
トラみたいに前世を思い出してから年月が経ってる人は、私よりずっとずっと達観しているのかもしれない。トラが大人びて見えるのもそのせいなのかな。もしくは、前世の彼女もかなり大人な女性だったとか。
「幸い私の家族、周りの人に『それっぽいの』は今のところ居なそうなんだけどね。あなたは大丈夫?」
「お恥ずかしながら家族も友達も少ないので多分大丈夫だと……いやでも、考えたこともなかったです。自分の親が転生者なんて……普通の人……だと思うんですが」
思う、っていうかそう思いたい。
しどろもどろになりながら話す。歯切れが悪くて聞きづらいだろうに、トラはうんうん頷きながら聞いてくれていた。優しいな……昨日の鬼のような剣幕とはまるで別人だ。
「――確証は持てないけど、気付いたことがあるの。この街に長いこと住んでて、前世を思い出してから自分なりに色々考えたり調べたりしててね。あのサイトもその一つだったんだけど」
トラが話し始めた途中で、店員さんがミルクティーとアイスフロートを持ってきてくれた。そこで私は初めて周りの目を気にするように周囲を観察してみた。けど、店員さん含めて周りの客は誰もが私たちなんかの会話に興味を示しているような素振りすら見せていなかった。
店員さんが去り、再び二人きりになったところでトラさんは続ける。
「この街に住んでいる人間の中で、記憶持ちってかなり少ないと思ってるの。……それかもしくは、ある程度は常識的な人ばかりなのか……それともイケメンなんかには興味がないような人ばかりだとか」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。だってあのサイト見たら分かると思うけど、まず転生者はごろごろと存在してる訳でしょ? それで昨日の文化祭の奴らみたいな過激な奴もたくさんいる。でも、この街に住んでてあんなの見かけたことある?」
確かにない……かも。そうだ、さっき抱いた疑問、バイト先にミーハーが押し掛けたことがないのもそうだ。
私が前世を思い出してから半年そこら、即ちこの街に越してきたのはその程度の日数だけど、あんな異常な光景を目の当たりにしたのは昨日の文化祭が初めてだ。
「運命の悪戯とも言うべきか、それとも本当に神様の戯れなのか……不思議なことに、転生者が外部からこの街に引っ越そうとすると謎の力が働いてそれを阻害されるみたいなのよ」
「……それって……?」
「例えばどこのマンションも満室だったり、土地を押さえられなかったり。空き家やアパートを探してそこに決めようにも、そこの土地ごと誰かに買い取られてキャンセルになってしまったり……何度も撃沈している奴らをサイトの書き込みで見かけてるわ」
それって最早呪いじゃ? ……そう言えば、三月に私たち親子が引っ越しを決めた時のことを思い出す。かなりすんなり決まったはずだけど、それは私が転生者の自覚をする前だったからなのかな……? う、うーん、分からんなあ。
「要はこの街に『邪悪な存在』は入って来れないのよ。だから私、この街に住む転生者はみんなまともだって勝手に思ってるの。あなたのこともね」
「――こ、光栄です?」
邪悪て。にやりと笑うトラの顔が怖い。やっぱり昨日の鬼と同一人物だわこの人。
それはそうと興味深い話だ。ってことは、昨日の人たちはみんな文化祭の日を狙ってわざわざ遠くから足を運んで自分の推しに会いに来たってことだよね。
「それじゃ、今後も新平くんたちの日常は平穏なものが約束されているって思ってても大丈夫なんですかね? バイト先に昨日みたいな人たちが来たことはないんですが……」
「それは何とも言えないわ、引っ越して来れないだけで昨日みたいに押し掛けて来られちゃ為す術ないもの。……実際、それで彗星は中等部の頃からストーカー被害に悩まされてあんなザマに……」
一気にトラの表情が曇る。出てきたのは美南くんの名前。……深入りするつもりなんてなかったけど、この流れでどうしても気になってしまった私は思わず口を挟んでしまった。
「美南くん、何か過去に辛いことが? 本来の性格とは随分かけ離れてるな、とは思いましたけど……」
ゆっくり顔を上げたトラは、少しの間だけ黙っていた。何か、言うのを躊躇っていたらしい。でもそれはほんの少しで、すぐに結んでいた口を開いた。
「姫ノ上って中高一貫校でしょ? 私、中等部からあいつとずっと一緒だったのよ。勿論最初から親しかった訳じゃないし私も最初は記憶なかったから。……でもある時、あいつが部活の帰りの時かしら……薄暗い帰り道の途中で、カッターナイフを持ったおばさんに脅されてるところに出くわしちゃったの」
少し抑えられた声色で淡々と語られた美南くんの過去。その内容があまりに壮絶過ぎて、私は呆気に取られて何も言えなかった。
薄暗い道端で、刃物を持ったおばさん。恐らく転生者で、当時中学生の幼い男子生徒を脅してたって……想像するだけで恐ろし過ぎる。本人にとって酷いトラウマになりかねないことだろう。
「嘘みたいな話だけど、その瞬間なのよ。私が前世を思い出したのって。……一瞬迷ったわ、彗星って別に私好きなキャラじゃなかったし関係ないって。でも見過ごせなくて、持ってた鞄振り回しながら割り込んでやったの。彗星は恐怖で固まったまま動けないみたいだったし」
「……その後は大丈夫だったんですか?」
「私はちょっと二の腕をカッターで切られちゃったけど、彗星は無傷。私も命に別状はなかったし、私がその時大っきな悲鳴をあげたから遠くの通行人が何人か駆け付けてくれて、無事おばさんは取り押さえられたわ。逮捕もされたし、その後両親が私に手堅いガードを付けてくれるようになったし。それから彗星に変に懐かれちゃったのよ」
最後のほうはちょっと笑いながら、トラは話してくれた。……これが二人の出会いだったんだ。そっか、それで美南くんはあんな状態に……昨日の私との出会い頭、泣き喚きながら土下座をしていた情けない姿を思い出す。
そりゃ、そんなトラウマがあればそうなるか。
「それからもストーカーに悩まされてたみたいだったし、私も懐かれてたからある程度の虫除けくらいは協力してあげてたの。あいつすっかり身内以外には女性恐怖症になってたし。……それにね、あの頃の彗星は声変わりもしてなくて身長も私より小さくて……最初は『美南彗星』って気づかなかったくらいよ。それが今じゃあんなに可愛げが無くなって……はあ」
「拾った子犬を育てたら屈強な大型犬だったみたいな?」
「そうそんな感じ。そもそもね私、中言先生が推しなのよ! 彗星は寧ろ嫌いな部類で……愛想も礼儀もない奴って好きになれなくて。ったく何でこんなことに……ま、高校卒業までの縁だと思って付き合ってるけど」
トラは中言先生推し……と。なるほど確かに、中言先生と美南くんって正反対のキャラかもしれない。
それはそうと、何だトラ……美南くんのこと好きじゃなかったのか。てっきり狙ってるもんだと思ってた……失礼だったな。
「詠。あなたの推しって西尾兄?」
「え? あ……はい」
「珍しいわね……あ、いやいいと思うわよ! 悪い奴じゃないのよねあの男。弟ばっかり持ち上げられて不憫だとは思ってるの。……フフ、ごめんなさい……こうやって転生者同士で盛り上がるだなんて今まで想像もしてなかったし、あまりにも楽しくて」
それは、私もそうだ。ふと前世の自分を、あの頃友達と教室で毎日盛り上がっていた日々を思い出した。
ゲームは楽しかった。でも、それ以上にこの楽しさを共有できる相手と盛り上がるのも加えてあのゲームが大好きだったんだ、私は。
「私は中言先生が推しだから……最初は吹奏楽部に入部するつもりだったの。でも、よく考えたら私って別に楽器が好きでもないし……目的が先生って、それだけの半端で不純な動機の奴が入部するのって部自体に迷惑じゃないか、って思いとどまって。だから結局入るのやめちゃって……クラスも違うし、推しとの接点が作れなかったのよ……」
「……不純な……」
「でも、普通に過ごしている内に中言先生への想いも小さくなっていったっていうか……うーん、なんて言ったらいいのかしら。冷めたって訳じゃないのよ、普通になったって感じ。勿論今でも素敵だと思うし喋った日にはときめきが止まらないし。……それで、詠に言おうと思ったのはそういうことよ」
推しへの想いを語る乙女の表情から一転、真剣な眼差しをしてトラが言う。向き合った私も思わず背筋を伸ばした。
……さっきの話の中で私が引っ掛かった、『不純な動機』という言葉。トラは別に私のことを責めたつもりじゃなさそうだけど、それは私の心に刺さった。
だって私、推しと会いたいってだけでバイト始めたから。
これって……不純な動機なんじゃ?
「さっきも言ったけど、あなたのことはまともだと思ってるわ。だから西尾兄に執着する、なんてことは無さそうだから安心してる」
「…………」
「多分だけど、あのサイトで盛り上がってる連中も今だけだと思うのよ。だってゲーム通りならストーリーはもう進行中で、三年後にはエンディングよ。その後は私たちの含めてみんな年老いていくだけだし、その内落ち着くと思うの。……そう、今だけ。私も彗星とは高校までの関係だと思ってる」
――今、だけの関係。
「お互い過激なファンには気をつけて過ごしましょ。でも慎ましく生きるつもりもないわ。私たちは私たちの人生が、キャラクターにはこの世界での人生がある。……モブ、脇役、益子トラ――そんなのごめんよ、私は。この世界はゲームじゃなくて現実なんだから」
フロートをストローで啜りながら、トラは変わらず微笑んでそう言った。
私も手元のミルクティーに手を付ける。アイスを頼んだので、グラスはすっかり結露で濡れていた。
……トラの言った言葉を頭の中で繰り返しながらミルクティーを呷ると、グラスの底を伝ってポタポタと私の膝に結露の水滴が落ちた。――冷たかった。