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黒いスーツに茶髪の巻き髪。――この明らかなギャルこそが私のれっきとした実の母親なのである。
お世辞抜きで実年齢より十歳は若く見えるその人はモブ顔な私とは雰囲気がまるで違う。実際、並んで歩いた時に親子だと思われることのほうが少ないのだから。
「あ、カップ麺一個貰ったわよ。相変わらず自炊はしてないのね。それでその体型維持してるんだから、そこは私に似たのね」
「……別に構わないけど。どうして突然帰って来たの」
「帰って来ちゃまずかった? ……ま、昨日までの彼氏を振ったから宿無しになっちゃってね。ああ大丈夫よ、今日はホテルに泊まるから。明日以降はまた宛てがあるからそっちにお世話になるとするわ」
「……昨日まで、ね」
この人は止まることを知らないほうき星のような人だ。……都合のいい彼氏をひっ捕まえて、定期的にその相手を交換する。すごいのはその相手全員としっかり同棲していることだ。だからこの家にはほとんど帰って来ないんだけど。
私が中学の時までは半同棲のような感じで、一応は私と暮らしながら町内ですぐ家と行き来できるような距離に生活している彼氏を選んでいた。流石に思春期の一人娘がいる我が家に男を連れ込むような真似はしなかったし、今までの彼氏と私はまともに顔を合わせたことはないけど。……多分この人は誰も私の父親にする気はないだろうから、そもそも会わせたくないのかもしれない。
「で、今日って夏祭りだったのね。あんた珍しいわね、こう言うのに出向くなんて。あ、さっそく高校で男できたとか?」
「いや違うけど。別に私がお祭り楽しんだっていいでしょ」
手鏡片手にリップを塗りながら話すお母さん。やけに楽しそうだけど……ああ、お酒でも入ってるのかな。彼氏振ったばかりなのにこんなに機嫌がいいのも珍しいから。
「えー? そんな格好してるからてっきり、やっとあんたも彼氏の一つでも作ったのかと思ったのに。……いつでも彼氏連れ込めるように部屋の片付けはしときなさいよ?」
「してるから。そもそも物ないし」
「ってか、このでっかいピアノなに? 高かったでしょこれ。バイトでもやってんの?」
「これは貰いもの。バイトはしてるよ。……私着替えてくるから、お母さんこそ部屋散らかさないでね」
「はぁーい」
久々に会ったけど、何か前より若々しくなってる気がするのはどうしてだろう。……この人の精神年齢が幼いのか、それとも私が大人になったのか。
何となく長い時間この人から目を離したくなくて、私はできるだけ急いで浴衣から部屋着に着替える。
再び居間に戻ると……お母さんが電子ピアノを突いたり弄ったりしていた。何となくそれが嫌で「あんまり触らないで」と口調がキツくなる。……でもこんな時、私の言うことを聞いてくれたことはあまりない。
「あんたさー、これもそうだけど。あの浴衣も貰ったものでしょ? あんな可愛いのあんたの趣味じゃないでしょうに」
「だったら何?」
「ん? 別に。いいのよそれで、できるだけ周りに媚びて尻尾振って、貰えるものは貰っとくのが賢く生きるコツなんだから。あんたも私に似てきたわね?」
……私を、あんたと一緒にするな。
意気揚々と電子ピアノを運んでくれた先生と、確かに私の趣味じゃないけどみんなが選んでくれたミニ浴衣。……私はその人たちに媚びてこれを貰った訳じゃないのに。
一々お母さんの言葉が癪に障るのは今に始まったことじゃない。反抗期だった中学生の頃はここで私も癇癪を起こしたりしていた。……でも、ここで私が怒鳴ったってこの人は「何キレてんの?」と反省することなく笑ってばかりだと私も学習しているから、怒りは喉の奥にしまっておく。
「……何時何分までここに居るつもり?」
「あはっ、何その言い方。何時まで居てほしいの?」
「答えてくれる? その時間まで私外に行ってるから。電気と鍵閉めるの忘れないでね」
「あっそう。夜道には気をつけなさいよー」
全く、母親なのに何を考えているのか未だによく分からない。自由すぎる……いや、自分勝手すぎるこの人だけど、私がいくら泣いても怒ってもあの性格を直すつもりはないようだったし。
思えばお母さんは私がいくら喚こうが迷惑を掛けようが、お母さんが怒ったり泣いたりした姿は今まで一度も見たことがなかった。いつもヘラヘラ笑っているだけで……それがまた、私をイラつかせる要因なんだけど。
多分お母さんは私のことは全く心配とかしていないんだと思う。……放任主義ってのは理解してる。前までは愛されてないだとか、ネグレクトだとか私も被害者意識が強かったけど――今なら何となく、お母さんは私を信頼しているからこんなにノータッチなんだな、と頭では何となく理解していた。
だからって何も思わない訳じゃないけど。
だって私、高校生とは言えまだ子供だから。
……何の用事もないけど変な見栄を張って家を飛び出してしまった。お祭りの余韻に浸ろうと思ってたのに、気分はすっかり現実に引き戻されたような感覚だ。
私は少し歩いて、近所の誰も立ち寄らないような寂れた公園に足を踏み入れる。ブランコの砂埃を軽く払って腰掛け、ポケットからスマホを取り出した。
……メッセージが来てる。佐藤先生からだ。
そう言えば、花火が始まる前に「帰ります」とだけ連絡を入れていたんだっけ。
『放ったらかしてゴメンな! 花火観たか? スゴかっただろ。どうせならお前と一緒に観たかったんだが、来年に持ち越しだな!』
……先生、来年も私とお祭りに来るつもりなんだ。ちょっと笑ってしまった。
先生はよく私に友達がいないだの言ってくるけど、それは先生だって同じなのでは? ……生徒からは、特に女子生徒からはモテてると思うけど。同僚の先生たちとはあまり話で盛り上がっている姿を見たことがない。教員の中では最年少だからって理由かもしれないけど。
『先生は、来年までに彼女でも作って、彼女さんと花火を観たほうがいいと思います』
……何となく八つ当たりっぽいような棘のある返信をしてしまったかもしれない。でも、送ってすぐに既読が付いてびっくりした。今ちょうどスマホ触ってたのかな?
『痛いところ突いてきやがって!』
『お前が責任持って、俺の彼女作りにお前も協力してくれよ! 納期は来年の夏祭りまでだからな!』
なんで私が。……何だか、このメッセージの台詞が先生の声でちゃんと脳内再生できることに笑いが込み上げてくる。
先生いい人だし、きっとすぐ素敵な彼女さんできますよ……っと。まあこれはお世辞抜きの私の本心だけど、先生どこまで本気にしてくれるかな?
……先生と取り留めない話で盛り上がっていると、いつの間にやら心が軽くなっていたことに気がついた。……時間で言うとまだ数十分が経過した程度だけど。
ちょっと、私も頭が冷えた。……家に戻ろうか。お母さん、まだいるかな。
次に帰ってくるのがいつになるのか全く分からないし、その上普段は基本的に音信不通だし。せっかく会えたんだからこのタイミングで少し話をするべきなのかもしれない。
私は早足で家へ戻ることにした。……まだ居るなら、お母さんと腹を割って話そう。別に文句とかを言う訳じゃないけど、もっと親子らしい会話を何か。
――今はどんな仕事してるのかとか、仕事の疲れとかは大丈夫なのかとか、何か身体の不調はないのかとか。何だかんだで私も心配はしているから。……きっと、お母さんも私を心の内で心配してくれている……と思いたいし。
公園から家まではそんなに遠く離れていない。角を曲がればボロ屋敷のような我が家が見えてくる。家を出てからまだほんの数十分しか経っていない今なら――
――家の電気は、消えていた。ドアノブも回らない。鍵は閉まっている。……酒が入った様子だったけど、ちゃんと私の言うことは聞いてくれていたみたいだ。
私が出てからすぐにあの人も出て行ったのか。……何だ、本当に何かの荷物でも取りに来ただけ? それでまたしばらく何も言わずにいなくなってしまうのか。
……何だかなあ、もう。すれ違いと言うべきか、空回りと言うべきか。
私とお母さん、ちゃんと話せる日は来るのだろうか。
少なくとも私は今、その決意をしたところだったのに。……別にお母さんは悪いことをした訳じゃないけど、私は一方的にその決意を無下にされたような気分になっていた。