23(西尾恭)
蝉の声がうるさい街路樹の横を通り抜けて、やっと家に辿り着く。玄関の扉を開けると家の中はひんやりとしていた。どうやら兄はもう帰ってきていたらしい。
ハンドタオルで汗を拭いながらリビングに向かうと、まず目に飛び込んできたのはキッチンに立つシンペーの姿だった。
「おう、帰ったか」
「ただいま……って、シンペーこそ早くない!? だって今日は……」
と言いかけて慌てて口を噤む。今日のシンペーの予定は一応俺に隠しているはずだ。変に口走ったら気まずいことになってしまうだろう。
ただ、目を泳がせるとシンペーがまだ制服姿であることに気がついた。上のブレザーは脱いでシャツになっているけど、ズボンはそのままで。なにそれ、本人が隠す気がないじゃないか!
一人であからさまに慌てている俺に対して、シンペーはどこk余裕ありげな表情だ。フライパンを片手に、口元には笑みすら浮かべている。そんなに慌てた様子の俺が面白いのか?
「そう言うお前は今日も勉強か」
「ああ……そうだけど」
「捗ったか?」
俺のトートバッグに詰め込まれた参考書類に視線を向けたシンペーは、俺が曖昧に頷くと満足そうに頷き返した。……なんだ? 一体何なんだ、今日のシンペーはちょっと変だぞ。何だかやけに期限がよさそうだ。ちょっと意外だな、寧ろ超不機嫌になることを予想していたのに……。
「ところで、俺は次に進むことになったぞ。今度は県大会だ」
「ゴホッ」
冷蔵庫から取り出した水を飲んでいる最中にそんなことを言うから、動揺して少し水を零してしまった。俺は恨めしそうにシンペーを睨むが、当の本人は相変わらず機嫌がよさそうに笑っている。
「ちょっと! 俺に隠してたんじゃなかったの? こっちは触れないようにしてたのに!」
「そりゃお前……中言と俺を引き合わせたのはお前だし、そもそも気づいてただろ。だったらもう隠す必要もねぇ」
「そりゃ分かってたよ、今日コンクールだったんでしょ? 俺も気になっててずっとサイトの結果発表見てたから夕方はほとんど勉強してなかったよ! ああもう、おめでと!」
投げやりに言うと、シンペーは一度目を丸くしてからまたすぐに笑顔になった。俺は思わず肌をさする。さっきまであんなに暑かったのにこの部屋の冷房が効きすぎなのか、目の前の人間があまりにも不気味で頭が混乱しているのか。
「まぁ……そんなに達成感を得られたならよかったよ。いつかは聞かせてね、シンペーの演奏」
一度深く息を吸って気持ちを落ち着かせてからそう言った。シンペーは一瞬気まずそうに眉をひそめたけど、すぐにそれを八の字にして微笑んだ。
「……吹部のは、多分部活の連中が騒ぐのと、聞きつけて変な奴らが会場にごった返すかもしれねぇから我慢しろ。落ち着いたら中言が映像をくれるはずだ」
「そうだね、分かってるよ」
こんなことを言うと誰かに怒られそうだけど、俺はどうも人を寄せ付ける体質だ。母数が多いと、それが厄介事である確率も上がる。シンペーが懸念するように、俺がどこかへ行くと”俺”を目的にした大勢が押し寄せる可能性が高い。……噓みたいだけど、本気の懸念だ。そのせいで俺は中学生の時も友達の部活の試合ですら応援に行けなかった。顧問から理不尽に出禁を食らったりもしたし。特に高校生になってからはもっとすごいことになったきがする。友達はたくさん作りたいと思ってるけど、そういう人たちとはあまり仲良くすることができない。その人たちは、別に俺と友達になりたい訳じゃないから。
「で、秋に俺が一人で出ようと思ってるのがある。そっちに来い」
「え……」
「まず録音審査で進まなきゃホールでは吹けねぇけどな」
シンペーがポケットからスマホを出して、何やら手元で弄ったかと思うと、今度は俺のポケットのスマホが震えた。確認してみると、シンペーからあるサイトが共有されてきている。見てみるとそれは『ソロコンテスト』という、一人で楽器を演奏してそれを審査されるという内容のコンテストだった。高校生の部と書かれている……そうか、シンペーはこれに出場する気なのか。
「お、俺が行ってもいいの?」
「一応母さんと父さんにも声かける。来られねぇとは思うが」
「急にどうしたの?」
思わず聞いてしまった。だって、シンペーは今までずっと俺たちに隠してきていた。
本当は音楽が大好きだってこと。本当はシンペーにも音楽の実力があるってこと。高校生になっても、選択科目で音楽は取らずに別の科目を専攻していた。そしてそれはシンペーにとって――いや、シンペーの”お父さん”に関すること。シンペーは自分にある父の名残、面影を絶対に人に見せまいと振舞っていた。
それを分かっていたから、俺は今まで一度もシンペーに”お父さん”の話を聞いたことはない。マナさん、母さんに対してもだった。
「別に……せっかく受け継いだんだし、腐らせるのは勿体ねぇと思っただけだ」
シンペーは何でもないように、普段の口調のままにそう言った。俺は呆けてしまう。あまりにもあっさりとしていた。
「……ねぇ。シンペーのお父さんってさ、すごい人だったの? どんな人だった?」
「そうだな、名前で調べたら分かるんじゃねぇか。お前、母さんとかにも聞いたことないのか?」
「いや、ないんだよそれが。きっと聞いたら教えてくれたと思うよ、でも聞けなくてさ。父さんは知ってただろうけど、そっちに聞くのも悪いかなと思って」
俺は荷物を置いて、ソファに腰掛けながらシンペーに言われたように彼の名前を検索してみた。名前くらいは知っていたけど……俺の場合それだけだ。
「あれ? ねぇ、まさかこの人?」
「ん、合ってる」
「わぁ……この人、俺テレビで見たことあるよ!」
名前の検索だけで、その人の情報はどんどん出てきた。実は、顔も写真をかつてチラリと見ただけでちゃんとはよく知らない。こうして写真とシンペーを見比べてみると――顔はあまり似てないかな。でも、口元はよく似ている。でも改めて、シンペーは母親似ということがよく分かった。キッチンに立ったままのシンペーは俺の反応に一々返事はしていなかったが、時折こっちを見て笑っていた。そのふとした瞬間の表情は、この写真の人とよく似ていた。
色々見て回ったところで、俺は検索結果の一番上に出ていたサイト――敢えて見ようとしなかったそれを、ついに見ることにした。
それは、ある記事だった。
とある音楽家の、死亡を告げる痛ましい事故の詳細が記された……今からおよそ十年ほど前の記事。
そこには、シンペーのお父さんが一台の車に轢かれて亡くなったということが書かれていた。とんでもない方向にひしゃげて大破した軽自動車の写真が載っている。
大雨の日の夕方、薄暗くなった視界の中で、歩道を歩いていたシンペーのお父さん――高良氏の元へ、加速した一台の車が突っ込んだそうだ。人通りも車通りも普段から少ない広めの道で、高良氏に衝突するまで障害物など車を邪魔するものは一切なかったという。調査の結果、車に減速した形跡もなかったようだ。
運転手は飲酒運転であったと書かれていた。しかし、加害者であるその人も即死であったらしい。
――俺は、シンペーの左肘と左足に大きな古傷があることを知っている。かなり薄くなっているけど、酷く擦りむいた痛々しい痕だ。これは、その時の事故で負ったものと昔聞いたことがある。
「――ところで、お前の方もそういや今まで聞いたことなかったな」
料理が完成したらしい、器用にフライパンを揺らしながら皿に野菜炒めを盛り付けているシンペーがおもむろに口を挟んできた。
「お前、母ちゃんのことは覚えてんのか?」
「ああ、いや……物心つく前にいなくなったらしいから、俺は全然。写真とかもほとんど捨てちゃったからな……父さんに聞いた話だと、どうやら俺にはあんまり似てないってことだけど、でも……」
そう答えると、シンペーは難しい顔した。そうだよね、コメントに困ると思う。俺の母の話は本当に難しくて、今も生きてるかどうかすら全く分からないし。
あと、父さんは昔しきりに俺に「お前は母親には全く似ていない」って口癖のように言っていたけど、そんなことないと思うんだよね。だって俺、見た目以外のところで父さんにあまり似てないから。つまりそれ以外のところは母の要素なんじゃないか、と思ったりする。
そう、父さんは真面目すぎるところがあって、それでいて心の強い人だ。対して俺は弱い、身体も心も。
「母も、あんまり強い人じゃなかったんじゃないかな」
これは想像でしかない。両親の間に何があって、そこに俺はどんな風に関わっていたのかも分からない。ただ、今更知りたいとも思わないかな。これは昔からそうだった。だって恋焦がれるような、そんな思い出すら一切俺にはないのだから。
「お前は確かに貧弱なところがあるが、強情なところもあると思うけどな」
「うーん……それ褒めてる?」
シンペーがテーブルに料理を並べ始めたので、俺も皿を用意する。そう言えば、今日はシンペーが遅くなるだろうから俺が夕飯の用意をする予定だったのに……自然な流れで押し付けていたことに今気がついた。
「ヤベ……明日は俺がご飯担当ね。ここ最近任せっきりになっちゃってた」
「明日は俺も休みだし、別に気にしてねぇぞ?」
「ダメだよ、シンペーにも楽器の練習時間と、あと忘れずに受験勉強時間が必要だから!」
「ぐっ……」
”受験勉強”という言葉に分かりやすく表情を歪めたシンペー。もちろん忘れてた訳じゃないだろうけど、シンペーの中で優先度を下げているのは明らかだ。これは非常によくない、本当に本当に大事な時期なんだからさ。
「赤点取ったら、部活動制限もされちゃうよ? ただでさえ三年生はさっさと引退させられるんだから!」
「こ、これでも今まで赤点は取ったことはねぇぞ」
「赤点じゃなくても赤点みたいな点数だったら変わんないよ? 俺が教えてあげてもいいけど」
「何だよ赤点みたいな点数って、だから赤点じゃねぇわ。……お前に教わるのはまだ先だ」
それは、いつかは宛てにされてるってこと。……本当に大丈夫かな?