《無欠》
車の中から窓の外をぼうっと眺める。日は傾き、少しずつ視界が悪くなっていく。まだ目当ての人物は見掛けていない。もしかすると見逃してしまったのかもしれない……そんな不安が胸を過ぎった時、やっとその人はふらりと現れた。
「ごきげんよう。ご無沙汰していたね」
運転手には一言、迎えの際には呼びつけるとだけ伝えてボクは車を降りる。そして彼の元へとゆっくり歩み寄って声を掛けた。
「ん? お前は……ああ、絵里! なんだ、髪型が変わってたもんだからパッと見で気付かなかったよ」
着古した印象を受ける黒いウィンドブレーカーに身を包み、小さな鞄一つを手に一人真顔に校門から出てきた太郎サン。ボクの姿を確認するとぱっと表情が綻び変わる。
その微笑みを見てやはり思う。彼は、外聞を取り繕うのにかなり長けた人物だ。教員職向きと言えばそうなのだろうけど、その内側から心が擦り減っていく生々しい痛みをボクはよく知っている。幼い頃より表舞台に立つ機会の多かったボクは、嫌でもその能力を身に着けなければならなかったから。
ただしボクは読心術は心得ていない。だからボクに分かるのはただ一つ、太郎サンがボクを見て取り繕ったことだけ。つまり、彼がボクに対してどんな感情を抱いているのかは分からない。もしかすると面倒な奴が現れたと思っているのかも。まぁ、その可能性は高いだろう。それでもこうして外面だけでも歓迎してくれているのだ、ならばその優しさに今は甘えておくことにする。
「それにその格好。ホント、高校生には見えないな。俺より大人びて見えるんじゃないか?」
「まぁね。いいじゃないか、若々しさは誰しもが憧れる魅力の一つだ。それを保つのが難しいところだけれど、ね。それに太郎サン、ボクはもう高校生ではないんだよ」
ボクが学園の制服ではなく、自社ブランドでデザインしたスーツ姿であったこともあってか、ボクから見ても確かに太郎サンの方が歳下に見えてしまうかもしれないと思った。
太郎サンはボクの言葉に一瞬怪訝な表情を浮かべて、それからすぐに納得したように頷いた。彼は続けて言う。
「あーそうか、お前さんはもう卒業生か。そっかそっか……あ、茂部から聞いたぞ! 音楽学校に進学するんだって? 卒業おめでとう、これからも頑張れよ!」
「ありがとう」
先週終えた卒業式で何度も聞き飽きた言葉だったけれど、こうして太郎サンから言われるとまた違った感情が胸を占める。
ボクは腕時計を見やる。時間は……想定より少し押してしまったが、まだ想定の範疇だ。
「太郎サン、すまないがこのあと少しだけボクに付き合ってくれないかい。なに、卒業生のボクへの餞別だと思って享受していただけると嬉しいな。勿論無理にとは言わないけれど……でも、今日で最後だから。……どう、だろうか」
「このあと? 俺とか?」
わざわざ待ち伏せまでしたんだ。懇願するような目を向ければ、太郎サンは困ったように眉をハの字にさせた。ただ迷惑そうというよりは、戸惑いのほうが大きいようだ。ま、それも当然か。
「なんだ、まさかタカ先輩絡みじゃないだろうな? だったら悪いがお断りだぞ!?」
「あぁ。違う、違うよ。今日はミスターとは一切の関係はない。ただボクの個人的な用事さ。確かにボクと太郎サンを繋ぐものと言えばミスターの存在ではあるけれど」
「そっか。んじゃ、構わんよ」
太郎サンはそう言ってへらりと笑った。それにボクは心底安堵する。あぁ、よかった。彼が心根の優しい人間であることに感謝しなければ。
「では歩こう。なに、そう遠くに連れ出すつもりもないから安心して? ボクがエスコートしてあげよう」
「お……おお、そりゃ光栄なこった。あー、エスコートなんてナリじゃないんだがな俺は」
ボクだって歳上の男性をエスコートするのは初めてだ。この歳になって、お互い不思議な初々しさを感じながらボクたちは街中を歩いた。道中、取り留めのないような日常の話を交えながら。
◇
「……そう言えば。絵里、お前は美術部に所属してたって聞いたぞ。あと生徒会もやってたとか? で、学生にしてファッションブランドも持っててモデル業もやってて……こうして言葉に並べるととんでもないな。お前、凄すぎるぞ」
「そんなことはないよ。寧ろ、学生生活を思い返せば後悔ばかりだ。ボクはもっとやれたはず」
駅前の落ち着いた雰囲気の喫茶店に腰を下ろしたボクたちは、壁際のテーブル席で向かい合わせになってそんな会話を繰り広げていた。太郎サンは初め自分の服装を随分と気にしていた様子だったけど、席の位置が他から隠れた閉鎖的な空間だったからかすぐに気が抜けたようだった。……先程からコーヒーにしか手を付けていないのが気になるけれど。
「俺はさ、あんまりそういうの詳しくないが。ブランド立ち上げてる学生モデルがいるってので名前くらいはお前のこと知ってたぞ。あと、絵画でよく賞を取ってただろ。俺、駒延では美術部の副顧問をやってるからそっちにはちょっと詳しくてな」
「へぇ。太郎サン、美術部に携わっていたんだ」
「まあな。ちなみにメインの顧問は演劇部さ。……人数不足で廃部寸前だが。副顧問としては美術部、写真部、茶道部、オカルト研究部をやってるぞ。この辺はほとんど名ばかりだけどな」
……聞いてて思う。いやいや、太郎サンだってかなりマルチに活躍しているじゃないか。何ならボク以上に兼任業が多いんじゃないか? それでいて本業は教師として教壇に立つことなのだから。
そしてその話の流れで、ボクは兼ねてより気になっていたことを口にしてみる。
「意外だね。太郎サン、音楽に関係する部活には関わっていないだなんて。専攻科目も音楽ではないのだろう? あんなに音楽のセンスがあるというのに」
「んん……痛いとこを突くな。まあ、声が掛からなかったって訳じゃあないが。部活の話で言うなら、俺は別に音楽学校も出てないし趣味でちょっと音楽を齧ってるだけのレベルの奴なんだぞ? その程度で吹奏楽部の顧問とかは荷が重いだろ」
「十分なほどに才能はあると思うけれどね。そうだよ、そもそもどうして音楽の道に行かなかったんだい? だって学生の頃はミスターと共に吹奏楽部に所属し、部長も務めていたんだろう? 竜さんから聞いているよ」
「おいおい、そんなことまでバレてんのか」
あまり詳しく聞いた訳じゃあないけれど、そも。学生の頃よりメゾ・クレシェンドに通っていたという時点でまず音楽通であることは確定だ。だってあのお店には音楽好きしかやって来ないからね。
それでいて常連となれば、マスターが目を掛けた人物であるということだ。ボクの目、そして耳を通しても太郎サンが相当な音楽経験を積んできたことはすぐに分かる。だからこそ、だ。
「太郎サンは――中言崇史の存在に進路を阻まれた、と感じたことはあるのかな。と思って」
「……なるほど?」
はっきりと口にしてみると、太郎サンは案外平然とした様子でその言葉を受けた。少し驚いた、もう少しこう……狼狽えるとか、口ごもるとか、気まずそうにするかと思っていたのに。
ただし太郎サンは「うーん」と唸り、それに続く言葉はまだない。言葉に詰まるというよりは、言葉を選んでいるように見えた。
「逆に聞くけどさ、絵里。お前はタカ先輩に影響されて音楽の道に進んだのか?」
「……ボクの話かい?」
答えを待っていると、飛んできたのは自分への疑問だった。ボクのことを聞かれるとは思っていなかったので、すぐには答えられなくて首を傾げると太郎サンは慌てたようにしながら「えっと、」と続けた。
「すまん、話を逸らしたってつもりじゃないんだ。たださ、もしお前が――俺と自分を重ねてるってんなら、それはちょっと違うぞと言いたくてな」
「……重ねてる……」
「あ、待った。そいつはちょっと語弊があるな。俺なんかとお前が同列な訳ないんだが、要するにさ。“共通項”を探してるんじゃないか? まあここまで言ったんではっきりさせると、タカ先輩のことだ」
ボクはそこまで多くを語った訳ではなかったけど、太郎サンには大方のことがお見通しだったようで。ボクは何も答えず、その無言が彼への答えとなる。自分は今どんな顔をしているのだろう。……外聞を取り繕うことはお手の物だったはずなのに、今だけはどうも上手くいかないようだ。
「絵里は、絵画で賞を取るくらい美術の才能がある。デザイナーとしても名を売ってる。で、モデルとしても活躍してる。他の人と比べて、絵里にはたくさんの進路……選択肢があっただろ? そんな中で音楽を選んだ。当然、お前にはそっちの分野でも輝けるだろうって俺もよく知ってはいるが……音楽を選んだのはタカ先輩に憧れて、って認識で合ってるか?」
「少し違う。ボクはミスターを超え――いや。まずは同じ場所へ辿り着くために、かな」
「そっか」
普段の声よりも少し低い声が出た。太郎サンから視線を逸らして、店内の壁に飾られた装飾品を眺めながらボクは答える。太郎サンは今のボクを見て何を思っているのだろう。……ただ、彼は変わらない調子で続けてくれた。
「だったら尚更違うな、俺とお前は。俺はさ、一度だってあの人のことを“超えよう”だなんて思ったことはないんだ。憧れることも、嫉妬することもなかった。俺にとってあの人は完全に――“別世界の人間”ってヤツだよ。テレビの向こうの人みたいな。分かるか? 初めて見た時にすぐ思ったよ。“勝てないのが当たり前”だってな」
「…………。」
そこでコーヒーを一口。そのあと何も言わず、太郎サンはそっと角砂糖を二つ足した。どうやら苦味が強かったらしい。
「だから俺は自分とあの人を比べたことはない。勝手に誰かから比べられたことはたくさんあったけどな? 二番手奏者だのと言われたり。それには腹立ってた時期もあるにはあったが、まあずっと思ってた。「何を当たり前のことを?」とな。だから俺とお前は全然違うんだ。俺は努力すらしていないプータローみたいなもんだよ」
「そう、言われると。現実を突き付けられたような気がするね。……その通り、ミスターにはきっと誰も勝てない。それはきっと、ボクでさえ……」
言ってからハッとした。何故今ボクは、こんなことを。まさか弱音を吐いたというのか。慌てて口を噤もうにももう遅い。太郎サンも目を丸くさせてボクを見ていた。居た堪れなくなって視線を落とす。……らしくもないな。
「彼はまさに完成された天才。音楽の才が特に秀でているけれど、何をさせても卒なくこなすことができる――“完璧”。それは、理解している。ボクはただ……自分もそうでありたい。けれど、生まれ持った才にはいくら努力しようとも辿り着けない境地はある。分かっているんだ。だからボクはせめて何一つ自分の持っている才覚を欠けさせたくなくて、ひたすらに努力してきた……せめて自分は無欠の存在であるために……」
「そんなに気負うことないと思うがなあ。いや、お前のことを否定する訳じゃあないぞ。確かにタカ先輩は怖いくらいに完璧だけど……」
変わらない調子で明るくそう言う太郎サンに、ボクはゆるりと顔を上げた。太郎サンは微笑んでボクを見つめている。“無欠”でなければならないボクが不意に曝け出してしまった欠点を目の当たりにしたというのに、この人は。
「なにも、完璧だからって欠点がない訳でもない。見てて分かるだろ? タカ先輩、ちょっと不器用なところもあるし、天然だし、女難の相だって昔からヤバいんだぞ? だから多分、手を伸ばせば届くんじゃないかな。俺はそう思ったことすらない側の人間だけど、手を伸ばす勇気を持ったお前さんなら。いつかきっと届くことだろうよ。頑張れ、応援する」
――ボクが思うに、太郎サンはきっと生粋の“先生”なのだと思う。ふと思った。もっともっと幼い時、ボクが初めてソロコンクールで『中言崇史』を演奏を聞いたあの時に、こんなことを言ってくれる先生と早く出会っていれば……自分の人生はまた違ったものになっていたのだろうか。
笑みが零れた。ボクが普段から意識している、貼り付けた微笑みではない。それはきっと心から溢れたものなのだと思う。
「ボクは、春にはこの街から離れるんだ。進学の関係でね。仕事のこともあるから頻繁には戻ってくることはできないと思う」
「そうなのか。寂しくなるな」
「言葉だけでもあなたにそう言ってもらえてボクは嬉しいよ、太郎サン。だから最後にね、あなたと話したかったんだ。あなたとの思い出を刻むために――これを受け取ってほしい」
そっとテーブルに乗せた小さなそれは、店内の証明に照らされてキラリと輝いた。太郎サンは一度小首を傾げて、訝しむように少し身を屈んでそれに注目した。そしてそれが何なのかピンと来たらしい。困ったような、複雑そうな引き攣った笑みが浮かぶ。
「これ。まさかあれか? 卒業式に配られるやつ。花飾りを括ってる輪っかのガラスだ。なっつかしいなおい!」
「姫ノ上学園の伝統だからね。その反応ならそうだな、太郎サンの頃からジンクスは存在していたということかな?」
「おいおいおい。なんで、俺に? どういう腹積もりだよ?」
太郎サンは耐え切れなかったようにくしゃっと笑った。この状況にどうも笑わずにはいられないらしい。心外だな、冗談のつもりは全くないし真剣だというのに。
――これは姫ノ上学園の卒業式にて、卒業生に配布される装飾の一つ。造花を束ねる、小さなガラスリング。ただのリングと思って捨て置くには少し勿体無い、地元のガラス工房にて職人が一つ一つを手造りしている一点物だ。まるで物語に登場するようなガラスの靴がモチーフになっている凝ったデザインにもなっている。
よく制服の第二ボタンを強請るだとか、学生の中で流行る卒業式のジンクスと言えばそんなものだ。姫ノ上学園の制服はブレザーなので生憎と第二ボタンを渡すことはできないが、代わりに伝統のジンクスとして受け継がれているのがこのリングの存在。……卒業式に、これを配られた卒業生からこのリングを“好きな人に渡す”――もしくは“貰う”。そしてそのリングが自分ないし相手に指にピタリと嵌まれば、それは運命の相手であると。そんなジンクスがある。
このリングは職人が一つ一つを手作業で造っているのでそれぞれ形状やサイズが微妙に異なるのだ。だからそれが相手の指にピタリと嵌まれば運命と……まぁ、理屈は分からなくもない、と思う。
実際ボクは卒業式当日、同級生や後輩たち、様々な人からこのリングを強請られた。勇気を持ってボクに告白をしてくれた女子もいた。……生憎とボクにその気はなかったために残念な回答しかできなかったけれど。でもボクは、このリングを渡す相手はもうずっと前から決めていたんだ。
「ある意味では愛の告白とも言えるかな。太郎サンの指にそれが収まるかは分からないけれど。……ボクがこの先もっと音楽の道を極めて、やがてコンクールに出場するとする。その時、伴奏を務めるのはあなたがいいんだ。どうかボクのこの想い、受け取ってほしい」
「愛の告白って……やめとけやめとけ、俺みたいなおっさん相手に使う言葉じゃないだろ。全く、本当に面白い奴だなお前は」
ボクは真剣な眼差しで、心からそう思っているのに。本気で受け取ってはくれなかったようだ。……それに少しの切なさを覚える。太郎サンは可笑しくて仕方がないようでずっとケラケラと笑っている。でも、ボクが差し出したリングを手に取ると自分の指に収まるか確認をしてくれた。
「結構ユルいな。あー、こりゃ……おお、見ろ。親指にはピッタリだぞ」
「親指か。案外華奢な手をしているんだね? だってそれ、ボクの中指にピッタリなんだ」
「うわマジか。そうなんだよ、俺手が小さくてさー……そういや学生の時、タカ先輩から貰ったヤツはかなりちっちゃくて俺の小指にしか嵌まんなかったな。あれどこやったっけなあ……」
待った。ケーキを突いていた手を思わず止める。太郎サンが何気なく言ったその言葉、まさかミスターも学園を卒業する時に太郎サンにジンクスのリングを……!?
……落ち着け、顔に出すな。ミスターのことだ、きっと考えはボクと同じ。いずれ太郎サンをパートナーにしたいという想いからだろう。
と言うことは、それは未だに叶えられていないということ。そうだ、ここに来てボクという好敵手が現れたということだ。太郎サンの指には二つのリングが収まっている。ならばボクかミスター、そのどちらかが彼の運命の相手。
「フフフ」
「なんだ、急に笑って……」
「――壮健でね、太郎サン。いずれまた会う日まで」
ボクはもうすぐこの街を去る。ああ、これでもう――心残りはない。
それに頻繁に帰省するつもりだし。ちゃんと見張っていないと、ミスターに出し抜かれてしまうかもしれないからね?