20(益子トラ)
中言先生から頼まれた西尾兄の説得の件。結局私たちは特に行動を起こせないまま三月を過ごしてしまっていた。……いよいよ春休みが目前に迫ったところで危機感を覚える今日。
「仕方ないよ。正攻法でいこう?」
「正攻法って言ったってどうやって……」
「交渉を有利に進めるにはやっぱり相手の機嫌を取らないと。幸いにも今のシンペーは心穏やかだろうから、追い風は俺たちに吹いてると思ってさ」
西尾弟と私は二人で昼休み、人の目を避けて誰もいない空き教室で会合してそんなことを話していた。西尾兄は心穏やかに過ごしているって……なんで? よく分からないけど、弟の彼が言い切るってことは何かあったってことかしら。特に追求する気はないけれど。
「今日シンペーはバイト休みだから、帰りに捕まえて話し掛けてみよう。益子ちゃんの時間は大丈夫?」
「私は大丈夫だけど、あなたは時間取れるの? だって今日、ただでさえあなた大変そうじゃないの」
「大丈夫! 放課後までには片を付けるよ」
今日は他でもないホワイトデー。去年も西尾弟が一人奔走していた光景を知っているからこそ、彼にそんな余裕があるのか不安になる。でも私が憂う一方で西尾弟は案外計画的なのか、余裕ありげに言い切っている。……ならいいんだけど。
「ってか、俺より益子ちゃんが……いや、いいのか。うん。それじゃ五限のあとの休み時間に、また!」
今、学園内は三年生が卒業したことで少しだけ寂しさがある。全校生徒からモテモテだった北之原絵里が卒業してしまったというのもあると思うけど、二月に入ってからは明らかに賑わいが足りてない気がする。
西尾弟は以前から注目を浴びている、人気の男だ。……西尾兄と彗星、それから中言先生も同義だけど。ただ人当たりのよさ、そして生徒という観点で言うと“西尾恭”が北之原絵里の次代と言って差し支えないだろう。
今やどこにいても視線を浴びているであろう西尾弟。彼と一緒にいる私が他からどう思われているのか、考えるだけで憂鬱になる。それに私は中等部時代から彗星と一緒にいることで色々と陰で言われて……挙句に灰原姫乃から階段から突き落とされた訳だし。
……彗星の次は西尾恭。なんて、思われているのかしら。
そもそも私は――初めから彗星のことだって。
◇
「ねえ」
「あン?」
昇降口で靴を履き替えている西尾兄に話し掛ける。その姿は至って普通な……とても上機嫌、って具合ではなさそうだけれど。一瞬不安が心を掠めたところで気を取り直して。
「これ、受け取って」
「……どうした? 藪から棒に」
「これはこの前偶然手に入って、それで、……ああ、そう。余ったの。余ったからあげるわ。あなたこういうの好きなんでしょ?」
靴を履き替えたことを確認したところで、私が鞄から取り出して彼に差し出したものは……隣町で話題の温泉旅館、そこの銭湯の割引チケット。
実はこれは西尾弟から渡された賄賂。しかも一枚じゃない、結構な束。曰く、西尾兄はこの温泉には目がないとかで。
……でも私が差し出したそれをじっと見つめた西尾兄は、怪訝そうに首を少しだけ傾げて見せた。
「余ったって、んな大量に余るくらいどこで手に入れたんだよ。“鐘硝子温泉”……そりゃ確かに俺の行きつけだが、キョウから聞いたのか?」
「……知り合いから貰ったの。そんなところよ。貰ってよ、どうせ私は使わないし」
「いらねえってんなら貰うけど。お前なんでそんなに不機嫌そうにしてんだよ?」
「ふ、不機嫌なんかじゃないわよ」
後ろめたさが顔に出てしまったのか、どうやら私が不機嫌に見えてしまったらしい。慌てて取り繕う。……も、もう、私はこういうの慣れてないし向いてないのよ。
早く来なさいよ――西尾弟。と叫びたくなった言葉を飲み込んだ時、西尾兄の背後からニュッと伸びた白い手が、その手に持っているものをぴとりと西尾兄の頬に当てた。
「ッうおお!? なンっ……お前! キョウ!!」
「やっほーシンペー。はいこれ、あげるよ」
私の念が通じたのか絶妙なタイミングで現れた西尾弟。満面の笑みを浮かべているけど、西尾兄の手に温泉のチケットが握られているのを確認してからしっかりと私にアイコンタクトを送ってきた。
西尾兄は頬を袖で擦りながら憤慨している。頬に当てられたのは緑色のパック……あれは学園内の販売機に売っている玄米茶のパックドリンクだ。どうやらキンキンに冷えていたらしい。
突如現れた弟に対する困惑、そして玄米茶を渡されるという困惑が重なったせいで、西尾兄は感情の置き場に困っている様子だった。まさに情緒不安定、混乱とはこのこと。あまり見れない姿に思わず笑いそうになるけど、それを私が顔に出してしまうと感情が怒りに振り切ってしまいそうだったので必死に堪える。
「何しやがる……っつーか、なんだよ急に!?」
「いちごミルク買おうと思ったら間違えちゃった。シンペーがいつも飲んでるやつだったからついでに、ね。それより一緒に帰ろ〜、益子ちゃんも!」
「はァ? いつも帰んの別だろうが、」
「まぁまぁ。まぁまぁ!」
半ば強引に、弟が兄の背中を押し出すようにしながら校門を出ていく西尾兄弟。私もその後を着いていく。本当に……上手くいくのかしら……?
「――――お前たち」
……でも。私たち三人が校門を抜けたところで、控えめな声が私たちを呼び止めた。私たちは一斉に振り返る。その声は私もよく知っている声だった。
「新平。恭。……トラは、俺に貸してくれないか」
驚いたのは……そこに立っていた彗星が、マスクもサングラスもしていなかったことだ。私は同じクラスだから当然、彗星と顔は毎日合わせている。でもさっきのホームルームまでは確かにいつもの鉄壁スタイルだったのに……!
唖然とする私を余所に西尾兄弟は横目に目を見合わせて、それから会話はなかったけど何やら思いは通じ合ったらしい。二人同時に「どうぞお好きに」と言った――って、待ちなさい!
「なによ、みんなして私をモノのようにっ!」
「そう、だな。失礼な物言いだった、訂正する。……トラ、俺に君の時間を分けてほしい。どうか……」
……相変わらずの無表情だけど、その口振りは真剣そのもの。それから真っ直ぐに頭を下げられてしまえば私は何も言えなくなってしまう。どうして今更、彗星が――いえ、一体何のつもり?
「益子ちゃん、スイくんに付き合ってあげて。俺はスイくんの勇気を称えたいと思う」
「同感だ」
西尾兄弟が横からそう囁いてくる。二人ともどこか楽しそうだ。私の気も知らないで。
というか。さっきまで私と西尾弟が企む側だったのにあっという間に私だけが追い詰められる側じゃない。横並んでいるニヤケ顔を見ていると腹立ってきた。
「トラ」
……念押しされるように名前を呼ばれる。全く……この状況で、彗星のことを無視して西尾兄弟に着いていくなんて真似はとてもできないわね。
私は小さくため息をついてから、「分かったわよ」と返事をした。途端に彗星の顔がぱっと明るくなったので私は驚いた。彼は……いつの間にこんなに表情が豊かになったのかしら。
西尾弟には悪いけど一人で頑張ってもらうことにして。私は……私たちは、西尾兄弟とは反対方向の道を歩くことになった。どうやら彗星は私をどこかに連れて行きたいらしい。
仕方ないから、付き合ってあげることにした。