9.青い糸
病室の窓の外は、激しい雨が降っていた。
先生はそれを見つめながら、過去を話し始めた。
それは、雨の日に出逢った嘗ての恋人の話だった。
「突然の雨に、ある門の下に飛び込んできたのが彼女でした。その人は鎌倉の人で、僕は、その人に振り向いてほしくて、当時を生きていたと思います」
「先生は、振り向いてもらえたの?」
「はい……」
先生は、少しはにかんだ。
「でも、その人は、やがて目の前から消えてしまったんです」
「えっ……」
「その日も雨が降っていました。一方的に別れを告げられ、理由も分からぬまま。連絡を取ることもできなくなりました」
「そんな……」
「数年その人を見てきたのに、僕は何も知らなかったんでしょうか」
「先生……」
「僕のこころには、ずっとその人がいて、その人が空を見つめる横顔が、忘れられないんです」
「……」
「僕はまだ、その人のことを。だから、天清さんの想いには答えられないんです」
静まり返った病室に、外の雨音が響いた。
先生は、わたしが生徒だからという理由で、ただ断ったわけではなかった。
忘れられない人がいて、今もその人がこころの中にいて……。
先生の言葉は、わたしを余計に、先生を好きにさせた。
「人は裏切ると先生も思う?」
「え……」
「だって、先生は恋人に裏切られたってことでしょ?」
「それは……」
「人はいざとなった時、誰もが悪人になる。そうでしょ?」
「その時は、裏切られたと思ったかもしれません。でも、事情があったかもしれません」
「事情ね……」
「それを言えないから、それは裏切りになってしまうのかもしれません」
「……」
「想いは伝えるべきなんでしょうね。こころは結局、見えませんから」
言えないから、それは裏切りになる……。
あの日、母の形見を、雨の中探してくれた先生は言った。
『目の前から消えてしまった後では、もう取り返せないこともあります。だけど、それでも、何かお母様が伝えたかったことがあるかもしれないじゃないですか』
わたしの本当の母親にも、伝えたかった想いがあるのだろうか。
なら、どうして何も言わずに死んでしまったのよ。
こころは、言葉にしなければ伝わらないのに。
それとも、もう伝えてくれているの……?
「青い糸、だったのかな」
あおいは、そう口にした。
「青い糸?」
「知ってる? 青い糸はね、別れの糸なんだって……」
「……」
「わたしの名前をつけたのはね、本当のお母さんなの」
「!」
「わたしの本当のお母さんは、なんでわたしに『あおい』って、つけたのかな。別れなら伝えなくてもいいのにね」
結ばれるのは赤い糸。
さよならは青い糸。
わたしのお母さんは、『さよなら』と、ただその一言でこの世を去って行ったのだろうか。
そのあと、先生がそれ以上、恋人のことを語ることはなかった。
窓の外は雨が降り続けている。
先生とわたしは、ただその雨を見つめていた。