5.ときめく、こころ
今日も雨は降っていた。
優一郎はあおいを見かけると、どこか気にした様子で、目で追っていた。
通りがかり、その様子を目撃した杏花は、それを見逃さなかった。
「小糠先生、あおいに気でもあるのかしら?」
杏花は、思わず口から言葉をもらした。
夕方、あおいは下駄箱から靴を取り出し、傘立ての傘を手にした。
そして、手が止まる。
一度手にした傘を再び傘立てに戻すと、あおいは雨の中を飛び出していった。
目の前には、傘を差し歩く優一郎の後ろ姿がある。
「先生ー!」
優一郎は足を止めると、振り返った。
「天清さん!」
あおいは、駆けて来た勢いそのままに、優一郎の傘に飛び込んだ。
「天清さん、どうしました? あれ……か、傘は?」
「忘れました!」
あおいは笑顔だった。
「えぇ!? 今日は朝からずっと、雨が降ってますが……」
「!」
「あおいー! 傘!」
背後から聞き馴染みのある声がする。
嫌な予感がした。
杏花が、わたしの傘を手に、こちらに向かって走って来る。
「!」
「あおい、何やってんの? 傘も持たずに出てくバカいる?」
あおいは、ムスッとした様子で杏花から傘を受け取った。
「天清さんは、あわてんぼうですね」
優一郎は、クスッと笑った。
「いや、そういう問題じゃ……」
杏花は、わたしの行動にも、先生の反応にも驚いていた。
こうして、わたしの雨の日大作戦は失敗に終わった。
× × ×
部屋の窓を開ける。
そこには、月が出ていた。
「月が綺麗ですね……」
わたしは、近頃心を揺さぶられている。
板書する背中。
教科書を読み上げる横顔。
袖まくりされたワイシャツから伸びる腕。
ネクタイを緩める仕草。
子猫をかわいがる表情。
先生は、カッコイイイケメンでもないはずなのに、気付けばもう先生から目が離せなくなっていた。
こんな予定ではなかった。
それはもう、何をしていてもカッコイイ、何をしていてもかわいいという、あってはならない現象だ。
思考がどこか停止してしまったかのようで、心臓の音だけがうるさい。
気付けば、わたしのこころは、ときめいていた。
× × ×
その日、あおいは屋上で弁当を広げていた。
そこへ優一郎が現れた。
「いやー梅雨晴れですね」
「うん」
「天清さん、美味しそうなお弁当ですね」
「お母さんが作ってくれたの」
「そうですか。素敵なお母様だ」
「うん」
優一郎は、あおいのブレスレットに目をやった。
「?」
「あ、僕もここでお昼にします」
「え!」
「せっかく晴れてるんですから。それこそ屋上の醍醐味ですよ」
優一郎は味気ない弁当を広げた。
「それ、先生が作ったの?」
「えぇ、まぁ……」
「はいっ」
あおいは、自分の弁当からおかずを取り出すと、優一郎の弁当の中に入れた。
「えぇ! ダメですよ、そんな……」
「いいの! あげる!」
「そんな……すみません。ありがとうございます」
「先生と初めて話したのも、ここだったね」
「あぁ、そうでしたね」
少しばかり、沈黙が流れた。
「ねぇ、先生。先生はわたしのこころ読める?」
「どうしたんですか? 急に」
「急じゃ……ないよ?」
「えぇ……? こころは読めませんよ。言葉にしないと」
「そっか……。わたしね、好きな人がいるの」
「! そうでしたか」
「その人はね、わたしより年上でね、いつもすぐそばにいるの」
「へー同じアパートとか、近所に住んでるんですか?」
「その人はね、みんなから先生って呼ばれてるの」
「へぇー、その人偉い人なんですね」
「……」
「人を好きになるって、素敵ですよね。その方に想いが届くといいですね」
「ど、鈍感!?」
あおいは、これといった反応がない優一郎の様子に動揺した。
「僕は、人生って死ぬまで課題が出るんだと思うんです」
「え?」
「人を好きになるのも課題。死んだら今度は生涯の反省論文が待っていて」
「さっすが先生、課題が好きね」
「いやぁ、別に好きなわけではないんですが……」
「そんなの待ってたら、不安で誰も安心して死ねないわね」
「自分の心残りとか、この世での後悔とか、きっとできるだけ、残さずに旅立たないといけませんよね」
「……?」
「すみません、こんな話。さ、食べましょう、ご飯が冷めちゃいます」
「先生? お弁当は最初から冷めてるよ?」
「あっ、そうでした。そうでしたね」
先生は何故だか焦った様子で、慌てて弁当を頬張っていた。
口から出てきてしまいそうな想いを、押し込むように食べていた。
先生は鈍感で、きっと、わたしのこころに気付くことはなさそうだ。