4.あなたを招く、招き猫
あの夜は、当たり前だけど何もなかった。
ただ、小糠先生がてるてる坊主に微笑んでいた、月明かりが似合う夜だった。
「恋人は? 奥さんは?」
そう尋ねたわたしに、先生は『いないです。もう……』そう答えた。
わたしは、それが妙に気になって仕方なかった。
わたしの腕には、母が残したブレスレットがある。
きっと、あのてるてる坊主のように、わたしを見守ってくれている。
「行ってきまーす」
「いってらっしゃい」
奥から慈子の声がする。
あおいは今日も変わらず家を出た。
先生が黒板に板書をしている。
今日も国語の授業は、夏目漱石の『こころ』だ。
教室には、黒板に触れるチョークの音と時計の音だけが聴こえている。
「つまり、叔父に裏切られた先生は、Kに対して裏切りをしてしまい、そんな自分に傷付き死を選んでしまったのです」
恋は人を狂わせる。
それは、きっと今も昔も変わらない事実なのだろう。
「人はいざとなった時、誰もが悪人になることがあるということです。しかし、それが非常に人間らしいのかもしれません」
恋はするものじゃないなとわたしは思った。
なら、先生は……?
わたしは、ほんのつい最近まで、何も気にならなかった先生の過去が気になっていた。
× × ×
中庭で、子猫の鳴き声がした。
声に気が付いたあおいは、辺りを見回した。
そこには、捨てられたであろう少し弱った様子の子猫がいた。
「!」
あおいは学校が終わると、すぐさま教室を飛び出した。
そして、猫缶を手に再び戻って来ると、子猫のもとには分厚い食パンとミルクが置かれていた。
「誰か来たの?」
すると、そこに優一郎が現れた。
「先生!」
「あ、これは天清さん」
「まさか、これ先生が?」
「あぁ、いや、まぁ……」
「先生がこんなことしていいの?」
「かわいそうじゃないですか。まだ子供なのに、捨てられたなんて」
「……」
「今、飼ってくれそうな知り合いをあたってるところなんです」
「人がいいのね」
「天清さんだってそうじゃないですか」
「え……」
あおいは、自分の手に握りしめていた猫缶を思わず見る。
優一郎は、穏やかな表情で子猫を撫で、微笑んでいた。
「でも先生、猫にパンはあまり良くないんだよ」
「えっ! そうなんですか!?」
あおいは、猫缶を開けると子猫の前に差し出した。
優一郎は申し訳なさそうな顔をしていた。
「でも、そのパン美味しそうだね」
「そうですか?」
「わたしも食べたいな」
優一郎は、にっこり笑った。
「先生は、猫と犬どっちが好き?」
「難しいことを聞きますね」
「え?」
「どちらかに決めるのは、もったいないじゃないですか」
「何それ」
「僕は、招き猫が好きです」
「えっ!?」
「知ってましたか? 右手をあげる猫は金運を招き、左手をあげる猫は人を招く」
「そうなんだ」
「両手をあげたら、お手上げです」
「先生はお金持ちになりたいの?」
「え……」
「招き猫」
「僕はお金よりも、人を招きたいです」
「!」
「しかし僕は、だいたいいつもお手上げですけど」
その夜、帰宅した優一郎は、窓際のてるてる坊主に話しかけた。
「あなたは、どこにいるんですか?」
てるてる坊主は、何も答えなかった。
ただニッコリと優一郎を見つめている。
「やっと少しずつ、あなたの影が薄くなったと思ったのに……」
優一郎は肩を落とした。