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2.先生、どうしてそこまで?

 優一郎が、教科書を広げ、教壇に立っている。

 

「今日から学ぶのは、夏目漱石の『こころ』です」

 

 あおいは、相変わらず、どこか上の空で窓の外を眺めていた。

 雨は、今日も降っている。

 

「夏目漱石は『I LOVE YOU』を『月が綺麗ですね』と訳したなんて話もあったりしますね」

 

 

『月が綺麗ですね』なんて、この梅雨空で言える日はない。

 少なくとも、わたしの心はちっとも晴れていない。

 分厚い雲は月を隠している。

 わたしは、何も知らない方がきっと幸せだった。

 

 

「それでは、読んでいきましょう。教科書68ページ、田中さんから」

 

 

 

 授業が終わると、あおいのもとに杏花がやって来た。

 黒板には、登場人物の関係性を表した板書が残っている。

 

「結局は、三角関係ってことでしょ? やっぱり人は友情より恋愛とるのかしら」

 

「……」

 

「昔から変わらないのね」

 

「身勝手なことしてずるいわ。結局自分で苦しんで、そんなの当然なのかもしれない」

 

「え……」

 

「同じように命を絶つって、残された苦しみを知ってるはずなのに」

 

「あおい……?」

 

 

 

 夕方、学校帰りのあおいの姿は、通り道の公園の噴水前にあった。

 

「そう、身勝手よ……」

 

 あおいが握った手のひらを広げると、そこには、あのブレスレットがあった。

 

「こんな、こんなものだけ残して……。いらないんだから!」

 

 あおいは、ブレスレットを強く握りしめた。

 その拳は、酷く震えていた。

 

 あおいは、噴水に向かってブレスレットを勢いよく投げ捨てた。

 あおいが差していた傘は地面に落ち、雨は次第にあおいを濡らしていく。

 

「別に不幸だったわけじゃない。だけど、だけど、なんで……」

 

 あおいは、その場で泣き崩れていた。

 

 

 ずぶ濡れのあおいを、そっと誰かが傘に入れた。

 あおいが顔をあげると、そこには優一郎の姿があった。

 

「先生……!」

 

「天清さん、どうされたんですか? 何があったんですか?」

 

「……」

 

「わたしに解決できることか分かりませんが、もしよかったら話してみてください」

 

「解決なんて、誰にもできないわよ」

 

「……」

 

「わたしは裏切られたようなものなんだから」

 

「?」

 

「当たり前のように信じてた、お父さんも、お母さんも他人だったなんて」

 

「え……」

 

「わたし、養女だったの」

 

「……」

 

「いつだって辛いことは永遠で、楽しいことは一瞬なんだよ」

 

「……」

 

「今はただ、落ちるとこまで落ちて、そのままステイ」

 

 

 ×  ×  ×

 

 

 五月、わたしは誕生日にその事実を聞かされることになった。

 

 

 食卓に、慈子が誕生日ケーキを持って現れた。

 

「あおい、16歳の誕生日おめでとう」

 

 あおい、慈子、虎太郎で囲むケーキ。

 それは毎年お馴染みの、壊れることのない光景。

 

「あおい、今日はね、あおいに大切な話があるの」

 

「えっ、何?」

 

「いつか、伝えないといけないことで」

 

「……」

 

「わたし達は、あおいの本当の親ではないの」

 

「……!」

 

「子供のいないわたし達に、育ててほしいってあなたのお母さんがね……」

 

「……」

 

「でも、あおいは、わたし達の娘であることは、これからも変わらないからな」

 

 虎太郎が、横からフォローするかのように言葉を付け加える。

 

「何それ……」

 

 いつもなら、祝福してくれているはずのろうそくの灯火が、なんだか悲しそうにこちらを見つめている気がした。

 

「お父さんは……? わたしの、お父さんは?」

 

「それは……」

 

「……」

 

「それは……分からないの。どうしてもあなたのお母さん、教えてくれなくて」

 

 慈子は、あおいの前に、そっとブレスレットを差し出した。

 

 

 ×  ×  ×

 

 

「何か事情があったのではないでしょうか……?」

 

「事情って何よ! 勝手に産んでいなくなって!」

 

「それは……」

 

「身勝手よ! そんなの身勝手……」

 

「……」

 

「なくなればいい。形見の? ブレスレットなんて……」

 

「!」

 

「もういいのよ。その方がいいの……」

 

 

 あおいは、傘を拾うと帰ろうとした。

 背後で、バシャっと誰かが水に入る音がした。

 振り返ると、先ほどまで優一郎がいた場所には、開いたままの傘と上着だけが残されている。

 噴水の中には、ワイシャツ姿の優一郎の姿があった。

 

「! 何やってるの……」

 

「探すんです。あなたのお母様の形見を」

 

「なんで……」

 

「なんでもです!」

 

 優一郎は、ひとり雨の中、目を凝らしブレスレットを探す。

 

「目の前から消えてしまった後では、もう取り返せないこともあります。だけど、それでも、何かお母様が伝えたかったことがあるかもしれないじゃないですか」

 

「そんなこと、あるわけ……」

 

「いなくなってからでは、本当の想いは分からないんです。でも、そんなの寂しいじゃないですか」

 

「……!」

 

「あなたを引き取った、あなたを託された、天清さんのご両親の気持ちはどうなるんですか?」

 

 あおいは、ハッとした。

 

 

 優一郎が何かを見つけた。

 それは、ブレスレットだった。

 優一郎の手は震えていた。

 

「……! こ、これですか?」

 

 あおいは、静かに頷いた。

 

 

 

 優一郎は、あおいの腕にブレスレットをはめた。

 

「見つかって、よかったです」

 

 優一郎は、ホッとしたように微笑んだ。

 

「そんな、頑張らなくていいのに」

 

 

 わたしは、少し気まずかった。

 素直に『ありがとう』と言えなかった。

 先生は、勉強を教えてくれる人で、それ以上でもそれ以下でもない。

 わたしはずっと、そう思っていた。

 こんな、つい最近会った、わたしなんかのために必死になってくれる先生がいるなんて思わなかった。

 先生、どうしてそこまでしてくれるの?


 わたしはくしゃみをした。

 先生は、わたしに自分の上着をかけた。

 すると、今度は先生がくしゃみをした。

 わたし達は、お互いに顔を見合わせた。

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