17.ゆかりある、あの日の声
レストラン『緑』の店内に、神立の姿はあった。
そこへ杏花が現れる。
「東京遊びに来たついでに、来ちゃった! 大学入って彼女できた?」
「まさか……。なんでそんなこと」
「えー結局、あおいとまだ付き合ってないの?」
「別にそんな関係じゃないよ」
「何? ただの怪我友?」
「怪我友って……まぁ、そうだけど」
「ふーん。せっかく小糠先生という最強の敵もいなくなったのに」
「……」
「ねぇ、今からあおいも、ここに呼ぼっか!」
「えぇ!?」
「いいじゃん、いいじゃん」
あおいと神立の仲が気になる杏花は、探りを入れていた。
少し考えた様子の神立は、杏花に尋ねた。
「たとえば、たとえばだけどさ……」
「うん」
「本当の親に会いたくても、ずっと会えない人がいて、本当の親が分かったら、どんな親でも会いたいって思うのかな?」
「あおいのこと?」
「まぁ……」
「うーん。陰から見るくらいは? わたしなら、したいかな?」
「俺は自分を捨てた親なら、会いたくないって思うんだよな」
「事情があったにせよ、捨てられたならね……」
「でも、どんな親でも、その人にとっては、たった一人の親なわけじゃん?」
「会うことにずっと憧れを抱いて生きてきてしまったら、きっとその人は、会いたいんだろうね」
「……」
× × ×
代官山駅前、駅からは浮かない表情のあおいが出て来た。
鞄には、小さくなったブレスレットが変わらず付けられている。
スマートフォンを開くと、神立からメッセージが届いていた。
『駅近にあるレストラン「緑」で待ってるよ』
あおいは、周囲をきょろきょろと見回した。
× × ×
メッセージを送った神立は、杏花にとある出来事を話していた。
「この前カフェ付きのパン屋に行ったんだけどさ、聞き覚えのある声を聞いた気がしたんだよね」
「何それ、都市伝説?」
「いや……。俺がまだ入院してた、あの頃の話になるんだけど……。俺、あの日、声を聞いたんだ」
× × ×
足を骨折し、松葉杖姿の神立が、廊下で慌てた様子の看護師とすれ違った。
その慌ただしさに、神立は思わず看護師の方を振り返った。
「……」
神立は病室に戻ると、ベッドに横になった。
すると、戸の向こうから何やら声がする。
「あ、あの! 僕の血液を使って下さい! それと、僕が提供したってことは……黙っていてもらえませんか」
× × ×
「その後、病室の戸を開けたんだけど、そこにはもう誰もいなくて」
「……」
「あれは、ちょうど、あおいちゃんが運び込まれた後だったんだ」
「!」
「それで、この前行ったパン屋で同じ声を聞いた気がするんだ」
「やっぱり、都市伝説じゃない」
「東京でそんなことあるわけなし、他人の空似みたいなことだとは思うんだけど」
「そもそもあおいは、誰か謎の人物から輸血を受けたってこと?」
「さぁ、それも不確かだから何とも」
「誰がそんなこと……」
× × ×
「ん? あった」
あおいが店を探し、辿り着いたのは、レンガ調の壁に緑色で『縁』の文字が書かれ、その上に小さく『ゆかり』のふりがなが振られたパン屋だった。
ガラス越しに見える店内には、沢山のパンが陳列されていた。
奥にはカフェスペースが広がっている。
「パン屋……!?」
ふと手前に目をやると、ガラス越しに見覚えのある置物が置かれていた。
右半身が犬、左半身が猫でできた置物である。
猫は左手をあげており、その手はボンドで付けられていた。
「これって……!」
あおいは、飛び込むように店内へ入った。
「いらっしゃいませ」
「!」
あいおを出迎えたのは、見知らぬ60代後半の店主。
「どうぞ、見て回って、是非お好きなものを召し上がってください」
パンを目で追っていくと、見覚えのある分厚い食パンがあった。
「この食パン!」
「ここの人気商品なんです」
「あ、あの、これをください!」
店主はにっこり微笑んだ。
あおいはレジ近くに『50円引き』のシールが貼られた、しらすパンに目がいった。
「このパン、今日だけ特別に50円引きなんですよ」
「?」
あおいは、カフェスペースで食パンを頬張った。
「この味……」
間違いなかった。
それは、わたしが知っている味だった。
小糠先生が、お見舞いに持って来てくれた時の食パンだった。
先生、先生はこの店に……?
神立からの着信音が鳴る。
あおいは電話に出た。
「今どこにいる?」
「どこって……パン屋に……」
「パン屋?」
「えっ?」
「レストラン『緑』って……」
あおいはハッとして、目の前にあるカフェのメニュー表に目をやる。
そこには『縁』の文字が印字されていた。
店違いだった。
「ゆかり……」
「もしもし?」
「……」
「もしもし? あおいちゃん、聞こえてる?」
「ごめん、かけ直す!」
あおいは一方的に電話を切ると、店主のもとへ行き尋ねた。
「あの、すみません。こちらに小糠さんという方はいらっしゃいますか?」
「小糠は、わたしですが」
「……!」
店主の名は、小糠照人で、胸元の名札には確かに『小糠』と記されていた。
「あ、もしかして息子ですか?」
「! 先生! あっ、小糠優一郎さんは……」
「優一郎なら、あいにく今日は終日いないんですよ」
「……」
「この日はねぇ……」
あおいは、店の壁に掛けられている日めくりカレンダーに目をやった。
そこには『15』とある。
「!」
すると突然、鞄に付けられていたブレスレットが切れ、音を立て珠は床に飛び散った。
今日は『6月15日』。
それは、先生が嘗ての恋人と出逢った特別な日。
必ずあの場所に行くと決めている日。
目の前から消えてしまった後では、もう取り返せないこともある。
だけど、それでも、何か伝えたかったことがあるかもしれない。
先生が必死になって集めてくれた母の形見。このブレスレットは、今、伝えようとしている。
お母さん……。
『6月15日』、それはきっと、わたしにとっても特別な日……。
あおいは、店を飛び出し、走り出した。




