1.先生とわたしの出逢い
その日は、雨が降っていた。
わたしは、梅雨入りした横浜の街を歩く。
水溜りには波紋が広がり、雨音だけがわたしの耳には聞こえていた。
高校へ向かう通学路を一本の傘が進んで行く。
『陽沙芽高校』の校門をくぐり、天清あおいは校舎へと向かった。
わたしのクラス、『1年C組』の教室は、朝から騒がしかった。
「新しい先生ってどんな人だろう?」
「なんか、男らしいよ?」
「え、イケメンかな?」
みんな、今日からやって来る新しい先生の話題でもちきりだ。
みんな期待し過ぎである。
ドラマでもあるまい。そんなときめきが訪れるわけがない。
わたしは、さして興味もなく、なんとなく窓の外を眺めていた。
教室の戸が開き、男が入って来た。
教壇の前に立ったのは、スーツ姿のさえない中年。
「えー産休に入った高橋先生に代わりまして、本日から1年C組でお世話になります」
男は、黒板に『小糠優一郎』と書いた。
「小糠優一郎と申します。えー皆さんの国語を担当します。よろしくお願いします」
クラスメイトは、なんとなく拍手をした。
先程のテンションはどこへやら。それは明らかにがっかりした様子だった。
ホームルームが終わると、すかさず田中杏花が話しかけてきた。
「なんか、残念な担任が来たね。もっとドラマチックな展開期待してたのに」
「そう? ま、どうでもいいかな」
わたしは、杏花の話をさらっと受け流した。
雨が止んだ。
あおいの姿は屋上にあった。
まだ曇った空に、手を伸ばす。
「あおい、またここにいた! こんなところで、何してんの? 天気も良くないのに」
「別に……」
「良くない! あんた今日掃除当番!」
「あ!」
「最近ぼーっとしちゃって、もう、しっかりしてよね」
あおいは、杏花に叱られても、どこか上の空だった。
夕方、あおいは、通り道の公園にある噴水を見つめていた。
あおいが握った手のひらを広げると、そこには珠状のブレスレットがあった。
× × ×
杏花が、職員室にプリントの束を運んでいる。
「小糠先生、これここに置いときますね」
杏花は、手に抱えたプリントを優一郎の机に置いた。
「わざわざ、ありがとうございます」
「いえ、学級委員なんで」
「あぁ……そうだ、田中さん」
「?」
「今、何かクラスで心配なこととか、不安なクラスメイトはいますか?」
「あぁ。あおいですかね……」
「あおい……えー天清さんですね」
「あおいは雨が降ってなければ、最近だいたい屋上にいます」
「?」
「ホント何してるんだろ。入学してきた頃は、あんなんじゃなかったんです。いつもひとりで。一応写真部に入ってるんですけど、最近は幽霊部員で」
「……」
「なんか、写真はひとりでも撮れるからって、ひとり写真部やってるらしいです。何かあったのかしら」
× × ×
あおいの家では、天清慈子と天清虎太郎が話をしていた。
「やっぱり、まだ伝えるべきじゃなかったのかしら」
「でもいずれ分かることだ。もっと先延ばしになっていたら、よりあおいも辛くなるだろう」
話し声が、わたしの部屋まで全部聞こえている。
心配してくれていることは分かっていた。
でも、まだわたしには、その事実が受け止められなかった。
わたしの手元は、ブレスレットがある。
ブレスレットは、何も言ってくれない。
こんな、ブレスレットだけを残して……
今日も、わたしは高校の屋上で空を見つめている。
空は、綺麗な青空ではなく、わたしの今の心のように曇っていた。
突然、そこに小糠先生が現れた。
先生は、わたしの横で空を見上げた。
「梅雨入りしたので、今日も曇ってますね。もうすぐまた降ってきそうだ」
先生がこちらを見た瞬間、わたしはカメラのシャッターを押した。
カシャっと音がして、先生のビックリした表情は、そのまま静止画になった。
「! な、なんです?」
「ひとり写真部」
「はぁ……?」
「写真はね、一瞬を永遠にできるの」
「!」
「消えてしまうものを、ずっと抱きしめていられるのよ。良くも、悪くもね」
「……」
あおいは遠くを見つめた。
「天清さんは、屋上がお好きなんですか?」
「どうだろう? 屋上は、天に一番近いから?」
あおいは空に手を伸ばした。
優一郎は、あおいの横顔を見て、息を呑んだ。
「先生?」
「は、はい!」
「どうしたの?」
「あ、い、いえ……」
変なの。
先生は、どこかおどおどした様子だった。
それは、ときめきとは程遠い、先生とわたしの出逢いだった。