星新一の弊害
短編、ショートショートには、どうも『オチ』とか『どんでん返し』が期待されてしまう気がしているが、そんな固定された読み方など、もちろん誤りであることは言うまでもない。
例えば川端康成の掌編小説にそんなものはない。有名な『バッタと鈴虫』みたいにハッとさせられるようなものはないでもないが、あれを『オチ』とか『どんでん返し』とか呼ぶのは間違いであろう。ただ少女の着物に幻燈の灯りが映っているのに気がついた少年がハッとしただけであり、そこにあるのは『美』とでも呼ぶべきものであろう。
ギィ・ド・モーパッサンの短編もそれに似ているようで違う。貧乏ながら愛し合っている夫婦の夫が妻を舞踏会に行かせるため頑張ってドレスをプレゼントする、しかし首飾りがなければ恥ずかしくて行けないと妻は嘆く、富豪と結婚した旧友に会って妻は首飾りを借りる、それを身に付けて夢のような一夜を過ごすも首飾りをなくしてしまう、弁償するため夫婦は若い時をただ労働に費やし、数年後になって旧友に弁償すべき金額を聞く、しかし借りた首飾りは見た目豪華なイミテーションであり、玩具程度の額しかないものだった。これは一見『どんでん返し』に見えないでもないが、モーパッサンの庶民ものは一貫して『現実の残酷さ』をシニカルに描いている。代表作である『首飾り』も、そうした残酷さを描いたものであり、『どんでん返し』とは別のものだと言えるだろう。
人々が短編やショートショートに『オチ』や『どんでん返し』がなければならないと期待するのならば、それは言うまでもなく星新一やオー・ヘンリーの影響によるものである。特に日本では星新一の存在が大きいであろう。
『オチ』や『どんでん返し』にこだわりすぎると、物語がアイデアのみの、色のない無味乾燥なものとなりがちである。それはもう物語というよりはクイズに近い。頭にのみ刺激をくれ、心には何も響かない、ただ『このオチ読めるかい?』というだけの、小説とはとても呼べない代物である。
断っておくが、私は星新一作品をそれほど読んだことはない。また、星新一を貶す意図などこの文章にはないと強調しておく。記憶にある限りでは、星新一作品は素晴らしいものだった。アイデアに溢れ、ユーモアに溢れていた。そういう意味で心に響き、小説として印象に残っている。ショートショートの一つの完成形であることは間違いない。
星新一に影響を受けるのはいい。星新一のようなものしかダメだとする考え方に問題があるのである。
創作の原点は虚無である。何事も決まってなどいない。もちろん現代では『すべてのものは既に書かれてしまっている』と言われ、人間を感動させたり面白がらせたりする方法論が絞られていることは理解している。その上でも、我々創作者は、なおも声高に口にするべきなのだ。何事も決まってはいない! 我々は自由である! と。
自由であるべき創作において、少なくとも短編には『星新一のようなものでなければならない』とする風潮があるように思えてならない。『オチが読めた』『大したどんでん返しがなかった』という理由で低評価する輩を、少なくとも私はよく目にする。オチは単なる結末であり、そこまでの過程に重きを置いていることが明らかな作品でも、『オチが読めた』と言って斬り捨てるのである。アホとしか言いようがない。
星新一の亜流のような作品を私は否定しない。そういうものがあってもいいだろう。しかし星新一のような作品でなければならないとする輩については私は否定する。
そこに星新一の弊害がある。氏の素晴らしい文学作品を『弊害』なんてものにしてしまうのはもちろん、星新一作品の責任ではなく、それしか正解ではないなどと思い込むバカ信者どもの、頭の悪さのせいであろう。