閑話 アイリスの憂鬱
「はぁ……」
アイリス・ディーネル。
ディーネル帝国の第二王女として生まれた少女であり、不断の努力により清廉潔白を体で表し続ける8歳の少女。
しかしそんな彼女でもため息を吐くことはある。
理由は単純明快だった。
ノーム・レスティ。
英雄の家系レスティ公爵家の嫡男であり、その血筋から将来を有望された少年。
そしてアイリスの婚約者である。
彼とアイリスが初めて出会ったのは5歳の頃。
初めての印象としては、穏やかで優しそうな少年だった。
母親にべったりとくっ付いて甘えるその姿は、年相応のものが感じられると同時に、英雄の子孫と聞いて勝手に抱いていた幻想が崩れたのをアイリスは覚えている。
それから何度かノームと顔を合わせることになったアイリスだったが、人見知りで甘えん坊のノームとの仲はあまり進展しない。
アイリスとしてはその光景を羨ましいと思う反面、もどかしい気持ちに苛まれた。
今度こそはと意気込んでは失敗する。
そんな日々を送っていたアイリスだったが、あの事件が起きてしまう。
反皇族クーデター。
王都ディーネルを戦火で焼き尽くした大事件だ。
皇族であるアイリスはいち早く一家と共に隣国ノームウェル聖王国へ一時避難し、戦火を免れることができた。
だが四公爵家、中でも帝国の軍政を担うレスティ家は、反皇族組織から早々に狙われてしまう。
レスティ領は戦場になり、領地は戦火に包まれる。
その時悲劇が起きてしまった。
レスティ公爵夫人ヘレナが養子の娘であるミリアを助けるため、命を落としてしまったのだ。
クーデターが鎮圧され、国に平穏が戻ってから1年。
アイリスは再びノームの下へ顔を合わせに行くこととなった。
アイリスはノームが母を失ったことを知っていたため、励まそうという心づもりで。
しかしそこにいたのはアイリスが知っているノームではなかった。
全体的に丸くなった身体、鋭い目つき、着崩した衣装。
そして自分へ浴びせてくる罵声。
優しいとはかけ離れたノームの姿がそこにはある。
アイリスは罵声を浴びせられながらも、必死にノームへ言葉を投げるが届かない。
返ってくる言葉は、侮辱を孕んだ罵声のみだった。
クーデターは内政を統制できなかった皇帝の責任だとか、皇族は早々に隣国へ逃げた臆病者といった侮辱の言葉が飛んでくる。
初めは我慢していたアイリスだったが、限界を迎えアイリスも怒号を返す。
それがノームとアイリスの最初で最後の喧嘩。
それ以来、まともに会話を交わすことなく今に至る。
豹変してしまったノームという男は未だに過去を捨てられていない。
亡き母への愛情が、周りへの憎悪として変わってしまっている。
しまいには堕ちた英雄の象徴とまで呼ばれる始末だ。
そしてそれは帝国の威信にも関わることだった。
英雄の末裔として、レスティ家は誇り高い一族でなくてはならない。
クーデターに起きた悲劇にも打ち勝てるような強い姿を国民に示さなければならない。
だが現状はこうなってしまった。
皇族として、アイリス個人として一刻も早くノームには立ち直ってもらいたい。
そう思うことしかノームに会う理由が見いだせない程に、アイリスはノームのことがトラウマとなってしまっていた。
だからこそアイリスはこれから行くノームの見舞いに対して気が乗らない。
どうせ碌に口も聞けない。
良くて罵声が飛んでくる。
そんな相手に快く会いに行けるわけもなかった。
それに今回の件も大袈裟に騒いでいるだけなのだろう、とアイリスは思っていた。
以前も転んだ、悪夢を見た、風邪が治らない、などの理由で騒ぎ立てたことがあったからだ。
しかしアイリスのその予想は良い意味で裏切られる。
「待たせたな、アイリス」
あろうことかノームの方から挨拶をしてきたのである。
初めは聞き間違えかと耳を疑ったアイリスだが、段々と焦ってくるノームを見て聞き間違いではないのだと確信した。
「……呪いにかかったと言うのは本当のようですね」
動揺を隠すようにアイリスは口を開く。
ノームはその問いに肯定し、続けてアイリスはお見舞いの言葉を告げる。
これでノームとの顔合わせは終わり。
だがアイリスにはもう一つだけ確認しなければならないことがあった。
アイリスは使用人を控えさせ、ノームと二人きりになる。
そして口を開いた。
「貴方の妹のことです」
屋敷に入る前に目にした少女。
細い身体に真っ白な肌をした弱弱しい少女、ミリアについて問いたださなくてはならなかったからだ。
「……ミリアがどうした?」
暗い顔でそう呟くノームに思わず感情が高ぶる。
やはりこの男は変わっていなかったのだと、絶望する。
しかしノームの口から放たれたのは再びアイリスの予想を裏切った。
「……何とかしようとは思っているさ」
「……え?」
再び聞き間違えなのではないかと耳を疑ったが、今度も本当に目の前のこの男が言ったのだと認識する。
本当にこの男は過去から立ち直り変わったのだ。
だがそれを認識した途端、今まで溜め込んでいた鬱憤が内からあふれ出してしまった。
「……今までのこと、忘れてはいません。呪いで表面上は丸くなったのでしょうが、貴方の性根が腐っていることを私は忘れません」
言ってしまった後で、アイリスは後悔する。
せっかくまともになったこの関係性に再び亀裂が入ってしまうのではないかと。
「ああ」
だが彼は怒ることなく、ただそれだけの返事をして頷いた。
まるで人が変わったのかと錯覚するほどの豹変ぶりだった。
「ですが今回はあくまでお見舞い。病人にこれ以上のことは言いません。次お会いすることがあった時、それこそ呪いの効果が切れた時期にもう一度お話をしましょう」
結局、アイリスは目の前の男の豹変ぶりに心の整理が上手くできず、そう言い残して逃げてしまった。
我ながら情けないと自己嫌悪に陥るアイリス。
だが次の仕事が残っているとして、気持ちを切り替えた。
その後はノームの父、ロード・レスティと会談だ。
ノームの変化ぶりを聞こうと思ったが、雑談を交わす雰囲気ではなかった。
その様子からロードの方はどこも変わってはいなさそうだ。
夫人を失ってから一切笑わなくなった、それは今も変わらない。
アイリスは言葉を飲み込み、仕事に集中するのだった。
それから仕事が終わり、客間で休憩を取っていると、扉が叩かれた。
入ることを許可すると見覚えのあるメイドがそこにはいる。
「失礼致します、ノーム様の使用人を務めさせていただいております、リビアと申します」
「はい、先ほどもご一緒させていただきましたね」
リビアと名乗ったメイドは先ほどノームと共に客間へ訪れた女性だった。
ノームのメイドは会うたびに代わっている。
そのためあまり気にしていなかったが、もしかすると今回のノームの急変ぶりはこのリビアというメイドの働きによるのかもしれない、とアイリスは思い立つ。
「リビア、貴方がノームをあそこまで変えたのですか?」
だからこそ直接リビアに尋ねることにした。
「え? い、いえ、ノーム様は呪いにかかられて、そのショックで日頃の生活を見直されたのです」
やけに慌てた様子のリビアにアイリスは怪訝な目を向ける。
しかし自分の手柄なのであれば、言い触らしても良いものだ。
それを言わないとなれば、本当に呪いの影響なのだろうか。
もしくはノームによって口封じされているのか。
可能性は無限にある。
「……まあ良いです、それで私に何か用でしょうか?」
答えは結局見つからず、アイリスはリビアへ要件を尋ねる。
「はい、ノーム様の学園でのご成績をお聞かせ願いたくて……」
奇妙なことを聞く、とアイリスは素直に思った。
何故メイドである彼女が学園でのノームの成績を気にするのだろうかと、それにそんなことはノームに直接聞けばよいのではないかと。
「なぜ私に聞くのですか?」
「ええっと……ノーム様は恥ずかしがってお教えにならないのです」
確かにノームの学業成績は良くはない。
決して誇れるものではないだろう。
隠そうとする理由も理解できる。
もしかするとリビアというメイドはノームに対して保護者的な感覚を抱いているのかもしれない、そうアイリスは真剣な表情を浮かべるリビアを見て思った。
「分かりました、ですが私が言ったことはどうかノームには内密に」
「はい、心得ております」
秘密をばらすようで気が引けるが、このリビアというメイドはノームを変えたかもしれない人物。
無下にもできなかった。
「では――」
そうアイリスが口を開いた瞬間だ。
「アイリス、リビア!」
件のノームが血相を変えて飛び込んできたのだ。
まさか密談がバレたのか、と慌てるアイリス。
だがノームの次の言葉は全くの別だった。
「アイリス、あの使用人はどこにいる?」
リビアに並んで奇妙なことを、とまたアイリスは怪訝な顔をする。
それにしてもノームの顔は鬼気迫るものがある。
何か嫌な予感がした。
「ひとまず落ち着いて訳を話してください。そんな形相の相手に使用人を紹介するわけにもいきません」
ひとまず宥めるべく、アイリスはそう口にした。
しかしノームは一向に落ち着きを取り戻すことはない。
心配そうな顔でリビアがノームに駆け寄る。
その時だ。
「伏せろ!」
ノームの叫び声と共に、爆発音が響き渡った。
突然のことに混乱し、困惑するアイリス。
「リビア、アイリスを連れて中へ!」
しかしこんな状況下でもノームは冷静に判断を下した。
その後、ノームの指示によりアイリスはリビアに連れられ地下室へ避難に成功する。
自分よりも先に他人を助けたノームの姿はとても印象的で、なんだかとても頼もしく見えた。
「アイリス殿下……私、ノーム様の助けに行ってまいります」
「危険です!」
地下室の中、一向に戻ってくる気配のないノームにリビアがそう告げる。
アイリスは必死で止めにかかるが、リビアの決意は固かった。
「ここに居れば安全ですので」
リビアはそう言ってノームの下へ向かう。
慌ててその姿を追いかけようとしたアイリスだったが、身体が恐怖で震えて動かない。
自分はこうも弱かったのだと実感させられた瞬間だった。
それから幾ばくかの戦闘音。
足音や爆音が地下室に木霊する。
しかし一向にノーム、リビアは帰ってこない。
アイリスは祈ることしかできなかった。
どうか彼らを助けてくださいと。
しばらくして地上が静かになったのを肌で実感する。
すると地下室の扉が開き、そこからノームが現れる。
「ノーム! 一体どこへ行っていたのですか!」
思わず感情のままに叫ぶ。
「大丈夫だ、アークトゥルス卿が来てくれた」
「ほ、本当ですか!?」
ノームの言葉にアイリスは脱力した。
レイモンド・アークトゥルス、世界有数の魔法師であることを知っていたからだ。
それと同時に地上へ向かったリビアのことを思い出す。
「そうだ! リビアさんは大丈夫なのですか!?」
「いや……背中を刺された。今はアークトゥルス卿が治療師の下へ連れて行ってくれている」
アイリスは絶句してしまう。
自分があそこで止めることができれば彼女がケガを負うことはなかったのにと。
それと同時になぜ早く地下室に戻ってこなかったのかとノームを恨んだ。
それからしこりを残しながらもノームと何をしていたのかを話し合い、地上へ出ることになる。
ミリアの件も今は何も言う気にもなれなかった。
地上へ出るとノームの言った通り、レイモンド・アークトゥルスと思しき人物がロード。ノームと話しているのが確認できる。
自分も皇族として話し合いに向かうべきだろう。
アイリスはミリアを部屋へと送り届けた後、レイモンドの下へと向かった。
「アークトゥルス卿、此度のご尽力感謝いたします」
「おお、姫様か。元気そうで何よりだ」
レイモンドは皇族である自分に対して特にへりくだった態度は見せなかった。
それが新鮮であると同時に親しみを持つ。
この人が1等級魔法師。
皇族として彼の力は必要になる、そう確信したアイリスはレイモンドを目に焼き付ける。
そんな折、後方で騒ぎが起こっていた。
見れば、先ほどまで話していたノームが倒れている。
アイリスは慌てて彼の下へ駆け寄った。
「ノーム!」
呼びかけにも反応しない。
もしかしてどこかケガを。
そう思って身体を見渡すが、これといった外傷は見当たらない。
「あー、これはたぶん疲労だな」
「……疲労ですか?」
レイモンドが頭を掻きながら告げた言葉を反復する。
「ああ、ノームは姫様を助けた後、敵の視察をしてたみたいでな」
「……視察」
まさか地下室へ戻ってこなかった理由はそれだったのか。
単純に逃げ遅れたのだと思っていたアイリスは、自分の浅はかさに恥ずかしさを覚える。
ましてやリビアのケガをノームのせいにしようとした。
それは何と愚かなことだろう。
---
翌日になってもノームは目覚めなかった。
だがアイリスは一刻も早く宮廷へと帰らなければならない。
また、見舞いに来ると告げたが、ロードから諫められてしまった。
恐らく次に会うのは学園。
果たして次に会う彼はどうなっているだろう。
また元に戻っているのか、それとも今のままなのか。
アイリスはノームに会うのが少しだけ楽しみに感じていた。