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無の愛

作者: つらら

香住が結論を言っても

芳雄は何も言わず黙ったままだった



取り乱し、聞き入れてくれないと思っていた香住は、気が抜けたのと同時に腹がたっていた



香住が離婚を言い出すのを待っていたかのような芳雄の態度だった



結婚して二十五年

知り合った時から数えたら三十年

人生の半分近くを過ごして来たのに、最後はこんなもんなのか…


取り乱し、泣いて詫びて貰ったとしても、自分の気持ちは変わらないと思っていた


だが、あまりにも呆気ない幕切れに自分自信が哀れに思えて来た

その哀れさにも腹がたっていた



離婚を決意したとき

脳裏に浮かんだのは

芳雄と過ごして来たこれまでの思い出ででは無かった


そんなものは、とっくにどこかに置いて来てしまっていた


芳雄の浮気は始めてではない、香住はその都度泣くことも芳雄を責めることもしなかった


そんな香住の態度に、芳雄は自分のしたことを忘れ香住を罵った


「私はこの人を愛してなんかないんだ」


香住自身も、そう思っていた


結婚したときからそうだった気がする


「愛してなんかなかった、貴方を愛してなんか、」


なのに何故結婚したのか香住にも解らない



付き合いはしてたが、将来の自分達を想像もしなかった


親しい友人達が結婚していく姿を見て「自分も結婚しなくては」と錯覚したのかも知れない



始めから愛情の無い結婚が永遠に続く筈も無く、これ迄一緒にいたほうが不思議だった



「私は人を愛せない、愛せないんだ」



香住がそう思い始めたのは



中学の頃からだった




学校からの帰り道だった公園の前に彼はいた

香住が来るのを待っていたようだった


手渡された紙袋を見つめていると彼が言った

「誕生日おめでとう!」

香住は戸惑いながら答えた「ありがとう…」今日は香住の14才の誕生日だった


彼が自分に好意を持ってることは知っていた

友達の恵美から聞いてたしクラスが違うのによく香住達のクラスに来てたからだ



自分に好意を持ってくれてると知っても気にはならなかったし

嬉しいという気持ちも湧いてはこない、何故だかは解らないが



違う、解らないふりをしてただけかも知れない

そうすることで自分が普通だと思いたかったから



帰って部屋に入った香住は、紙袋を開けもせず机の上に置いたままだった

紙袋を見つめながら去年の誕生日のことを思い出していた

母が買って来たケーキをみんなで食べることは無かった

父の浮気のことで家の中は険悪な雰囲気だった



初めてのことではないので香住に驚きは無かった、ただ…父に対する嫌悪感があったのは事実だ

そのせいかは解らないが男性に対する思いが友達達とは違っていた



早すぎる男性不信だった、そのことが今も香住の心の中に深く刻まれていた




そんな経験をして来た香住が……母と同じ立場にいた


ただ、母と違うのは香住は亭主を追求したり泣いたりもしなかったし

自分が不幸だとも思わなかった



芳雄との話し合いは、すぐに終わり

明くる朝も芳雄は何事も無かったように出勤していった


いつものように一人残された香住は旅行に行こうと思った

これからのことを旅先で考えたかった


家を出る決心はついていたし、娘の所に世話になるつもりは無かった

そのことは既に決めていたが、それから先のことを考えなければいけなかった



この歳になり家を出て行くことが現実になるなんて…



予感はしてたかも知れない「いずれはこうなる」と、いや、望んでたと言ったほうがいいかも知れない



香住は旅に出ることにした



行ったことの無い所で一人考えて見たかった



これからの自分を



陽が落ちると急に涼しくなった


八ヶ岳の山並みを眺めながらコーヒーを飲んでいた


漠然と旅に出たくなった香住だが、特別行きたいと思う所が無かった


荷物の整理をしてるときに、高校のとき仲の良かった美知子から来た絵葉書が出てきた



美知子は大学には行かずに、以前から憧れていた長野に行ってしまった


長野の自然に魅せられ「八ヶ岳が見える所で暮らしたい」と、高原野菜を作る仕事を見つけ同じ仕事をしてた男性と結婚していた


地元の青年と結婚したおかげで憧れの長野に永住出来ることになったのだ


来て良かったと香住は思った

ここの風景は心地よく清々しい

ときの流れも穏やかに過ぎて行く

雄大な自然の中にいると、ちっぽけな自分のことが恥ずかしくもなる



ペンションに泊まろと思っていたが

「家に泊まりなよ、部屋はたくさんあるからさ」

美知子の言葉に甘えることにした


同い年の美知子も、子供達は既に独立して旦那さんとの二人暮らしだった


季節は六月の終わりだった、これから忙しくなる時期なので野菜農家には全国からアルバイトの連中が大勢来ていた



美知子の家も二人のアルバイトを雇っていた

東京から来た大学生のカップルで去年も来てたらしい



「今年は五人か、少し楽出来るかなぁ」

と美知子が言った


いつ迄世話になると言ってない香住のことも頭数に入ってるようだった



日焼けした美知子の横顔は羨ましいほど素敵に見えた



美知子と和夫が所有する農地は五ヶ所だった

栽培してるのはレタスと白菜


種を買い自宅にあるハウスで苗にしそれを畑に植えて行く


植える前にトラクターで農地を馴らすのだがゴロゴロと石が出てくる


香住達の最初の作業は石拾いだった

和夫がトラクターで馴らしていきその後を香住達が石を拾いながら進んで行く


簡単な作業だと思ってたが…なん往復もすると結構きつかった


高地のため紫外線も強く腰も痛くなる

事務職しか経験の無い香住にはなおさらだった


「逞しくなるわけだ」

美知子の日焼けした肌を思い出す香住だった



首筋にかいた汗をときおり風が撫でていく

心地よい風だった




「休憩しようか」和夫の声だった



麦茶を飲みながら和夫を見ていた

美知子以上に日焼けして逞しい和夫は寡黙だった

黙って黙々と作業をこなして行く


手以上に口が動く美知子とは正反対だった



「だから合うんだな」


和夫を見ながら苦笑していた



そして

苦笑しながら自分達夫婦のことが頭を過ぎった



「私達には何も無い、私のせいで何も」




苗を植える日だった



綺麗に耕された畑に

黒いマルチが真っ直ぐに伸びている

バーナーを持った美知子が手際よく穴を開けて行く



何も知らない香住は感心しながら見ていた



毎日野菜は食べていたが、実際に植えるところを見るのは初めてだった



美知子が開けた穴に小さなポット栽培した苗を植えていく

教えられたように入れてみると苗のポットは、穴にぴったり収まった



植えていくと指先から土の温もりが伝わってくる


忘れていた温もりだった

自分を包み込んでくれるような土の温もりに

香住は愛しさを感じていた


ひとつひとつ丁寧に植えていく



汗が流れても

もう気にはならなかった

また心地よい風が吹いた




夕食が終わり美知子と外に出た


「いつ迄いてもええから、遠慮なんかええから」


また美知子が言った


「ここにいるとなぁ、辛いことや悲しいことがあっても八ヶ岳が吸い取ってくれるんよ」



まだ輝きが満たない星を見上げながら美知子は言った




感謝しながら香住も空を見ていた



収穫が始まると朝の

作業が早くなる

まだ薄暗い道を香住

達は、畑に向かって

いた



朝露に濡れた淡い緑

色のレタスが朝日に

照らされ輝いていた



美知子達が手際よく

レタスを切り裏返し

て置いていく

その後を噴霧器を持

った香住が追いかけ

て行く



芯から出るアくの為

切り口が赤くなるの

で噴霧器を使うのだ

った


手馴れた美知子達に

追いつこうと、香住

は必死だった

芯が噴霧器によって

洗われ艶やかになっ

ていった


この畑が終わると次

の畑に向かう

よほど酷い天気にな

らない限り、この作

業が毎日続く




次々と収穫が終わっ

ていく畑を見てると

香住は複雑な心境だ

った

すべての畑の収穫が

終わったら、

この地を去ることに

なり

また現実の世界に戻

らねばならない



これから先のことは

まだ何も考えていな

かった

考えていないという

よりも、何をどう考

えればいいのか

正直、途方にくれて

いた

(自業自得かな)


身勝手な私を八ヶ岳

は、笑ってるだろう



季節は七月半ばにな

ろうとしていた



天候にも恵まれ、収穫は順調に進んでいた


八ヶ岳のふもとにも真夏の暑い風が吹いていた


収穫が始まり、殆ど休み無しに働いてきた農家にもお盆が近づいて来ていた


夕食の片付けをしながら美知子が言った


「諏訪湖の花火大会見たこと無かったよね」


「見たことないって言うより、お盆は墓参り以外出かけてないから」



「じゃあ今年は、みんなで行こ、綺麗だよ」


(花火大会かぁ、何年振りかな 確か、、、)



すぐには思い出せないほど昔だった

芳雄と出かけることすらほとんどないのに、一緒に花火なんか見た記憶すら無かった



娘が結婚する迄は、家の中には会話も笑い声もあった


三人で旅行にも行った

、ごく普通のありふれた家庭だった



娘が嫁ぎ、芳雄と二人になってからは香住は独りだった

芳雄は必要以外のことは話さず

決まった時間に出社し、帰れば寝るだけだった



近所に親しい友人も無く、噂話しが好きな主婦達の輪に入る気にも無れなかった



孤独が香住を支配していた

(ここに居て独りきりなら、本当に独りで暮らそう)



無機質な部屋の壁を見つめながら決心していた




心地よく涼しい風が吹き始め、夜がふけていった



諏訪湖での花火大会は凄い人だった



湖を取り囲む道路にも車の長い列が続いている


みんなが花火の始まりを待っていた


美知子と香住は少し早めに来て湖の近くにいた


「凄い人で驚いたやろ」

汗を拭きながら美知子が言う


花火が始まる前に人に酔いそうだった


同じ長野でも美知子の家がある八ヶ岳の麓より遥かに暑い




そんな中、花火が始まった

次々と大輪の華が咲乱れ拍手と歓声が起こっていた



「スターマインが、ええんよ」


美知子が言う


船上から打ち上げるスターマインは圧巻だった


空に打ち上げた花火の半円が湖に映り綺麗な円を描いている



また、歓声が上がった



花火を観ながら香住は思っていた



(空に咲いた華が本物で湖に咲いた華は偽りのものなのか)



香住は花火に自分の人生を重ね合わせていた


芳雄に対して見せていたのは偽りの自分だったに違いない


本当の自分を見せては、いなかった


ただ、演じていただけだろう



(自分で幕を退かなければ)




次々と本物の華と

偽りの華が咲乱れていた



帰りがまた大変だった

延々と続く車の列に見入ってしまっていた


運転する美知子は馴れた様子で気にすることもなく平然としていた


「珈琲飲んで行こうか?慌ててもしょうがないから」


「うん、動きそうにないもんね」


入った喫茶店も、ほぼ満席だった


座ってひと息ついた香住はバッグの中の携帯に着信があるのに気づいた


娘からだった、何度となくかかっている

何か急用だろうか、


「ちょっと電話してくるね」


美知子に言って香住は外に出た


娘には直ぐに繋がった



娘の話しを聞く香住の瞳は遠くを見つめていた


見つめてはいたが視点は虚ろだった


最後に返事をした言葉さえ覚えてはいなかった


「どうすればいい」

自分に問いかけていた


考えもしなかったことが起き、香住は混乱していた


戻って来た香住の異変に気づいた美知子が言った

「どうしたん、何かあったの?」


美知子の問いかけとさっき聞いた娘の話しが、香住の中で入り混じり咄嗟に言葉が出てこなかった



美知子の声も周りの客達の声も、ぼんやりとしか聞こえてこなかった




香住の瞳には偽りの華がまだ見えていた



芳雄が脳梗塞で倒れた


考えても見ないことが起き、夕べは眠れなかった

気持ちを整理しようと長野に来たのに、神様は許してはくれなかった


芳雄と離れることを許してはくれないのか


身勝手な私に許してはくれないのか


香住は何度も同じ言葉を繰り返し呟いていた



窓から見る景色は虚ろにぼやけ、掠れていた




駅には娘が待っていた


「ごめんね心配かけて」

娘は何も言わず首を振った


病院に向かう車の中でも二人は無言だった

話す言葉が見つからない二人だった




ベッドに横たわる芳雄には以前の面影が無かった


今迄対した病気もせず元気だけが取り柄の芳雄だった


ひと回り小さくなった芳雄を見つめていた



気持ちの整理がつく間もなく

医師の言葉は香住に重くのしかかった

命は取り留めたが障害が残る

そして、命ある限りリハビリを続けなければいけない

やはり、神様は香住の身勝手を許してはくれず、そして、罰をも与えた





退院の日が来た


車椅子を押す香住に芳雄が言った


言語にも障害が残った芳雄の言葉は酷くゆっくりだった


ゆっくりとした渇いた声だった



「すま、、な、い」



声は芳雄の背中から聞こえていた



そして

嗚咽が聞こえた

芳雄の背中は震えていた


香住は、そっと芳雄の肩に手を置いた



香住の手のひらに芳雄の体温が伝わってきた




心地よい温もりだった



香住の心の中の


頑なになっていた


何かが


溶けていった





春になったら



長野に行こう



八ヶ岳の麓へ



一緒に行こう




肩にふれた手に



涙が落ちていた




無が終わりを告げ




何かが始まった気が


した




八ヶ岳の春は


もうすぐだった






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― 新着の感想 ―
[一言]  こういった心の機微を描くお話が、私はとても好きです。  望みもしない事が前進のきっかけになるということ、確かにありそうですものね。 そこをリアリティのある設定と展開でぐっと引き込ませて考…
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