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バンズライフ

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 首相動静(5月16日)*暫定配信*

【午前】10時23分、公邸発。56分、JR東京駅着。11時6分、のぞみ163号で同駅発。

【午後】1時1分、JR京都駅着。4分、同駅発。7分、京都市の府民総合交流プラザ「ミルサ」着。同所内の就労支援施設「ジョブ公園」を視察。利用者、職員らと意見交換。2時20分、同所発。40分、京都外国文化大着。同大のキャリアサポートセンターを視察。学生、職員らと意見交換。3時44分、報道各社の囲み取材。56分、同大発。4時17分、JR京都駅着。32分、のぞみ128号で同駅発。6時48分、JR東京駅着。59分、同駅発。7時24分、東京・永田町の料亭「ミフネ」着。秘書官らと食事。10時6分、同店発。10分、公邸着。 (相同通信)

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◇ ◇ ◇ ◇


 首相公邸に立つ1本の桜の木は、とうにその花びらを散らせ終わっていた。


 今は、薄緑色の葉を陽気な風に揺らせている。


 バロック様式の古めかしい洋館の前に、不自然なほどぽつんとたたずむこの木は、戦後間もない移築の際、時のアメリカ合衆国大統領が贈ってきたものらしい。


 当時の総理番日誌には「首相が國會の廊下を歩きながら、『なんでわざわざ米国から櫻をもらわないかんのや』とぼやいていた。」との記述が残る。


 今年、時報通信に入社したばかりの向井修は、桜を見あげながら、公邸玄関の前で首相の出邸を待っていた。予定時間をすでに10分以上過ぎている。


「リーソー、絶対テレビ見てますよ。サッカー中継が終わるまでは出てこねえな、こりゃ」


 向井がつぶやくと、隣に立っていた相同通信記者の長瀬智春が舌打ちした。


「うるさいシュウ。リーソーって言うのいいかげんやめろ。あほ」長瀬の口調は厳しいが、いつものことだと修は気にしない。


 今日は1日コンビを組み、夜まで首相を追いかけ回さなければならない。 


「今日、おれ風邪ひいてるんですよ、本当の話。だから本気出さないのでよろしくお願いします」


 修が言い終わるやいなや、長瀬は修の尻を蹴り上げた。


「てめえ、なめたことばっか言ってると、殺すぞコノヤロー、バカヤロー」


 ビートたけしのモノマネをしながら、さらにパンチを繰り出そうとする長瀬を見て、修は、「ってえ。なにするんですか」と言ってケタケタ笑った。


「だいたいお前はいつもいつも風邪をひいただの、痔が悪化しただの、、、」


 長瀬が繰り言を続けようとした瞬間、先導役のヤマザキさんが公邸玄関から姿を見せた。すぐ後から内閣総理大臣が秘書官を伴って歩いてくる。


 修は長瀬と声を揃え、


「総理おはようございます」と元気よく挨拶した。



* * * *

 首相はいつものように、「はい、おはよう」と笑顔を見せると、総理公用車に乗り込んだ。


 番記者二人は、首相の乗車を確認した後、後方に止まる『番車』に駆け込んだ。


 熟達したドライバーが運転する番車は、総理車にどこまででもついていく。SP車を挟んで車列をつくり、総理車が赤信号で突き進めば同様に信号無視するし、スピード違反をすれば同じ速度で走っていく。急発進、急停車は当たり前だ。


「じゃあ『午前10時23分 公邸発』で入れるぞ」


 早速乗った高速は渋滞気味だったが総理車はスピードを緩めない。


 修はデスク補助に電話をかけ、「午前10時23分、公邸発」と吹き込むと、背中をシートに沈めてぼんやり前方のSP車を眺めた。


 車の窓からは若手のSPが上半身をまっすぐ出し、笛をけたたましく鳴らしながら赤い警棒を振り、他の車の動きを止めようとしている。突如現れた黒塗りの車列に一般のドライバー達は困惑顔だ。SPが前後に激しく警棒を振るが「そこで止まれ」と言っているようにも「はやく行け」とせかしているようにも見えて紛らわしい。


 修は東京駅に着くまでのつかの間、睡眠を取ろうかと考えた。


 そのとき、携帯電話が震えて、メールの着信を知らせた。


〈どこぞの初老男性の行動をいちいち記録して分刻みで配信していく仕事、楽しいですかー!?〉


 画面を開くと、水貝美緒からの人を食ったような文章が目に入った。


〈どこぞの老人ぢゃねー。総理大臣だ〉とだけ返してケータイを閉じる。


 すぐにまた着信。


〈そんなことはどうでもいいんだけどね。今日うちにくるの?〉


 一読して修は心の中で舌打ちし、ケータイをしまって目を閉じた。 



* * * *

「もう着きますよー!」


 ふがふがした、番車ドライバーの後藤さんの大声が聞こえる。目を開けると、フロンドガラスからは東京駅のれんが色の建物が見え始めていた。


「56分です」。後藤さんが停車と同時に東京駅の着時間を告げた。


 修は車が完全に止まるか止まらないかのうちにドアを開け、飛び出していた。前方を進む首相の真後ろまで駆け寄ってから、歩きながら息を整える。もちろん長瀬も横を歩いている。


 今日は首相が力を入れている若年層の雇用促進に関する視察で京都へ行くのだ。就労支援施設や大学を見て回り、就職活動中の若者との意見交換会も予定されている。


 首相はVIP通用口から建物内に入っても、悠然と歩いている。修は手元のノートに『10時56分』とメモしながら、首相の表情をうかがう。


 出邸時間が少し遅れたために、新幹線の出発に間に合うか微妙になっている。政府専用機や自衛隊機ならいくらでも融通が利くが、民間の交通機関を使う場合には、いくら総理大臣といえども定刻を過ぎては乗り物も待ってくれない。


 SPのキャップであるコバヤカワさんが焦っているのが表情から分かる。本当は、首相に「もっと急いでください」と言いたいところなのだろう。


 VIPスペースから一般客もいる階段口に出ると、首相はようやっと2段とばしで軽やかに階段を駆け上がり出した。修からは少し笑っているようにも見える。今年63歳を迎える初老の男性とはとても思えない。周りの秘書官や補佐官の方が息切れしているぐらいだ。


 出発を知らせるベルが鳴りだした。ホームに到着した首相は再び速度を緩め、歩き出した。時間が迫っているから階段を駆け上がったわけではなかったようだ。修も最近気付いたことだが、首相は単に階段での「2段とばし」が好きなだけなのだ。


 グリーン車の乗り口まではあと20メートルは歩かなければならない。


 首相は親子連れらに「やあ、やあ」と手を振りながら、慌てる様子がまったくない。コバヤカワさんは眉間にしわを寄せながら振り返り、


「二人はもう乗り込んでくれ」と大声を出した。


 首相と秘書官、補佐官、SPに続いていては記者2人が乗り遅れると判断し、声を掛けてくれたのだろう。修は電波式の腕時計を見て、すでに出発時間になっているのを確認すると長瀬に、「乗り込みましょう」と声を掛けた。


 隣の車両から乗車し、通路を通って席まで移動すると、プシューとドアが閉まる音がした。修は、「これリーソー乗り遅れてたら、俺らやばくないすか」と振り返ったが、長瀬は前方を見ろというふうにアゴをしゃくった。首相たち一団が乗り込んできたところだった。


 修は長瀬と並んで、首相の3列後ろの席に腰を落ち着けた。よく分からないが列車での移動の場合、総理番の席は『行きは総理の3列後ろ』『帰りは総理の3列前』と慣例で決まっている。


「じゃあ時間合わせましょうか」


「うん。ほんじゃあ『午前10時56分 JR東京駅着。』『午前11時6分 のぞみ163号で同駅発。』入れるか」


 いつものやり取りをして、修はひと息ついた。


 時報と相同の2社は本来、最も競合するライバルである。全国津々浦々、さまざまな現場で抜いた抜かれたの競争が行われている。しかし、この総理番業務に限ってはお互いに「敵」という概念は捨てて、常に情報を共有し、協力し、首相動静を合わせて入力していく。どうしてそういう方式になったのか、なんだかややこしい経緯があったと聞いたけど、それは忘れた。


 ケータイがまた震えた。


〈おーい〉とだけ書かれている。美緒からだった。


 修は文字を打ち込むのが面倒になり、電話をかけようと思った。


「長瀬さん、ちょっとトイレ行ってきます」


「中学生かよ。勝手に行け」


 デッキに出た修はやや緊張しながらコール音を鳴らす。すぐに美緒の声が聞こえた。


「どう?ウチこれそう?」


「いや、今日は仕事になっちゃったって、この前も言ったと思うけど・・・」


「夜だけでも誰かに替わってもらうかもとか言ってたじゃん」


「うーん。やっぱり難しそう」


「そっか。じゃあケーキ焼かないね」


「うん。今度頼むよ」


「・・・修、仕事面白い?」


「なんだよ、いきなり。仕事なんて面白いとか面白くないじゃねーだろ。誇り持ってやってんだから」


「そっか。だったらよかった」


「だからなんだよ、それ」


「いや、わたしは仕事、全然面白くないからさ」


「とにかく、とりあえず切るよ」


「分かった。頑張ってね」


 電話を切った後もしばらく、修はデッキの窓から流れる風景をぼんやり見ていた。河川敷では、親子だろうか、小学生ぐらいの子どもが男性の構えるミット目がけてボールを投げていた。今日は日曜日。週末が必ず休みの美緒と、不規則な自分との生活リズムがだんだん合わなくなってきていると感じる。それとともにお互いの気持ちも少しずつ、すれ違い始めていなければいいのだけれど。そんなことを考えながら席に戻った。


「なげえウンコだったな」


 鼻をつまみながらの長瀬のセリフに、


「小学生かよ」と返し、「おれ思ったんですけど」と修が続ける。


「おれたちのこの仕事って鬼のようにつまらなくないですか」


「いまさらだな」


 長瀬はあきれたように修に視線を投げる。


「だって、これ、誰でもできることじゃないですか。総理が何時何分にどこに行って、何時何分にどうしたこうした、って記録するだけ」、


 修は前方に座っている首相を少し気にしながら小声でしゃべる。


 長瀬はうるせえなといった表情を浮かべて答えを返さない。


「おれ、この前、うちの会社のデスクにも言ったんですよ。こんなのアルバイトの学生にでもやらせとけばいいですよ、って。そしたらなんて言ってきたと思います。『おまえと学生の何が違うんだ。だいたい総理番なんてのは記者じゃねーんだよ、記者じゃ。お前は番なんだ、番、しょせん』って。意味わかんねー。あのオッサンのあたまの中じゃ漢字の『番』でもなくて、カタカナの『バン』って感じだな、きっと。ふざけやがって」


「その通りなんだから、しょうがないだろ」


 長瀬に言われて、修は言葉に詰まった。


「長瀬さんって入社何年目で結婚しました?」


「は?おれ独身だけど」


「あ、そうなんですか」


「なに?おまえ結婚すんの?」


「いや、そういうわけじゃ」


 修は黙り込んだ。


 しばらくして、「それからオレ、言い忘れてたんですけど、今日、誕生日・・・」と言いかけ横を向くと、長瀬は顔を上向けにして目を閉じ、間抜けな骸骨のようにあんぐりと口を開けていた。


 もやもやとした気持ちを抱えながら1時間が過ぎた。さっきの電話での美緒とのやり取りを思い出す。なんだよ、仕事面白いかって。「誇りを持ってやっている」なんて言ったのはウソもいいところだけど、おれだって真剣に自分の職業に向き合おうとはしてる。そんなことを思いながら、修は座席横から首相の姿をときどき確認する。今のところ特段の異状はなさそうだ。


「こうなってくると、おれは弁当が楽しみだ」


 いつの間に起きたのか、長瀬が背もたれ越しに振り返り、後ろの席に座る官邸広報室のオオバさんに、「そろそろ昼メシ配る時間じゃない?」と催促をしていた。


「こうなってくると、って、どうなってくるとですか」


 修の質問を無視した長瀬は、「総理大臣とおんなじ弁当が食べられるんだもんな。おれも偉くなったなあ」と満足そうに笑っている。


「なんか言ってること、鬼のようにダサくないですか?そんなんで政権の批判記事なんて書けるんですか」


 修の言ったことにも、長瀬が反応する様子はない。


 配られたのは何の変哲もない幕の内弁当だった。首相をはじめ、同行の補佐官や秘書官、SPたちも同じものを食べている。


 長瀬はしきりに、「うまい、うまい」と繰り返し、卵焼きやウインナーをつついている。


「そんなにうまいですか。というかあんまりうまくないような気が…」


 修はそうつぶやいて、シュウマイを口に入れた。


「あー、うまかった。おれは幸せだよ」


 長瀬は、一緒に配られたウーロン茶を飲み干して、早くも弁当を片付け始めた。


「いや、先輩、残してるじゃないですか。なにがうまいですか」


 長瀬の手元をのぞき込みながら、修は半ばあきれながら言った。


「バカヤロウ。総理に聞こえちゃうだろうが」


 小声になりながら、長瀬は手で制するような仕草をしている。


 修は、よく分からない人だなと思いながら食事を続けた。


 午後1時1分。のぞみ163号は京都駅に着いた。



* * * *

 帰りの新幹線の車中、修は疲れ切っていた。


 視察はばたばただった。大学側の受け入れ態勢が不十分だったこともあり、施設は利用者や報道陣でごった返し、首相が右へ左へと動くたびに混乱の極みとなり、時間を記録していくだけで大変だったからだ。動静を速やかに配信しないとデスクは文句を言ってくるし、視察自体の原稿を配信する必要もあるしで自分のキャパを軽く超えていった。


 京都外国文化大学で行われた首相のぶら下がり取材では、高校や大学新卒者の就職難を打破するため、吉岡理沙子首相補佐官をリーダーとする特命チームを設置する方針だとの発表もあった。


 ぶら下がりが終わった直後、大学の建物を出て、京都駅までの移動の最中に長瀬が電話で、


「速報打ちます。雇用特命チームを設置すると総理が言い出したので、原稿はそれをメインにします。10分で送ります」


 と話すのを、修は聞いていた。


 長瀬は電話を切ると、車の中でパソコンを開き、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。修のほうは、首相のぶら下がりを録音したICレコーダーの音声をイヤホンで聞き、記者団とのやり取り内容を書き起こし始めた。


 新幹線に乗り換えてからも作業を続け、ようやく終わったのは出発から30分以上が経過してからのことだった。横を見ると、長瀬は余裕といった表情でガムをかんでいる。


 新人の自分はまだ、原稿という形では文章を書かせてもらえない。書き起こしのメモをデスクに送って、それを基に記事を作ってもらうというやり方なのが悔しい。何年も先輩の長瀬のようにできなくてもしょうがないのかもしれないが、自分の仕事がツマラナイと感じてしまう要因の一つなのは間違いない。


 それでも、ともかく修は、作業が一段落したことでほっとひと息をつき、なぜだか3列後ろの席に首相が座っていることを忘れた。


 そして、かなり大きな声で、


「それにしても学業と就職活動を両立できるような政策を実行するとか言われても、全然真剣味伝わってこないですよね」


 と言った。


 座席の上であぐらをかいていた長瀬は、組んだ足を解きながら後ろを指さし、「おい」と驚いた顔をつくった。


 そこで修は後ろに首相が座っていたことをやっと思い出し、血の気が引く思いがした。「学業と就職活動を両立させる」とは、首相が今日のぶら下がりで言った言葉だ。


 2列後ろ、番記者と首相の間には、いつも視察に同行する政務秘書官が座っていたが、そこからは大きなせき払いが3度聞こえた。


「やばいすね」


「別にいいけどよ。『今言ったのは時報のほうです。時報の向井です』って言えよ」


 長瀬が本気とも冗談ともつかない調子でそう命令してきた。


「やですよ」


 と修が身を小さくさせて答えると、長瀬は、


「じゃあ『相同の長瀬さんではありません』とだけでも言え」


 小声で言って笑った。


 その時だった。


 何者かが、背後から修の肩に手を置いたかと思うと


「君たち、ちょっといいかな」


 という声がした。


 修が体をびくっと震わせながら反射的に振り返ると、そこには首相が立っていた。


 そして首相はそのままデッキの方に歩いていってしまった。


 驚きながら、修は、


「何ですかね」


 と訊いた。


「知らねーよ」


「今のこと怒られるんじゃ?」


「知らねーよ」


 総理番といっても、いつも一方的に首相を見ているだけで、これまでにまともに話をしたことなんてない。長瀬も相当驚いた様子でゆっくりと腰を上げた。


 二人の番記者がデッキに出ると、首相はこちら側を向いて立っていた。


「やあ、呼び出して悪かったね」


 穏やかな口調で言うと


「原稿の方はもう大丈夫かな」


 と訊いてきた。


「大丈夫です」


 緊張した面持ちで長瀬が答えると、首相は微笑みながら、


「実はちょっとお願いごとがあるんだ」と切り出した。


「非常に私的なことなんだけれど、今日は母親の米寿の誕生日でね。朝、電話があってレストランで夕食を食べないかと言ってきたんだ」


 修は学生時代に読んだ首相の評伝を思い出した。確か、母親をはじめ、親類との付き合いはほとんどないということが書かれてあったはずだ。特に兄とは絶縁状態が続いているというエピソードを、当時の修は本当だろうかといぶかしんで読んだのだった。


「おふくろと話をしたこと自体、3年ぶりぐらいだったんだがね」


 首相がまだ商社勤務をしていた20代のころ、父親が政治家の汚職事件に巻き込まれたとの話が評伝には詳述されていた。著名な市民運動家だった首相の父は、団体の金を使い込んだとして業務上横領の容疑で逮捕された。さらには父親は敵対するはずのある国会議員から多額の金銭を裏で受け取っていた疑いも浮上し、世論の大きな反発に遇いながら、失意のうちに亡くなったということが当時の週刊誌を賑わせたらしい。自殺だったそうだ。


 元新聞社勤務のノンフィクションライターが地を這うような取材を続け、すべては議員の仕組んだ罠だったと報じたのはその5年後のことだったらしい。


 首相が政界入りを目指した時、実の兄をはじめ親戚一同は猛反対した。兄は、父を殺した男がいる世界に飛び込もうとする弟を理解できなかったのだという。


 総選挙への出馬を決めた首相に対して、彼の兄は、


「お前はもうウチの人間ではなくなる」


 と冷たく言い放ったと、評伝には書かれていた。


 首相は修と長瀬に交互に視線を向けながら、


「兄は、私が政治家になる時に『家との一切のかかわりを断て』と言ってきてね。『その覚悟があるなら、勝手に政治家でも何でもなればいい』と言われて…。私も若かったものだから」


 そこまで言うと首相は少し迷ったような表情を見せた。修は首相が何を言いたいのか、何となく分かりかけてきた。


 1980年に衆院議員選挙に初当選して以降、実際、親戚との付き合いはほぼなくなったのだと首相は説明した。


「おふくろは今でも元気なようなんだけど。朝、電話を掛けてきた時に『いつまで生きてられるか分からないから、お前と最後にゴハンが食べたいよ。話したいこともあるし』と言ってきてね。こんなことは初めてなんだ」


 首相は大きく息を吐いた。


「ここから先は非常に言いづらいんだが。今日の首相動静に『母親と食事』というのを書かないでくれないか。おふくろの面倒をこの30年見てきたのは兄なんだ。母が私と食事していたことが分かれば兄は怒るだろう。そうなると母は家の中でまずい立場に立たされることになる」


 眉間にしわを寄せて、答えを待つように首相は背筋を伸ばした。


 修は突然のことに考えがまとまらなかった。首相が話し掛けてきたというだけで驚いたのに、こんなお願いをしてくるとは。何と答えればいいのか分からず、長瀬を見ようとした瞬間、


「それはできません、総理」


 ときっぱりした声が聞こえた。


 長瀬は顔を真っすぐに首相に向けて、


「われわれの仕事は総理の一挙手一投足を記録していくことです。誰と会って、何を話したのか、漏らさず読者に伝えていく。政治の透明性を担保するため、権力者の暴走を防ぐため、記者が自分の意志で総理の行動を追う。そこに例外はありません」


 首相は怒るでもなく、落胆する様子でもなくじっと長瀬の言葉を聞いていた。


「それに。総理のお話だけ聞けば私的な事情ということになりますが、今のお話がすべて本当のことかどうか判断するだけの材料が私にはありません。こんな要求をされてはわれわれの仕事は成り立ちませんよ」


 最後の方は強い語気で口調も速かった。


「失礼します」


 長瀬はそれだけ言うと修と首相に背中を見せ、自動ドアを開けてさっさと座席に戻ってしまった。


 首相は修に顔を向けると、


「すまなかったね」


 と謝った。


「要求をしたつもりはなかったんだが。いずれにしても無理なことを言ってしまった。長瀬さんにも『すまなかった』と伝えておいてください」


 首相は微笑を浮かべると、ドアの向こうに姿を消した。


 1人デッキに取り残された修は呆然として、今のやり取りを思い返していた。それと、首相が長瀬の名前を覚えていたことに驚いた。そうするとオレの名前も知っているのかな、とか、総理のお母さんと誕生日同じなんだ、とか、そんな関係ないことが気になった。


 修は、薄暗くなった窓の外をぼんやり見ながら、美緒は家かなと考え、座席に戻った。首相を見ると、肘掛けにおいた手にあごを載せ、目を閉じていた。



「長瀬さん、さっき言ってたこと、その通りだと思いました。とりあえずキャップに電話してきますんで」


 小声で告げて、またデッキに戻ろうとした修のベルトを長瀬がつかんだ。


「まあ待て。取りあえず座れよ」


 先ほどの興奮した口調とは打って変わり、長瀬は落ち着いた様子だった。


「キャップに電話する前にまずお前が考えろ。総理番はお前だろ」


 諭すように、長瀬もまた小声で話した。3列後ろに首相がいることを気遣っているのだろう。


「いや、長瀬さんの言うとおりだと思いましたよ。権力者の透明性を保つためには、全部動静に入れなきゃダメですよね」


「母親とメシ食うことと、権力者の透明性と何の関係があるんだよ」


「だって、あんたがさっき言ったんでしょう」


 声が大きくなりだした修に、長瀬が落ち着けというように両手の平を下向きにして上下させた。


「おれ、お前の7コ上だぞ。誰に向かってあんたなんて言ってんだ、バカヤロウ、コノヤロウ」


「こんな時に年次も何もないでしょう。たけしなんてやってる場合ですか」


 あきれた修がため息まじりに言うと、長瀬から、


「モノマネなんてやってねえよ。今のはおれだ」


と反論が返ってきた。


「どっちでもいいですけど、じゃあさっき総理に言ってたことは何だったんですか」


「建前だよ。取材先にあんなこと言われて『はい分かりました』なんて言えるか」


「じゃあ、動静には『母親と食事』って入れないんですか」


「だからそれを考えてるんだろうが」


 と長瀬は言って、両手の小指をなめてから頭にかざし「ぽくぽくぽく」と言い始めた。


 修は長瀬を睨みながら、


「マジで鬼のようにつまらないのでやめてください。なんで今、一休さんなんだよ」


と言って、またため息をついた。


 お互いがしばらく口をつぐんだ。権力者の透明性とは何だろうかと修は考えた。権力側にとって都合の悪い情報でも報道していくことが透明性を保つということかもしれない。そうすると、今回のことは政治的に首相の都合の悪い部分を隠すという話ではないなと思った。そして、


「確かにさっきの総理の話に政治的な意図はありませんよね」


 と言った。


「確かにの意味が分からないけど、世の中が不景気で苦しんでるときに、お前はのんきに母親とメシなんか食ってんじゃねーよ、っていう国民の声をおそれてるかもしれないぜ。もしくは政局かまびすしいこのご時世に党内をまとめることもしないで、身内と食事ですか、っていう与野党の声を抑えたいのかも。これだと政治的な意図がありありだな、ムカイくん」


「長瀬さんはどうしたいんですか。じゃあ『母親と食事』って入れるんですか。どっちですか。さっきの総理の話はウソだって言いたいんですか」


「分からん」


 そう言って長瀬は背もたれに背中をつけ、肘掛けに両手を載せた。


「おれもよく分からないけどよ。でも朝、電話がかかってきたってのはたぶんホントだな。それで出邸が遅れたんだろ。今まで、出邸が予定時間を過ぎたことなんてないからな。よっぽど予定外のことが起きたと考えるのが妥当だ」


 長瀬は前を向いたまま、真剣な表情で続けた。


「それからお前も感じてると思うけど、総理はせこいウソをつくような人じゃない。それぐらいは分かる。それに総理だって人間なんだから家族を思いやる権利がある。公務に100%打ち込むことと、家族を大事にすることは矛盾しない。お前が真面目に仕事しながら、彼女のことを大事にしているのと何ら変わりはない。仕事のちょっと空いた時間に、デッキで彼女に電話をかけるのは別に間違ったことじゃない」


「いや、おれは別に・・・」


 長瀬は、「と、オレは思う」と付け足して、口を真一文字に結んだ。


 二人の間に沈黙が漂った。修は動静と美緒のことを考えていた。そして考えがまとまらないうちに口を開こうとしたら、長瀬がそれを制した。


「でもオレが今言ったことは考慮しなくていい。今日の夜の動静はそれぞれで入れることにしよう」


 時報と相同が流している首相動静はいつも原則としてまったく同じものだ。内容が同じなだけでなく、新聞社やテレビ局に配信するタイミングもきっちり合わせている。総理番業務に関する両社の協力態勢とはそこまで徹底したものなのだ。


 長瀬が言っているのは、その動静をそれぞれの判断で入れた結果、それぞれが流す記録が違ったものになっても構わないということを意味する。しかし、もしそうなれば新聞社やテレビ局が混乱するだけでなく、読者からも問い合わせが殺到するだろう。


「本気ですか」


 修の問いに、長瀬からの返答はなかった。


 いつの間にか品川駅を過ぎていたのぞみ128号は東京駅のホームに滑り込んだ。


「じゃあ、これは合わせよう。午後6時48分、JR東京駅着。それにしても日本の新幹線は正確だよなあ」


 首相の後ろを歩きながら、長瀬が言った。



* * * *

 首相が入った店は公邸からほど近い場所にある料理屋だった。昔の世界的映画スターにゆかりがあるとして、その俳優の名字を店名にしている。そばが旨いことで有名で、首相の夕食場所として動静にもたびたびその名が登場する有名店だ。


 車列が横付けされると、修は長瀬と一緒に番車を降り、店内に入った。中で首相の同席者を確認したら、食事中は店の外で待つというのが普段からの段取りとなっている。相手が見ただけで誰か分かる時はいいが、分からなければ、「お食事前に失礼ですが」と言って名刺を切り、相手からも名刺をもらう必要がある。これらの確認作業が終わるまでは、首相はいつもただじっと待ってくれている。


 店の奥の個室に入ると、着物姿の老女が背筋を伸ばして正座していた。修は、座敷に飾られている調度品の数々に目を奪われた後で、女性と目があった。銀色にも見える白髪をひっつめ、薄く口紅を引いた唇を緩めている。88歳には見えないなと修は思った。


 長瀬は女性の向かい側に腰を下ろした首相に「失礼します」と断り、靴を脱いだ。


 それからゆっくりと腰をかがめ、女性に向かって、


「相同通信の記者で長瀬と申します。総理を担当しておりまして、首相動静という新聞の片隅に載る記事を書いています」


 と言った。女性はにっこり笑って、


「そうですか。せがれの記事は全部しっかり読ませてもらっていますよ。ありがとうございます」


 ゆっくりとした口調で礼を言った。


 首相に関する記事といっても、そのほとんどは首相や政権を批判する内容だろうに、と修は思った。何をやっても叩かれるというのが民主主義社会における権力者の宿命とはいえ、どうして批判記事を書かれてる息子の母親が「ありがとう」と言えるのか、修には分からなかった。


「ささ、そちらの若い方もそんなところに立ってないで、二人とも早く座ってちょうだいな」


 女性に声を掛けられると、長瀬は困惑したような表情を浮かべた。


「いえ、われわれは首相動静の確認をしたかっただけですので」


 断りを入れてから


「失礼ですが、首相のお母さまの三津子さんでいらっしゃいますね」


 と訊ねた。


「そうですよ。よくご存じなのね。さあ、早く座ってちょうだい。私おなかがすいちゃったわ」


 三津子は立ち上がると、修のところまで歩いてきて手招きした。


 成り行きを見ていた首相は黙ったままだ。


「いえ。それでは失礼します」


 長瀬は頭を下げながら、修に目配せしてきた。


「お前も黙ってないで、なんとかしなさい」


 首相に語りかける三津子の声を背中で聞きながら、二人の番記者は店を出た。



 外に出ると、店の表に立っていたSPのコバヤカワさんが、


「今日は時間かかったねえ」


 と話し掛けてきた。


「早く動静入れないと、デスクに怒られちゃうんじゃない?」


 外を移動する際は、常に記者とも一緒にいることになるSPたちは、総理番の業務についてかなり詳しい知識を持っている。修が赴任してきたばかりのころには、


「今の総理の発言だったら、速報を打たなきゃダメだよ」というマニアックなアドバイスをしてきてくれたこともある。この時は書き起こしメモを本社に送った後、デスクから電話がかかってきて「この発言だったら、速報打たなきゃダメだろう、何やってんだ」とコバヤカワさんが言ったこととまったく同じことを言われ、怒鳴られた。


「そんじゃあ、動静入れるか。午後7時24分の時間だけ合わせて、『まるまると食事』の相手の名前部分は自由ってことで」


 長瀬は地面にかがむとパソコンを開きキーボードを叩き始めた。


「ちょっと待ってくださいよ。ほんとにそれぞれで入れるんですか。おれ決めきれませんよ。長瀬さん決めてください」


 最後は懇願するような口調になった。


 長瀬はまあまあと手を振って、


「お前が何のために記者をやってるかよく考えてみればいいじゃないか。お前の仕事は何なのか。誰のためなのか。簡単なことだろ」


「そんなこと考えたことないですよ」


 修は困ったことになったと思った。長瀬はすでに動静を入力し終わったようだ。配信のタイミングが大きくずれると、新聞社やテレビ局から何を言われるか分からない。


 自分が何のために記者をやっているのか、修は真剣にそんなことを考えたことが実際のところなかった。入社試験の面接で志望動機を聞かれた時は「権力の監視ができるのは記者だけだからです」と答えた気がする。結局最終で落とされた大日新聞の面接では「弱者に寄り添う記事を書きたいんです」と思ってもないことを口にした。


 権力の監視が本当の動機なら、今日だって事実を報道すればそれだけで済む話のはずだ、と思う。それに今、権力者の言うなりになって事実を曲げてしまえば、自分がこれから歩むだろう長い記者人生に何か決定的な悪影響をもたらすのではないか、という不安も襲ってくる。一度権力者に屈してしまえば、毎度毎度いろいろな理屈をこねて自分に言い訳し、二度と権力というものに抗いきれなくなるのではないか。修はそんなふうに考えたのだった。



 一つの結論が出た。



 修は、「動静入れます」と長瀬にことわり電話をかけた。デスク補助が出ると修は、


「動静お願いします。午後7時24分、東京・永田町の料亭『ミフネ』着。母三津子さんと食事。三津子は漢数字の三に、津々浦々の・・・」


 その時、カラカラカラという店の扉を開ける音がした。


 三津子が姿を見せ、修と長瀬に向かって、


「まだお仕事終わらないの。早くいらっしゃいな」


 と声を掛けたのだった。さらにコバヤカワさんが立っているのにも気付き、


「あら。あなたもこんなところにいないで、一緒にお食事しましょう」


 屈強なSPの肘をつかみ、店内に連れて行こうとしている。コバヤカワさんが口を曲げ、露骨に困った顔を見せている。


「かけ直します」


 修にはこの瞬間、迷いが生じた。首相が守ろうとしているものは何も自分の利得や権益ではないではないかという思いが強まったのだった。政治家としての体面や、国民の支持とは何の関係もない。彼が守ろうとしているのは、ここにいる、この女性そのものではないか。あの列車のデッキで記者に語りかけてきた首相は、しかし首相ではなく、1人の息子に過ぎなかったのではないかと修は考えたのだ。


 修は同時に、長瀬のいつもの口癖も思い出していた。「読者のため」という口癖を。長瀬はいつも「取材を尽くしてなおかつ迷ったら、読者のことを考えろ」と常々言っていたのだ。


 「母親と食事」を例えば「秘書官と食事」に書き換えたとして、読者に不利益があるだろうか、と修は思いを巡らした。秘書官が同席しているのはウソではない。「秘書官らと食事」ではどうだろうか。


「動静入れ直してきます」


 再び、修は長瀬に声を掛けて、少し離れた場所に移動しようとした。


「分かった。シュウ。事実は曲げるなよ」


 長瀬が大声で言った。


 修は、長瀬も自分と同じことを考えていると確信して、電話の呼び出し音を聞いた。珍しく5回コールが鳴っても誰も出ない。その時に、また長瀬の口癖が頭に蘇ってきた。


「読者のことを考えろ」


 いや、長瀬さんが言っていたのはそれだけではない。


「取材を尽くしてなおかつ迷ったら…」


 自分は取材を尽くしただろうか、という思いが修の頭をよぎった。


 その瞬間、電話を切って、駆けだしていた。


 電話を掛けている間に、店内にしぶしぶといった様子で戻る三津子の姿が見えていた。


 修が走って店内に入ろうとするのを、コバヤカワさんが抱き留めるように止めた。


「何やってんの。中に入るのは同席確認の時だけって取り決めでしょうが」


 コバヤカワさんを振り切り、修は走った。


 店の奥では、三津子が首相の前に腰を下ろしたところだった。中にいたSPに腕をつかまれながら、修は三津子に向かって、


「お母さま、たびたび失礼します。今日のことは総理のお兄さまはご存じないんでしょうか。お兄さまに知られるとお母さまは都合が悪いんでしょうか」


 一気にまくしたてた。


 三津子は「あらまあ」と声を漏らし、


「この子が心配ばかりかけて申しわけないですねえ」


 とつぶやいた。


「今日はその話で来たのよ。嘉弘にも一緒に来るように誘ったんだけどね。『オレは今日はとりあえずいいや』って。バツが悪いのね」


 首相は顔を上げると、驚きを隠せないといった表情で、


「兄貴に言ってきたのか」


 と訊いた。


「何も知らないのはお前だけだよ。お前も嘉弘もお父さんに似て頑固なんだから困っちゃう」


 と言って、三津子は微笑んだ。


「嘉弘から伝言だよ。『おれはもう怒ってないよ。申しわけなかった。許してくれ』ですって」


 首相は三津子を見すえたまま黙っている。


 その時、修の携帯電話が鳴った。デスクからだった。


「何やってんだ。時報の動静が入ってこないって新聞社がうるさく言ってきてるぞ」


 怒鳴り声が耳に響く。


 修も怒鳴り返した。


「それじゃあ、動静お願いします」


「なんだよ。うるせえな」


「午後7時24分、東京・永田町の料亭『ミフネ』着。母三津子さんと食事。三津子は漢数字の三に、津々浦々の津、子どもの子、です」


「なんだよ。相同は『秘書官らと食事』になってるそうだぞ」


「あっちはこれから差し替え送るそうです」


「分かった」


 電話を切ると、修は首相と三津子に頭を下げ「失礼します」と店をあとにした。



 修は、表で待っていた長瀬にことの顛末を説明した。


「三津子さんの名前を出しても何の問題もありません」


 声が弾んでいるのが自分でも分かる。黙って話を聞いていた長瀬は、「うーん」とうなり、また10秒ほど黙り込む。右手で自分の髪をぐしゃぐしゃとかきむしり、ひと言、


「参った」


 と言った。


 それから長瀬はおもむろにパソコンを開き、


「ウチも動静を差し替えるよ。助かった、ありがとう」


 と礼を言った。



* * * *

 午後10時10分、公邸着の動静を入れ終わると、修は長瀬と一緒に長い長い息を吐いた。


 首相が公邸に入る際はいつものように、「総理、おつかれさまでした」と声を掛けた。


 首相は少しだけ笑いながら振り返り、「はい、おつかれさま」と答えた。


 この後は、記者のほうは公邸横にある『番小屋』と呼ばれる待機場所で体を休めることができる。部屋の窓から公邸玄関の出入りをチェックし、何も起きないまま午前零時を迎えれば、その日の業務が終わるのだ。


 あと30分で日付けが変わるという段になって、引き継ぎの「総理番日誌」をつけていた長瀬が口を開いた。


「今日はありがとう」


 修はいえいえというふうに首を振った。


「お前に初心を思い出させてもらったよ。システマティックな取材に慣れっこになってしまってた。すまん」


 長瀬は座ったまま、深々と頭を下げた。


 修は、「とんでもないです」とだけ答えた。


「じゃあ、今日はお礼に飲みに連れていってやるよ」


「あ、いや、大丈夫です」


「バカヤロウ、先輩に飲みに誘われて断ってんじゃねー、殺すぞコノヤロー」


「なんでそこでたけしなんですか」


「いいから行くぞ」


「ほんといいです」


 番小屋に設置された時計の針が午後11時50分を示した。


「すみません。ちょっといいですか」


 修が切り出す。


「なんだよ」


 長瀬が答える。


「おれ、実は今日、誕生日なんですよ」


「ああ、言ってたな」


「聞いてたんですか」


「それがなんだよ。おめでとう、って言えばいいのか。おめでとう。何歳?」


「いや、それがですね。実は今日は、オレが彼女と付き合い始めた記念日でもあるわけですよ」


「・・・」


「聞いてます?長瀬さん?」


「聞いてるよ。もう相づち打つのメンドくせえから一気に話せよ」


 いつもの感じに戻った長瀬が相づちの代わりに舌打ちをしてくる。


 修は、「気持ちわりーとか言わないでくださいよ」と前置きし、


「おれ彼女のことが大好きなんですよ」と言った。


 長瀬はジュラ紀の古代生物にでも出くわしたかのような表情で「気持ちわりー」と返してくる。「いや、今のはお前のフリがなくても『気持ちわりー』って言ってたわ、絶対。だからお前が悪い」


 修は構わず、話を続ける。


「ほら、よく言うじゃないですか。人が恋する期間ってのは最長3年までだ、って。3年たつとドーパミンが出なくなるからドキドキもしなくなるし、恋心も消える、とかなんとか。あれ、おれウソだと思うんですよ。だっておれたちもう5年付き合ってるのに、どんどん好きになるんですもん、彼女のこと」


「いや、悪かったよ。ほんとに気持ち悪いから勘弁してくれ。そんなに好きなら結婚してどうぞ幸せになってくれ」


 長瀬が心底気味悪いといった目つきで「おまえ、そんなキャラじゃないだろ」と付け足す。


「いや、正味な話、実はおれ今日、プロポーズする予定だったんです、もともと」


「・・・」


「正確には3年前に『おれが社会人になってから初めての記念日にプロポーズする』って宣言したんですよ、彼女に。なんかそんな感じの映画があって、それ一緒に観た直後だったんですけどね」


「・・・」


「どう思います?」


「知らねーよ」


 長瀬は、「世界で一番知らねー」と繰り返してから、


「そんなに彼女が大好きで、約束までしてるならプロポーズすりゃいいだけだろ」


 と言った。


「そうなんですけど・・・自信がないんですよ、おれ」


「ドーパミンを出し続ける自信が?」


「いや、それは一生出続ける自信があるんですけど、仕事のほうです。続けていけるのかなって」


 そこまでしゃべると修は口を閉じた。


「オレ、別に何も言えないぞ。結婚してねえし。とりあえず今日はプロポーズしないってことだな?ていうか彼女待ってんぢゃねーの?」


 長瀬の言葉を聞き、修は「うーん」と唸った。


「正直、今朝の時点では今日はもうプロポーズしないって決めてたんです。まだ早いなって。それからやっぱ、仕事に対する気持ちが中途半端だったから。でもなんか一日終わって、よく分からないんですけど、今、ちょっと迷ってます」


「迷ってるのはいいけど、もう日付変わっちゃうぞ」


「はい。だから今日は、日付変わる少し前に失礼していいですか、って話です」


「日付変わる少し前に失礼していいですか、って話だったんだ?」


「はい。彼女に電話したいんで、今日のうちに」


「今の話、全部する必要あったのか。いいよ。そこまで言われてダメとか言えないだろ。うん?てことは電話でこれからプロポーズすんの?」


「いや、それはまだ迷ってますけど。とりあえず電話します」


「分かった。いやもうホント時間ないぞ。行けよ」


 長瀬の言葉を聞き終わらないうちに、番小屋から駆けだした。荷物もそのままだ。


 何をどんな風に切りだそうか決めきれないまま、美緒の番号を呼び出した。


 桜の木の前で、修は緊張しながらコール音を聞いている。


◇ ◇ ◇ ◇


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 首相動静(5月16日)*確定配信*

【午前】10時23分、公邸発。56分、JR東京駅着。11時6分、のぞみ163号で同駅発。

【午後】1時1分、JR京都駅着。4分、同駅発。7分、京都市の府民総合交流プラザ「ミルサ」着。同所内の就労支援施設「ジョブ公園」を視察。利用者、職員らと意見交換。2時20分、同所発。40分、京都外国文化大着。同大のキャリアサポートセンターを視察。学生、職員らと意見交換。3時44分、報道各社の囲み取材。56分、同大発。4時17分、JR京都駅着。32分、のぞみ128号で同駅発。6時48分、JR東京駅着。59分、同駅発。7時24分、東京・永田町の料亭「ミフネ」着。母三津子さんと食事。10時6分、同店発。10分、公邸着。(時報通信)

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