夢じゃなかった
男の足取りは軽かった。
週末を控えた金曜の夕方であるが、それ以上の理由がある。
家に帰れば愛する妻が待っている。そろそろ結婚して半年になるだろうか。いわゆる蜜月期。
未だ妊娠の兆候は無いものの、週の中日と週末は、欠かすこと無く励んでいる。いずれ耕した畑に蒔かれた種が芽吹く日も遠くないだろう。
「ただいま、渚」
「お帰りなさい、昌幸さん」
最近の夫婦の例に漏れず、親と同居といいながらもキッチンや風呂は別の、二世帯住宅。建物自体は二十年程経つので、そろそろ水回りのリフォームが必要だろう。
いつも通りの夕食。そして週末の夜にすることと言えば……。
早い時間から励んだから、日付けが替わるまであと一時間ほど。昌幸は手洗いに行った後、冷蔵庫の炭酸水を一口飲み、既に寝息を立てている妻と同じベッドに入った。
常夜灯の薄明かりに照らされた妻の貌を見ながら、ほんの三十分前を思い出す。実にイイ声だった。私にしがみつき、全身を震わせて発する声を聞くと、得も言われぬ悦びがわき上がる。
明日の夜も、その声を聞こう。
そう思いながら、常夜灯代わりの間接照明の照度を落とし、目を閉じた。
目を覚ますと、白い闇の中に居た。
どこだ? 周りを見回すがどこまでも白い闇。誰一人いないし、自分もいるのかどうか判らない。いや、こう考えている自分がいる以上、自分だけはこの空間にいるのだろう。
小畑昌幸じゃな。
はい。
そなたには、ちと、別の世界で一働きしてもらう。
なに。大したことではない。それに必要な知識や能力も与えておこう。夫婦でしばらく楽しんでくるが良い。
夫婦で、って渚もか? 仕事はどうするんだ? 私も渚も気軽に休めないぞ。戻ってきたら、そもそも、戻れるのかも判らないけど、浦島太郎状態ってのは困る。別の人にお願いってわけにはいかないのか?
別の、というのは難しいな。相性、星の巡り、いろいろと制約があるでな。
心配せずとも、帰ってくるときは、今の姿で元の場所、元の時間に戻してやるし、幾ばくかのボーナスもつけよう。
現地で身につけた力なども、望むなら使えるようにしてやろう。
じゃが、死んでしまえばそれまでじゃ。そこだけは気をつけよ。
死ぬ危険があるって……。
私は武術の心得も無い一般人だ。そんな人間に何が出来る? 大体どんな世界に行くんだ?
行く世界は、剣と魔法の世界。そなたの知識で一番近いのは、家庭用ゲーム機のRPGの世界じゃな。その世界なら、そなた達も魔法を使えるぞ。
ゲームの世界だったら、クリア条件を教えてくれよ。
それを探すのも冒険のうちじゃ。
そろそろ時間じゃ。
目を覚ましたときから、そなたら夫婦の冒険の始まりじゃ。
徐々に頭が覚醒していく。
異世界転生、いや、転移か。どうしてこんな益体もない夢を……。あ、昨日あんな話をしていたからか。
昼食に定食屋に行ったら、久しぶりに高校時代の友人と会った。家業の運送屋を継ぐために四年前から戻ってきているそうだ。
最近の若い子の間で、ネット小説が流行っている。典型的なのが現世で不遇だった主人公が、来世ではゲームのような世界で名誉と女を掴み取りというものだ。
ただ、かなり多くの小説では、冒頭で現世での死が描かれるが、その死因がトラックによる交通事故。
「ああいうのを読むと、零細の運送屋で、運行管理者と安全運転管理者をしている俺は複雑だって。事故を起こした運転手も人生は終わりだし、会社も信用がなくなるし」
そのときは笑い話だったが、自分が異世界へ、って夢はどうだろうか? まぁ、誰にも迷惑をかけてないし、終わったら元に戻してくれるならいいか。
ま、いずれ変な夢だ。
そう思った『彼』だったが、その二秒後、先の夢が夢ではなく、本当に『異世界転移』いや『異世界転性』していたことを知る。
ベッドに半身を起こした女神のごとき容貌の少女は、周囲が自室でないことにも気づかず、自身の身体を確かめている。
そして、隣で眠っていた青年、いや少年も目を覚まし、身体を起こしたところで、一人ではないことに気づく。
「あら、昌、お早う」
「ちょっと、君、誰? 昌って、私の名前?
そもそも、ここ、どこ?」
「まぁ、落ち着いて」
昌は少年から説明を受けた。
少年は、渚が姿を変えた姿であること。
渚も同様の『夢』を見、この世界についての知識も得ていること。
それでも、よく解らないのが『昌』という名前。
『渚』によると、昌幸の未来の一つであり、その未来では二人は夫婦でなくなり『昌』は別の男性の元に嫁いだという。その未来を、目の前の『渚』は知っていると言う。
昌は訝しむような視線を向けたが、少なくとも目の前の少年がこの世界についてある程度のことを知り、妻の渚の人格を持つなら、無体なこともすまい、と考えることにした。少なくとも、裸の男女がベッドで会話しているが、現時点ではそれ以上のことに至っていない
「『前』は昌を愛せなかったけど、『今』なら愛せるわ」
「えっと、さっきから、私の知らない未来のことを、『過去形』で話しているけど……、と、とりあえず、服を着ませんか?」
「あらぁ、言葉遣いはもう今の身体に順応してるのね。知ってる私でさえまだなのに」
均整の取れた躯の少年は、女神のごとき少女ににじり寄る。ただし、オネエ言葉だ。
「ま、まだ、朝だよ。こういうのは、夜じゃないかな?」
「あなたも、私と初めてのときは日中だったでしょ?」
「いや、そのときはまだ婚約中だったし。デートも日中だったから、ラブホだっただけで」
「ここも、似たようなものでしょ」
そのときになって初めて、周囲が昨日までと違うことに気づく。
「あなただけ、私の『初めて』をもらうなんて不公平よ。今度は私があなたの『初めて』をいただく番よ。
大丈夫、安心して。優しくするから。これでも『元女』よ」
「いや、そういう問題じゃないでしょ?」
「それに、私も早く『周』や『円』に会いたいし」
「誰?」
「私たちのこどもよ」
「こども?」
「そう。こども」
「えっと、それ、気が早くないかな?」
「最低でも、水・金・土と週に三回していたあなたが言うなんて」
「いや、こういうのって、ムードとか雰囲気とか、そういうのも大切じゃ無いかな?」
「あら、乙女心も分かってきたんじゃない? 順応が早いわね。
でも、私の心があなたを求めるの」
「せ、せめてオネエ言葉だけでも止むぐぅっ」
少女の言葉は最後まで紡がれることなく、少年の口で止められた。
このあと何が起こったかは、読まれた方の想像におまかせします。
多分、それで正解です