35:ごめんなさい、先生
うなだれて泣く笛野を、三人で囲む嫌な時間が流れる。三人共に、苦虫を両方の奥歯で噛み締めているような表情である。
とはいえ彼から目を離し、また逃げられてはことである。
しかし囲んでいる相手が鼻血を流し、前歯も欠けた男であるため、いじめをしているような気まずさも伴っていた。
なお、これに関しては全幅の責任を負うリコが、最も渋い表情を浮かべている。
ただ、それ以上にクレンが気になるのは──
「この腕輪だけは、はめられたくないな。足の臭いが移りそうだ」
笛野の手首にはまった腕輪を見下ろし、クレンがいつもの仏頂面になる。
なんだと、とリコが目尻を吊り上げた。なお、ブラックジャックに使った靴下は、すでに彼女の足に再装着されている。ぶん回したためだろう、そちらだけちょっと伸びていた。
「臭くないわよ! 女子はいい匂いするもんなの!」
吠える彼女に、クレンは口をへの字にする。
「嘘を吐け。新陳代謝が活発な年頃が、フローラルなわけあるか。どうせ汗臭い」
「失礼な! そこまで言うなら、嗅いでみろよ!」
「嗅ぐか、愚か者! 俺の鼻が爆発したらどうするつもりだ!」
「するわけないだろ!」
しかしミアンを抱きしめた時は、いい匂いがしたな、とも遅れて気付く。
──いや、ミアンが特別なんだろう。変わり者だし。
割と失礼な結論に、一人で納得していると、
「あの、せ……先生」
古い呼び名で呼ばれた。
いささかの驚きを伴って、自分を見上げる笛野を見下ろす。
「もはやお前の先生でも何でもないが、なんだ」
きちんと減らず口も織り込んで応じると、一瞬息を詰めつつ、笛野は言った。
「その……ニーナちゃんとはその後、どうなった……んですか?」
ミアンの仮説がかなりのダメージを与え、結果として当然気付くべき疑問に、ようやく思い至ったらしい。
はあ、とクレンはため息を漏らす。
「どうなるもクソもあるか」
苛立たしげに、彼は吐き捨てるように言った。
「元とはいえ、弟子の惚れる女とどうこうなるほど、俺は落ちぶれてはいない」
その言葉に偽りはない。
大怪我を負った彼を、ニーナは何度も見舞ったが、全て拒絶した。彼女が飽きるまで、何度も何度も。
それは最悪の形で仲違いしたとはいえ、弟子に対する義理立てと、師匠としての矜持からの行動だった。
ついでに言えば、恋人がいるのに他の男になびく、ニーナの浮気性も信用ならなかったのだが。そこは言わぬが花である。
「うっ……」
笛野の顔が歪む。と同時に、目尻に涙が浮かぶ。
その涙の意味を捉えかねている内に、彼は再び畳に突っ伏して、号泣した。
リコとミアンが、困ったように顔を見合わせた。
困る年少者に構う様子も余裕もなく、笛野はむせび泣く。
「ごめ、なさい……殺そうとして、ごめんなさい!」
「……今更だな」
クレンは再度ため息を吐いた。髪もかき回す。
「お前が悔やんだところで、お前の刑期は縮まらない。むしろ脱獄したんだ、増えるに決まっている。それに、俺の右目も戻らない」
淡々とした声が、かえって笛野を追い詰める。彼は更に丸く縮こまって、全身を震わせた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「謝ったところで、遅い。それに何も変わらない」
そう言ってクレンは、彼の前にしゃがみこんだ。そしてがさつに頭を掴み、引っ張り上げる。
先ほどのミアン以上にブサイクな泣き顔を、真正面からにらんだ。
「本当に後悔しているなら、罪を償え。まずはそれからだ」
「はい……ごめんなさい、先生……」
ぽい、と頭を離すと、また笛野は床に突っ伏した。
それからさほど間も置かず、警察官が現れる。
彼らに取り囲まれながら、笛野はアパートを出て行った。
その背中を、クレンは不機嫌顔でじぃっと見据える。彼の隣に、ミアンが立った。
彼女はそんな不機嫌顔を、愛しそうに見上げる。
「やっぱり師匠は、優しいですよね」
つぶやき、彼女は微笑んだ。照れ隠しに、クレンは一層顔をしかめる。
「違う。恨む気力も失せただけだ」
「でも嫌いにはなってないですよね。やっぱり優しいんですよ」
そんな彼女の評価こそ、照れ臭いが嫌ではなかった。
「勝手に言ってろ」
だからクレンは、そうぼやいた。非難めいた目を向けて来るリコを、しきりに無視して。
だがそんな態度にも、ミアンの方はすっかり慣れっこである。
「はい、勝手に言っちゃいますね」
にこにこと、一層楽しそうに笑うのであった。