34:ブラックジャック
バイクに乗って、笛野の魔力の痕跡を辿る。
彼は転移魔法を連続使用して、逃亡したらしい。その痕跡は、点線のように途切れ途切れだった。
だが、まだ時間は空いていない。魔力の探知能力に優れたクレンにとっては、直線だろうが波線だろうが点線だろうが、さして違いはなかった。
目には見えない、魔術師だけが持つ感覚によって見えるその線を、バイクでただひたすらに追う。
一方、彼の背中にしがみつくミアンは、それどころではない様子だった。
ヘルメットの内側から、始終か細い悲鳴が聞こえている。車では味わえない、肌で感じるスピード感に恐れをなしているらしい。
しかし初体験バイクで、「きゃっほう!」と奇声を上げられる方が怖い。
大人しいのは何よりだ。
幸いにして、笛野の逃亡先はそう遠くもなかった。ミアンが失神するより早く、現場に到着する。
少し離れた場所にモンスターバイクを停め、徒歩で隠れ家のアパートへ向かった。
「ここの二階にいるな。どうやって、部屋を借りたんだろうな」
左眉を持ち上げて不機嫌顔を浮かべるクレンを、青ざめたミアンが見上げる。
「……無断で住んでるだけ、かもですよ」
「そうだな。よし、行くか」
「は、はい」
よろける彼女に腕を貸しながら、何気ない歩調でアパートへ向かう。
幸いにして、笛野が魔術で再度逃走する気配はない。
もちろんこの間に、奥間へ現在地を知らせることも忘れない。
ボロボロのアパートは入居者も少ないのか、静かなものだった。ひょっとすると、笛野以外には誰もいないのかもしれない。
アパートの前庭も雑草が生い茂っており、いつか訪れた廃屋と大差ない荒れ模様であった。
そして彼が潜む部屋の前に立つも、幸いにして少女の悲鳴は聞こえてこない。ただ、代わりに
「ちょっ……いてっ、やめ、やめろよっ! うぐっ……」
「やめろと言われて止めるか、ボケ!」
男の懇願と少女の怒声が、安普請のドア越しにはっきり聞こえる。
クレンとミアンは顔を見合わせた。お互い、表情がしょっぱい。
「小娘が何かやらかしているな」
「……これは、予想外でした」
まさか誘拐犯が被害者に転落しているとは。
とはいえ、リコを助け出すことは変わらず急務である。
ドアノブに手を掛けるも、やはりというか施錠されていた。クレンはミアンへ再び目を移す。
顔を強張らせて胸元に手を重ねたミアンはしかし、小さくながらうなずいた。
そして、クレンの代わりにドアの前へ立つ。
「まずは障壁魔術だ」
「はい」
ヒソヒソ声でのクレンの指示に、硬質な声音で諾と応じ、空中に魔術文字を書き記す。危うげなく、障壁魔術が展開された。
次いでベニヤ板のような、粗末なドアに手を当てた。そして体内を巡る魔力を、その手の平に集中させれば──すぐさま、爆発音を伴ってドアが木っ端みじんになった。
障壁魔術が二人を庇い、飛んで来た木片を跳ね返す。
しかし部屋の内側は、そういったわけにもいかず。
屑まみれになって、呆然とするリコと笛野がいた。
笛野は茶ばんだ畳の上で、カブトムシの幼虫のように丸まっている。その丸められた背中を素足で踏みつけながら、リコは靴下を振り上げていた。
靴下の中には、何かゴツゴツとしたものが入っている。
石やコインといったものを袋状の布につめこみ、ぶん回して敵を攻撃する即席武器──ブラックジャックと呼ばれる代物だ。
「何故そんな武器を、女子高生が知っているんだ」
とりあえず、一番聞きたい疑問はそこだった。笛野がミアンの学校を、探し出した経緯よりも。
「サバイバルの本で読んだのよ」
胸を反らして、ぶん、とブラックジャックを振るリコ。実に雄々しい。やはり山賊の娘ではなかろうか。
「このニセ警察官が、変な腕輪をはめさせてきたから外して、代わりに殴ってやったのよ」
「魔力封じの腕輪だな」
リコが本物の魔術師であれば、それでほぼ無力化できる。手堅い手段だったが、相手がただの人間であれば全くの無意味だ。
「魔力封じが効かないって、どういうことなんだよ!」
ブラックジャックでしこたま殴られたらしい。鼻血を流しながら、笛野ががばりと顔を上げた。
泣き腫らした、前歯も欠けたその顔を、クレンは冷え冷えと見据える。
「そいつはうちの弟子の悪友だ。一般人と魔術師の見分けも付かん、己の愚かさを恨め」
元師匠の冷淡な言葉に、涙でぐちゃぐちゃの顔が、怒りに歪む。
「うっ、うるさいっ! 俺から、ニーナちゃんを奪ったくせに! ニーナちゃんは俺の、運命の恋人だったんだよ!」
そう叫んだ笛野が素早く指先を動かす。すると彼の体表に、赤い炎が走った。火の魔術だ。
悲鳴を上げ、リコも跳び退る。
しかしその魔術がこちらへ襲いかかるよりも早く、クレンが素早く右手を掲げる。
その途端。
パン、と甲高い破裂音を残して、炎が四散した。
「え……」
それだけ呟き、笛野は固まる。
しかし身を起こした彼は懲りずに再び、今度は両手に業火を生み出した。だが、それも二つの破裂音と共に、たちまち消え失せた。
「お前の魔力に干渉した」
クレンが宣告する。その目に温度はなく、まさしく血も凍っているような冷たさだ。
「俺の目の前で、魔術を使えると思ったのか。愚か者が」
「うるさい、うるさい! いつまでも師匠面すんな!」
頭を振って、笛野は絶叫する。
「ニーナちゃんも奪って、今は美少女と同棲して! ずるいぞ、あんたばっかり! こっちなんて、男の園で暮らしてんだぞ!」
「それはお前が、刑務所送りになるような真似をしたからだろうが! 刑期も終えていない分際で、人並みの幸せを望む馬鹿がいるか! 身の程を思い知れ!」
クレンの酷薄な声に、怒気が混じる。思わずリコがすくみあがるような迫力だった。
だがそれに、割って入る人物がいた。ミアンだ。
あのう、と彼女はおずおずと手を挙げた。クレンと笛野、にらみ合う男の視線が一斉にそちらへ向く。
射貫くような二人の視線に怯みつつも、ミアンは続けた。
「あの……笛野さんは、勘違いしてる、と思うんです……」
「勘違いって、なんだよ!」
血の混じったつばを飛ばしながら、笛野がわめく。
「その、えっと……ニーナさんは笛野さんの、運命の人ではありません……です」
彼女の仮説は、威嚇しっぱなしの笛野を大きく揺さぶった。あんぐり、と彼は口を開く。
「なっ、なんでそんな、断言してっ……」
泡を食いそうなほど動揺する彼をひたと見つめ、ミアンは彼の脳髄に叩き込むようにゆっくりと、その根拠を述べた。
「だって……もしも、本当に運命の人なら、どんな困難があっても、恋は実ったと思うんです」
正論である。ぐうの音も出ないほどに。
「ぐうっ……」
しかし辛うじて、ぐうの音を絞り出した笛野は、再び畳へ突っ伏した。
健康的な刑務所生活によって、無駄な贅肉のないその腕へ。
リコから腕輪を受け取ったクレンが、がちゃん、とはめた。