31:ホテル暮らしと筋肉問題
一週間分の着替えや身の回り品を持って、クレンとミアンは密やかに家を出た。
行き先は、管理局が手配したビジネスホテル。
笛野が見つかり、そして身柄を拘束されるまで、ホテル暮らしをすることになったのだ。隣り合ったシングルルームにて、仲良く隠居生活を送る。
とはいえ、ミアンには学業がある。もちろんクレンにも仕事はあるのだが、事情が事情のため、開店休業状態である。
それはともかく。
学校の授業から置いてけぼりを食らわないためには、ホテルの無料Wi-Fiを利用して動画を観て過ごしたり、クレンから魔術を教わったりしているだけではいけない。
管理局と、そして彼ら以上にミアンの外出を渋るクレンを説き伏せて、彼女は送迎付きで学校へ通うことが許可された。
その日の早朝。
いつも通りの五時十五分に、彼女は目覚めた。
宿泊しているのが手狭なシングルルームであるため、全てが手の届く場所にある。
きれのいい動きでセミダブルベッドから跳ね起きたミアンは、早朝六時から始まる朝食バイキングに備えて、すぐ隣のバスルームで顔を洗う。
そしてタオルで顔を拭いながら、正面の壁面に設置された鏡を覗き込む。そこには伯父の家にいた頃とはまるで違う、ずいぶんと肉付きのよくなった自分がいた。
以前は顔色が悪く、目だけギョロリとしていたため宇宙人のようだったのに。ずいぶんと人らしくなったものだ。
服も、今まではSサイズですら大きすぎたのに、ぴったりとなっている。下着も1サイズ上がった。
また髪にも艶が出ていた。髪を切ってもらった日からずっと、手入れを欠かしていないのも大きいだろう。
──師匠は髪が長いのと短いの、どっちが好きなんだろう。
制服に着替え、もうすぐ肩に届きそうな髪を梳かしながら、そんなことを考える。
校則では化粧が許されておらず、またミアン自身も必要性を感じていない。そのため、普段から実践可能なお洒落と言えば、ヘアアレンジぐらいなものであった。
だからせめて髪型ぐらいは、クレンの好みに合わせたい、といじらしくも望みを抱く。
そして髪を梳かし終え、余った時間で予習をしている内に六時になった。
カードキーとミールカードを携えて外へ出ると、管理局の警備員が二人立っていた。彼らも魔術師であるため、警察官に守ってもらうよりもずっと安全だ、とはクレンの弁である。
彼に全幅の信頼を寄せているミアンは、同じように警備員も深く信頼していた。
「おはようございます」
二部屋の出入口を守る彼らへ、ぺこりぺこりと頭を下げて挨拶。二人もミアンへ笑って目礼を返してくれる。
「おはよう、守賀さん」
「相変わらず早いね」
「早起きが板に付いちゃってまして。師匠は?」
ひそひそ声でそんな会話を交わしながら、隣のドアへと視線を向ける。
警備員の一人は、苦笑して肩をすくめた。
「こちらも相変わらず、まだ寝てるね。あ、先に朝食に行くなら、付き合うよ」
腕を組んで、ミアンは唸る。
「うーん……起こしてあげないと、それはそれですねちゃうので」
「面倒くさい性格なんだな、凍血さんは」
もう一人の警備員が、控えめに笑いながら言った。その通りなので、ミアンもつい微笑む。
「そうなんです。面倒なんです。だから、起こしちゃいますね」
「いつもご苦労なことで」
「いえ。これも弟子の務めですから」
笑いながら、クレンの部屋をノックする。連続でコンコンコンコンと。
これを一分ほど繰り返してようやく、彼は目覚めるのだが。
なんと今日は開始十秒ほどで、室内から返事があった。
驚きで固まっていると、ドアが全開にされる。
Tシャツ姿のクレンが、ダンベル片手に出て来た。
「あれ……早いですね」
「俺を舐めるな。この程度、朝飯前だ」
しかしミアンは見つけてしまっていた。クレンの部屋のベッド回りを、まるで魔法陣でも描くかのように、目覚まし時計が取り囲んでいるのを。
優しい彼女は、それを見つけなかったことに決めて、にこりと彼を見上げる。
「師匠、すごいです」
「当然だ」
顔に似合わず単純な彼は、尊大に胸を反らした。その分かりやすい様子を横目に眺め、警備員二人はこっそり笑う。
一方のミアンは、彼の持ち物に疑問を抱く。それに視線を落として、問うた。
「あの、師匠。そのダンベルは?」
「筋トレ用だ。こう引きこもっていては、体が怠けてしまうからな」
四十キロと刻印されたダンベルを軽々と持ち上げ、クレンは二ッと微笑む。
ミアンは再び、そんな彼を見上げた。顔にうっすら恐怖を浮かべて。
武闘派魔術師である彼は、元々世間一般がイメージする「魔術師」像からかけ離れているのだ。大きいし筋肉質だし、妙に眼帯が似合っているし。
そんな彼が、筋トレでますますビルドアップしてしまっては……どこに行き着くのだろう。
考えを巡らせ、ミアンは背筋に冷たいものを感じた。
「師匠……」
「なんだ」
「筋トレは、どうかほどほどにお願いしますね」
己の非魔術師具合に自覚がないらしく、クレンは無表情になって首を捻る。
「何故だ。俺は己の限界に挑戦したい」
大きく首を左右に振り、ミアンは力説した。両手も強く握りしめる。
「挑戦しなくていいから! ほどほどでいいです!」
つい、声も荒げてしまった。
「しかし。向上心を持たぬ者は、愚か者だと言うではないか」
「ものには限度があるんです! 師匠って妙なところでストイックだから、嫌っ」
「嫌ぁっ!?」
クレンが目を剥いて、固まった。顔も複雑怪奇に歪んでいる。
初めてのミアンからの拒絶に、図らずも真っ白になるクレンであった。