30:昔話
クレンが笛野青年の教育係に就いたのは、彼が二十二歳のド新人の頃だった。
当時素行の悪かった笛野青年に、「別ベクトルだが、人当たりが激辛の瀬田をぶつけて、中和してみよう」という管理局の判断による大抜擢であった。もちろん、この案の言い出しっぺは奥間である。
奥間のこのたくらみが功を奏したのか、二人は意外にも気が合った。
そこから二年間は、小さな衝突こそあれど、お互い年も近いため、兄弟のような関係を築くに至っていた。
この関係の破綻と、続く悲劇のきっかけは実に些細なものだった。
有り体に言えば、女性関係であった。
当時の笛野青年には、付き合い始めて間もない恋人がいた。
彼はその女性のことを、「運命の相手」と呼んで溺愛していた。
しかしそれが、女性には荷が重すぎたのかもしれない。
彼女は心変わりしたのだ。
そして女性の気持ちの矛先にいたのが、なんとクレンであった。
略奪愛などに興味がなく、現在よりもまだ幾分か人当たりもよかったクレンは、当然女性を拒んだ。彼女を傷つけぬよう、やんわりと。
「自分にはもったいない。笛野とよりを戻してほしい」
という旨を、女性に伝えたのだ。
しかし、このやんわりが逆効果となり、彼女はクレンを振り向かせようと躍起になった。彼のすぐそばには、元恋人である笛野青年がいるというのに。
クレンが柄にもなく、笛野青年と女性の板挟みで疲弊したある夜、事件は起こった。
鋏を手にした笛野青年が、就寝中のクレンを襲ったのだ。
「瀬田さんの顔が好き」
と女性が口走っているのを、彼が耳にしたために起こった凶行だった。
そうしてクレンは片目を失い、笛野青年は前途ある未来を失って現在に至る。
この苦々しい思い出話を、クレンはうつむきがちのまま、淡々と語った。目の前には、ローテーブルを挟んでミアンがいる。彼の隣には、同じく神妙な表情の奥間も。
奥間に同行して来た警備員たちは、この部屋にいなかった。
玄関前に待機し、笛野来襲に備えているのだ。
それほどまでに、刑務所の中でもクレンを恨んでいたのだという。
話し終えたクレンは、じろりとミアンを見据えた。
怒っているわけではなく、危機感故の怖い顔であった。
「──そんな事情から、俺は今でも笛野に恨まれている。逆恨みも混じっているだろうが。そして奴は、お前の存在も知っている。俺の関係者として、一番無力なお前が狙われる可能性は高い」
「そうだったんですね……でも」
ここで言葉を切り、ミアンは眉をハの字にして溜息。
「きっかけはとても、些細なことだったんですね……なんだか、かえってやるせないです」
我が事のように落ち込む彼女を見ていると、クレンはかえって気持ちが楽になった。また、彼女を励まさなくては、と年長者の沽券が訴えかけてくる。
「そうだな。こうなるぐらいなら俺も、手酷く振ってやればよかったと、今でも後悔するよ」
冗談めかしてそう肩をすくめると、ミアンも控えめに微笑む。
「師匠は優しいから」
「……そうか?」
胡乱な顔で問うと、大きなうなずきが返って来る。彼女の中では、どうあっても気が優しくて力持ちな師匠である、らしい。
「クレン君を優しいって言えるなんて、ミアンちゃんは傑物よね」
ほほほ、と笑って奥間は続ける。隣のクレンに叩かれながら。
「痛い痛い──ミアンちゃんも事情を知ったことだし。どうかしら? もういっそのこと、二人一緒でうちの厄介にならない?」
クレンは左目を細めた。
「何故、俺まで厄介にならねばならないんだ」
「あら。笛野君がミアンちゃんを狙っている、というのはあくまで推測よ? やっぱりクレン君に、ダイレクトアタックをかますかもしれないじゃない」
「それならそれで、返り討ちにしてやる」
ふん、と息巻く彼を、手をかざした奥間がなだめる。
「それが困るんじゃない! 魔術師二人の喧嘩なんて、警察沙汰どころか軍隊が派遣されるかもしれないわよ」
「……それは困るな」
派兵にかかる費用を、どれだけ請求されるか分かったものじゃない。
顔をしかめるクレンを見つめ、ミアンもため息。
「師匠って、血が凍ってると評判の割に、血の気が多いですよね」
「そうなのよぉ」
手を上下にふりふりしながら、奥間がねちっこく同意。
「なんというか、年々トゲトゲしくなっちゃってるのよね。これでお年寄りになったら、どんな老害が爆誕するんだろうって、僕も心配で心配で」
そして身を乗り出し、ミアンの肩へ手を重ねた。
「だからミアンちゃん、クレン君の更生をよろしくね」
丸い顔をぷるるんと揺らし、奥間がミアンを見つめる。
「は、はぁ」
同意しづらい言葉に困ったミアンは、頼りない様子で視線をさ迷わせている。
クレンは切れ味鋭く、奥間の後頭部を手刀で打った。
「いったぁ!」
「守賀に妙なことを吹き込むな。教育に悪い」
「目の前で暴力振るう方が、教育に悪いと思うんですけどぉ!」
「お前にしか振るわないから、何も問題はない」
胸を張って断言すると、ミアンが笑いを噛み殺していた。
にやける口元を隠しながら、彼女は話題の軌道修正を図る。
「師匠、折角だから二人で保護してもらいましょうよ」
「しかし……」
再度拒否を告げようとしたクレンであったが。
彼が顔をしかめた途端、ミアンも表情を変えた。捨てられた子猫のような、拠り所のない顔になって彼をじっと見る。
その、真摯すぎる視線にクレンはたじろいだ。
無視しよう、と顔を斜めに伏せるも、とうとう抗いきることができず──
「……分かった。奥間、世話になる」
吐息をこぼすような弱々しい声と共に、頭を下げるのであった。
「あら素直。ちょっと怖いわね」
そしてそれに眉をひそめ、再度ぶん殴られる奥間だった。懲りない男である。