29:号泣
「脱獄した時期から考えて、ミアンちゃんが狙いなんだとは思う……看守の人にも、そのことを仄めかしてたらしいの……『大嫌いな師匠が、新しい弟子を猫かわいがりしてるらしい』って」
奥間はそれ以外にも、あれやこれやとクレンに言って来たが。
覚えているのは、笛野の狙いがミアンだという事実だけだった。
クレンは訝しむリコを無視し、そして更に訝しんでいるミアンを、強引に家へ連れ帰った。
もちろん、ベッドも抱き枕も買わず仕舞いである。
ただ自分の衣類を買っただけで終了した買い物に、家に着いてもミアンは困惑していた。また、クレンのただならぬ様子にも。
「師匠……大丈夫ですか? 具合、悪いんですか?」
むっつりとした顔で、リビングダイニングのローテーブルの前に座った彼を、ミアンはおろおろと立ち尽くしたまま見つめている。
「具合悪いなら、病院に──」
クレンの、刃物のような眼差しがミアンを見据えた。
「そうではない。お前も座れ」
「……はい」
息を一つ飲んで、ミアンが向かいに座る。表情は怯え、困っている。
無意識に眼帯を押さえながら、クレンは考える。
笛野の──かつての弟子が逃げ出したことを、彼女に伝えるべきか、と。
いや、それは得策ではない、と内心で首を振った。
脱獄囚が自分を狙っているなどと、知らないでいる方が幸せだ。
知らずに管理局によって、身辺を守られている方が、気安いはずである。
だからクレンは無言で、自分の脇に置いていた紙袋を彼女へ押し付けた。中身は、あの女性店員に選んでもらったミアンの服だ。
「餞別だ」
「……え?」
冷血を通り越して、血も凍ったような酷薄な声音に、ミアンの海色の瞳が静かに見開かれた。
「せ……餞別って、どういうこと、です?」
「お前は今日限りで、管理局預かりになる。これは手切れ金代わりと思え」
彼がそう宣告すると同時に、玄関ドアが開かれる。
警備員を伴った奥間が、リビングダイニングに入って来た。管理局所有の物件であるため、合鍵も所有しているのだ。
彼も、いつもの福福しい笑顔がなりを潜め、暗く真剣な表情をたたえている。
「さ、ミアンちゃん。迎えに来たわよ」
その顔のまま、事態を掴めずにいるミアンの腕を取った。それを振り払って、ミアンは身を縮める。
「どういうことです……? あたし、師匠の弟子です……そんな、管理局でお世話になんて……」
「お前の面倒を見るのに、俺が疲れたんだ。後はこいつらに、どうにかしてもらえ」
混乱する彼女に、心にもない言葉を投げつける。
すっぱり縁を切った方が安全であろう、と考えての行動だった。
「そんなっ……冗談、ですよね?」
「冗談でこんなことを言う人間だと、思っているのか? 心外だな」
鼻で笑うと、ミアンの小作りな顔が悲しみに歪んだ。大きな猫目には、涙の膜が張っている。
「あたし……師匠のことが、好きなんです……迷惑かけないから、だから、そばに、置いてください……お願い……」
最後の言葉は涙に紛れ、言葉としての体裁すらなしていなかった。うなだれた彼女の背を撫で、奥間が立たせる。
「大丈夫。新しい師匠は絶対見つけてあげるから」
「……あたしの師匠は、瀬田さんだけです……」
「どうしても事情があるのよ、ごめんなさい。でも、必ず僕たちが、ミアンちゃんをサポートしてあげるから。ね?」
ぽたり、ぽたり、とミアンの足元のラグに涙が吸い込まれていく。
彼女はうなだれたまま、かすかにだが、うなずいた。
それを見て取り、ホッとする奥間。励ますように、優しく撫でていた彼女の背中を押して、玄関へと歩かせる。
その様子を、クレンは横目で見ていた。ミアンとも、奥間とも視線は合わせない。
ただ一人、座ったままだ。
これでいい、と思っていた。
笛野が何を考えているのかは分からないが、ミアンがそれに巻き込まれるべきではないことだけは、十二分に分かっている。
だから彼女は何も知らず、今度こそ信頼できる師匠の下で、魔術師としての生き方を知っていくべきなのだ。
しかし、そう考えていたにもかかわらず。
彼の腕は無意識に動き出し。
すぐそばを通り過ぎようとする、ミアンの手をしっかりと繋ぎ止めていた。
「し、しょう……?」
涙でぐずぐずになったミアンの顔が、彼を見つめた。
そんな顔になっても、彼女は愛らしかった。
しかし、ミアンの泣き顔がすぐにぼやける。
「おっ……お前を、お前みたいないい子を、本気で嫌いになる訳ないだろう!」
クレンは叫びながら、自分も涙ぐんでいることに気付いた。声も上ずっている。
涙目の彼と視線がかち合ったミアンは、ますます泣いた。肩を揺らして、大きくしゃくり上げる。
「あっ、たしだって、師匠のこと、ほんとに、ほ、ほんとに、大好きなんだから! 師匠の、ばかぁ!」
止めようとする奥間を振り切って、ミアンはクレンへ突進した。彼の首に縋りついて、わんわんと声を上げて泣く。
「なんで、あんな酷いこと、言うの!」
「ああでも言わないと、お前がごねるからだろう!」
そう言いつつ、クレンもしかと彼女を抱きしめる。ワゴンセールの抱き枕など比べ物にならないであろう、温かく柔らかな感触だった。
「ごねるよ! ごねるに決まってるでしょ!」
そんな応酬を繰り返す二人を、唖然、と奥間と警備員は眺めていた。
なんという茶番、とその顔が物語っている。
奥間が頬に手を添えて、一つため息。
「すっかり情が移っちゃってるじゃない……」
そう呟いて呆れたように笑った彼だったが、すぐに二人の傍へしゃがみ込む。そして、クレンの顔をのぞきこんだ。
「クレン君。ミアンちゃんにもあのこと、教えてあげましょう。君から教えればきっと、ミアンちゃんも怯えたりしないと思うの」
いつもの福福しい笑顔に戻り、彼の肩を一つ叩く。
「……分かった」
手の甲で涙を拭ったクレンが、それに応じた。