26:ソファと睡眠の質問題
いつもはギリギリ年長者としての沽券を保てているクレンだったが、朝だけは弱かった。
早起きしなければならない、会社勤めを避けられた──ただその一点だけで、彼は魔術師になったことを感謝したぐらいだ。
一人暮らしの頃は、合計五台の目覚まし時計を周囲に配置して。
そして現在は、ミアンという万能文化魔術娘に頼りっぱなしである。
彼女は毎朝五時十五分に起き、まずドアポストの新聞を回収する。
次いで自身の身支度を整える。
そして実に手際よく朝食と、二人分の弁当も作る。特に弁当は、栄養面も彩りもしっかりと考えられており、完全にプロの犯行である。
これらの仕事を終えた後、ミアンはコーヒー用の湯を沸かす間に、クレンを起こしにかかるのだ。
今まで彼女はあの手この手で、クレンを起こすために苦心していた。
しかし現在は、その悩みも遥か彼方に過ぎ去っていた。
ミアンは、クレンを絶対に起こす必殺の技を会得したのだ。
今日も彼女は、彼が眠るソファの上へ半身を乗り出す。そして彼の耳元へ、顔を近づけた。
「師匠、起きてください。おーきーてー」
声を張り、リズミカルにクレンの体を揺する。しかし返って来たのは、寝息と大差ないうめき声だけであり、彼は依然としてソファに突っ伏している。
眠っている間も、眉間には深い深いしわが刻み込まれていた。これが平常時の顔、なのかもしれない。
その寝顔を見下ろし、ふう、とミアンは一つため息。しかしすぐさま表情を引き締めて、再度彼の耳元へ身をかがめる。
そして、彼女は必殺の技を放った。
「起きてくれないと、キスしちゃいますよ?」
寝ぼけている頭に、この殺し文句が効果てきめんなのだ。顔に血の気が戻り、一気に眠気も吹き飛ぶ。
がばり、とクレンは跳ね起きた。
その様子を眺め、ミアンはにこにこ。
「おはようございます、師匠」
「……お前の起こし方は、心臓に悪い」
おはようと返す前に、そうぼやく。険しい眉間と、半分ぐらいしか空いていない左目は、連続殺人鬼のそれである。
気のせいだろうか。彼女は合コン事件以来、吹っ切れたようにこうやって、クレンに迫るようになっていた。
師匠の愚痴にも、ソファの肘掛けにちょんと腰かけたミアンは、くすぐったそうに微笑むばかり。
「だって、こうでもしないと師匠が起きないから。あ、朝ごはん出来てますよ。食べられます?」
「……食べる」
小さく、うなだれるようにクレンはうなずいた。
彼女の強引さに困るものの、それ以上に頭を悩ませているのは、そんな強引さが嫌ではないことだった。下手をすれば、そのままなびいてしまいそうな気配すらある。
この子は未成年、この子は未成年、と己に言い聞かせながら、クレンはもぞもぞとソファから這い出た。
そしてミアンに手を取られるようにして、キッチンへ向かう。
いつも通りカウンターに、二人分の朝食が並んでいる。今日はエッグベネディクトだった。
どこのホテルの食事だろうか、とプレートの上の鮮やかな光景に、クレンは寝ぼけ眼で苦笑。
「これを家で作ろう、と思うお前の魂胆がすごいよ」
「いえいえ。テレビで観て、食べてみたいなぁと思ったので」
「食べたことないのか?」
「はい。まずかったらごめんなさい」
はにかむ彼女に、つい脱力。見様見真似で作れるものじゃないだろう、と。
ただ、ミアンらしいといえば、実にらしい。
脱力する彼が、椅子に座ったところで湯も沸き。
ミアンは慣れた手つきで、ドリップコーヒーを淹れる。
次いで、クレンの左隣に彼女が座って、朝食を食べ始めた。
いつもは一通り食べ終わるまで、お互い無言でいることが多いのだが。
ナイフとフォークを握った彼女は、クレンをじっと見上げた。
「ところで師匠。ベッドは買わないんですか?」
「そうだな……」
クレンは卵の絡んだマフィンを、一口放り込みながら、あいまいに濁す。
彼が今まで使っていたベッドは、ミアンに貸し与えている。あくまでレンタル中、なのだ。
何故ならミアンは、仮の弟子だ。
彼女が仮の弟子を辞め、正式な引き取り先が決まった暁には、すみやかにベッドを返してもらうつもりでいる。
だから、ベッドを早急に買うつもりはなかったのだが──なんだかんだと、彼女が居座って最早、二ヶ月近くが経っている。
ベッドをいつか返してもらうつもりでいたが、その日は本当に来るのだろうか。
また、彼女を誰かに託すことなど、自分に出来るのだろうか。
ミアンの何気ない問いかけから、クレンの思案はどんどんと、無限大に広がっていく。
そんな風にして黙り込み、そして固まってしまった彼を、ミアンは大きな猫目で見つめている。
痩せぎすだった頃は悪目立ちしていた青い瞳も、今はただひたすらに魅力的な瞳であった。
「あの、師匠。これは学校の先生から聞いたんですけど……」
「うん? なんだ」
ナイフとフォークを置いてもじもじと、彼女は言葉を続けた。
「睡眠の質が悪いと、老けちゃうそうですよ?」
老ける。
その三文字は、かすかに残っていた眠気を吹き飛ばすと同時に、クレンの中で否応ない恐怖心を目覚めさせた。
「……ベッド、買う」
凶悪なしかめっ面になって、ぼそり、とクレンは答えた。
内心では、彼女をそばに置き続ける理由が欲しいわけじゃない、と己に言い訳しつつ。