22:祇園精舎
これでも、ミアンも懸命に踏ん張っていた方らしい。
店を出るや否や、彼女の足から力が抜けた。そのまましゃがみこんでしまう。
その様を、クレンはじろりと見下ろす。
「立てそうにないか?」
「ご、めんなふぁい……ちょっと休めば、たぶん……」
おまけに、ろれつも回らなくなっている。
「酒が抜けるまでは、到底歩けそうにもないな。守賀、乗れ」
そう言って、クレンはむっつり顔のまま彼女に背を向けてしゃがみこんだ。
おぶされ、という彼の意図に気付いて、ミアンは酒精で真っ赤になった顔を大きく振った。
「いっ、いいでふっ……こんな、は、恥ずかひいでふ」
「道端に座り込んでいる方が、よほど恥だと思うが。違うか?」
「あ……」
こちらをうかがう通行人の視線に気づき、ミアンは数秒ほど力なくうなだれた。
そして顔を上げて、クレンの背中へ腕を伸ばす。
「うう……ありがとう、ございまふ……」
彼女が広い背中にくっつき、体重を預けたところで、クレンは立ち上がった。
「全くだ。これに懲りて、クソ野郎を見分ける目を養え」
「はひ」
彼の憎まれ口に、ミアンが少し笑ったような気がした。
ミアンをおぶったまま、クレンはリコへと向き直る。
「小娘。お前もタクシーでも使って帰れ。運賃ぐらいは出してやる」
「いいわよ、そんなの」
ふくれっ面でクレンを見上げた彼女は、駅のある方向へとあごをしゃくった。
「まだ余裕で終電もあるし、普通に電車で帰るから」
「しかし──」
「ミアンを助けてもらったのに、これ以上借りは作れないから」
減らず口を叩きつつも、彼女はその場で姿勢を正す。
そしてクレンへ向かって、深々と頭を下げた。
彼と、そして彼の肩越しに恐々成り行きを見守っていたミアンが、驚きで固まる。
固まった二人にもお構いなしに、リコは明瞭な声で続けた。
「私が浅はかだったせいで、すみませんでした」
こうも真正面から謝られると、さすがのクレンもたじろぐ。
「いや、そこまで気に病むな。正直なところ、悪いのはあの二人組だ。お前に謝られると──胸やけがする」
「んだとコラ」
不機嫌面が跳ね上げられた。
しかし彼女はクレンと目が合うと、少しぎこちなくだが、笑った。
「ミアンのこと、よろしくね。何かしたら殺すから」
「あのような色狂いのクソガキと、一緒にするな」
クレンも憎まれ口で返しつつ、彼女に小さく笑い返す。
そうしてリコは、駅へと向かって行った。
彼女のピンと伸ばされた背中を見送り、クレンも帰路へと着く。
開催場所が自宅近くで良かった、と思いつつ、駅周辺に建ち並ぶ飲食街とは反対の方向へと歩いた。
駅から、クレンたちのマンションまで徒歩十分弱である。こちらを見る無遠慮な視線の数々に、比較的短い移動距離でよかった、と彼は今更ながらに管理局へ感謝した。
住宅街を歩いていると、ミアンがぽつりと言った。
「おんぶひてもらって、ありがとうございまふ」
「礼はいい。それよりも、こんな心配は二度とさせるな。非生産的過ぎる」
「はひ……」
うなずく気配を感じていると、ぴたり、と一層背中に密着するぬくもりがあった。次いでミアンは、そこへスリスリと頬ずりもする。
「合コンなんて、もう絶対、行かない……師匠が一番、安心できるから」
ろれつが回らないため、師匠も「ひひょう」になっていた。いや、それより。
「なっ、何を言っているんだお前は!」
甘えた声と体温に、クレンの顔が瞬く間に赤くなった。声も裏返っている。
「俺が言いたいのは、合コン相手が信用できる相手か見抜けるようになれ、ということだけだ! 俺はお前の恋人ではない!」
宣言して、傷つく自分がいた。この胸の痛みは何なのか、と思わず内心で頭を抱える。
しかし酔いも手伝っているのか、それとも彼女の折れない性質故か、ミアンは引き下がらなかった。なおもスリスリしながら、
「でも、師匠は、お店で……あたひのこと、名前で呼んでくれた」
こう囁いた。
ぎくり、とクレンの全身が強張る。
「きっ、気のせいだ」
震えている声が、気のせいではないと物語っていた。
事実ミアンも、ふるふる首を振る。
「気のへいじゃ、ないでふ。酔ってるけど、意識ははっきりひてまふ。だから、ちゃんと、聞きまひた」
そう断言して、ミアンはクレンの両肩に置いていた手を回し入れて、彼の首に抱き着く。
そして、耳元でささやいた。
「ねえ、師匠」
「な、なんだ」
「もう一回だけ、名前で、呼んで……お願い」
艶やかささえ伴った、庇護欲くすぐる柔らかな声が囁かれた耳から、全身へと熱が行き渡る。
ぼっち歴の長いクレンにとって、これは彼の許容量を大きく逸脱した、誠に危うき事案である。
このままでは、家に着いた途端、彼女とどうにかなってしまいそうだ。
それだけは魔術師として、年長者として、そして彼女の師として、許せるはずがなかった。
ためにクレンは、心を無にしようと努める。
邪念を捨て去るため、彼はただひたすらに唱える。『平家物語』を。
残念ながら、お経は知らなかったのだ。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き者もつひにはほろびぬ──」
「ひ、師匠?」
これにミアンが、ギョッとなった。彼の背中から身を離しつつ、呼びかける。
しかしそれを無視して、なおも暗唱は続いていた。
「ひとへに風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の祿山、これらは皆舊主先皇の政にもしたがはず、楽しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、天下の乱れん事を悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり」
「師匠! 怖いでふ、怖いでふから止めて!」
なおも続く彼の、ぶつぶつとした抑揚のない声に、とうとうミアンは悲鳴を上げた。
『平家物語』引用元:ウィキブックス
(URL:https://ja.wikibooks.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%B2%BE%E8%88%8E)