18:その頃、師匠は
その日のクレンは仕事中も、たびたび上の空になっていた。
ミアンは無事に友人と仲直りできたのか、と折に触れて考えてしまうのだ。
謝ることはできたのか。
小娘から、避けられたりはしていないだろうか。
万が一仲違いしてしまったとしても、ミアンがクラスで、孤立しないといいのだが。
そんなことを、つらつらと思案していた。
そしてその度に、我に返って自己嫌悪をする。もちろん、今この瞬間も。
「いかん、俺としたことが。仕事中に些事に囚われるとは……それも、弟子に現を抜かすなど、あってはならないことだ」
などと、ぶつぶつ呟き自省。
今は仕事中である、と更に己の頬を、一つ打って戒める。
そんな彼を、恐々見つめる警察官二人組と、興味津々に見つめる手錠──と魔力封じの腕輪をかけられた男。
彼らがいるのは、とある雑居ビルの裏路地だった。
「どうしたの、お兄さん? 恋の悩み?」
ダブルの手枷をかけられ、警察官に挟まれた男が、クレンへ能天気に声をかけた。
血まみれになった状態で、サメが泳ぎ回る海へ飛び込むレベルの無謀さである。己の無知と無謀さに気付かず、男は続けた。
「恋の悩みなら、いいおまじないグッズ売ってるよ」
男は、まじないグッズどころか、呪具を密売する違法魔術師だった。クレンと警察官に摘発され、こうしてお縄についているのである。
自身が忌み嫌う人間の一人である、「法の逸脱者」の軽口を無視するクレンではなく。
当然いつもの如く、悪鬼の表情に変わる。
「何が恋の悩み、だ! 下法のクズ野郎め、己の立場をわきまえろ!」
大股で肉薄してからの、迷いのない蹴りが繰り出され、男の顎を強打した。
「ふげっ!」
大きくのけぞって、男は倒れる。警察官が止める間もない動きだった。
倒れたその頭をグリグリと踏みにじって、クレンは悪辣ににらみつける。
彼の鬼気迫る圧力が、警察官たちに制止の声を飲み込ませた。下手に男を助けようものなら、自分にも被害が及びかねない、と彼らの本能が訴えているのだ。
頭を踏みながら身をかがめ、クレンは男へささやく。
「屈託のないふりをするのは止めろ。貴様が呪具を密売し、呪殺に加担したことは分かっているんだ」
「いででっ……グリグリしないで! 頭蓋骨が削れる!」
「ふん。どうせ空っぽの頭だろう? 軽くなってむしろ、好都合ではないか」
「いやいや、中身入ってますから! ギューギューに詰まってますんで! というか、呪具とか言われてもなんのことか、僕にはさっぱりですが?」
手慣れた犯罪者らしく、男は屈託ない表情を懸命に作り上げ、全力でとぼける。
「僕が売ってたのは、恋のおまじないのチャームなんですけど。呪殺なんて、初耳ですよ」
「ほう、初耳か? だが、それにしては妙だな」
にたり、とクレンは笑んだ。荒事に慣れている警察官たちと、そして犯罪者の男がゾッとするほどの笑顔だ。
「押収された呪具から、お前の魔力の痕跡がべったり出てきているぞ。実に不可解だな」
「なんで、そんなことが分かって……」
ここで男が、ハッと目を見開く。視線の先にあるのは、クレンの眼帯だった。男はわなわなと震えた。
「ひょっとして、あんた……あの、隻眼の死神さん……?」
「甚だ不本意なあだ名だが、そう呼ばれることもあるな」
クレンの悪名は、悪魔だけでなく法を犯した魔術師の間でも有名らしい。
お愛想の笑顔を浮かべることも忘れ、男は力なくうめいた。全身も弛緩する。
「うわー、最悪……逃げ場ねえじゃん……」
「ようやく事態を把握したか、愚か者め」
ふん、とクレンが鼻を鳴らした時だった。
ジーンズの後ろポケットにいつも通り突っ込んでいる、携帯が振動した。
グリグリと頭をにじりながら、クレンは携帯を取り出す。
メッセージが一通来ていた。差出人はミアンだ。
《リコちゃんと、無事に仲直りできました》
「ほう。やるじゃないか」
はにかむミアンの姿を脳裏に思い浮かべながら、小さくつぶやいた。メッセージはまだ続いている。
《ちょっとご相談したいことも発生したんですが、おおむね上手くいきました。あと、お弁当も喜んでもらえました。ありがとうございます》
ミアンは律儀だ。弁当を作ってもらったクレンの方こそ、感謝すべきなのに。そもそも仲直りの方法を考えたのも、実践したのも彼女本人だ。クレンは何もしていない。
そんな律義さについ、クレンも微笑む。先程とは打って変わって、穏やかな笑顔だ。
ただ問題は、彼が違法魔術師の頭をギュリンギュリン踏みにじっている最中、ということだった。
「あだだだ! 耳もげるから、止めて! いや、マジでもげちゃう! 耳なし芳一になっちゃう!」
男の悲鳴が上がる。
「ひぇっ……人を踏みながら笑ってやがる……」
「恐ろしい……聞きしに勝る悪魔ぶり……」
「俺たちだって、こんなこと出来ないよ……」
「マジでおっかないよ……」
そして警察官たちも抱き合って小刻みに震え、彼の悪辣残虐なその姿に恐れおののいた。
まさか弟子からのメッセージに心がほっこりしているとは、到底思えぬ絵面であった。