16:距離感
ミアンが落ち着いたところで湯も沸き、改めて二人分のコーヒーが淹れられる。
今度は少し贅沢に、ドリップコーヒーだ。ミアンの代わりにクレンが淹れる。紙のフィルターの中にコーヒー粉を高く積み上げ、その頂上に細い線を描く湯が注がれる。
水分を吸って、コーヒー粉がふくらむ。と、同時にふわりと、香ばしい芳香が広がった。
しばらく後に、二人分のコーヒーが出来上がる。
そしてカウンターに座るミアンへ、マグカップを手渡した。鼻を一つすすって、彼女はカップを受け取った。
「ごめんなさい、代わってもらっちゃって」
うなだれる彼女へ、クレンは口をへの字にした。もちろん、本気で不機嫌なわけではない。照れ隠しである。
「構わん。それから、謝らなくていい」
「はい。ありがとうございます」
微笑む彼女につられかけるも、寸前でとどまった。
代わりにクレンも、彼女の隣に座ってコーヒーを飲む。
自分以外の人──ミアンが、淹れてくれたからだろうか。こちらの方が手間暇もかかっているというのに、先ほどのインスタントコーヒーの方が、美味しく感じるから不思議だ。
しかしミアンの意見は、真逆であるらしい。
「美味しいです。師匠は、コーヒー淹れるの上手なんですね」
大切そうに、両手でマグカップを抱きしめている。
「別に普通だ。ドリップコーヒーだから美味いだけだろう」
「そうですか? でも、お掃除も上手ですよね」
ミアンはぐるり、と室内を見渡す。
ふん、とクレンは鼻を鳴らした。
「一人暮らしが長いからな。これぐらい出来ねば、社会人として失格だ」
「師匠ってストイックですよね」
ミアンは、花がほころぶように笑った。そしてまた、美味しそうにコーヒーを飲んだ。
クレンも同じようにコーヒーを飲む。
しばらく無言が続いた。
しかし居心地の悪さは感じない。それは相手が、この少女だからだろう。
お互いのマグカップが空になった頃合いで、クレンは口を開いた。
「コーヒーを淹れたついでだ。一つ教えてやる」
「美味しいコーヒーの淹れ方ですか?」
「新しい魔術だ」
ミアンが目をぱちくりさせた。
いつまで彼女の弟子をするのかは分からないが、ひとまず彼女の面倒を見ている間は師匠らしくしよう、とクレンは考えるに至っていた。
驚きで硬直していたミアンだったが、やがて喜色満面になる。
「魔術……教えてくれるんですか?」
「仮とはいえ、お前の師匠なのだから、教えて当然だろう。覚えるのは面倒か?」
挑むようににらむと、笑って首を振るミアンがいた。
「いえ! 嬉しいです……あの、ありがとうございます」
「師匠として当然のことをするまでだ。わざわざ礼を言わなくていい」
再びふん、と鼻を鳴らした彼は、一度自室に戻った。
そしてクソ本こと教本とメモ帳、それからペンを持って戻る。
ミアンの前にメモ帳とペンを置き、自身は手にした教本を、ぱらぱらとめくった。
とあるページに辿り着いたところで手を止め、そのページをミアンに見せる。
魔術の基本原則、という表題があった。
「守賀。魔術の使い方は知っているか」
ミアンの視線が宙を向く。
「大まかに、なら。たしか……特別な文字を書いて、使うんですよね?」
「魔術文字だな。その文字に魔力を注ぐことで、魔術が扱えるようになる」
そう言いながらメモ帳へ、一節の魔術文字を書いた。
「これは物体を浮かせる、浮遊魔術の魔術文字だ。文字の一つ一つに、意味がある。その意味を理解し、かつ正しい魔力量を注ぐことで初めて、魔術は扱えるようになる」
こくこく、とミアンは真剣な顔でうなずいた。
次いでクレンは、文字一つ一つの意味を伝えていく。ミアンは熱心にメモを取りながら、その意味を聞いていた。
「慣れれば、脳内に魔術文字を再現するだけで、発動できるようになる。ひとまず、書いてみろ」
「はいっ」
クレンの書いた手本を見ながら、ミアンは一文字一文字真剣に複写する。
しかし魔力を込める行為がおろそかになっていたので、ペンが握られていない左手を、クレンは握った。
「わっ……」
たちまち、ミアンの頬や耳が色を灯す。つられるようにして、クレンも赤面した。
「い、いちいち恥ずかしがるな! 魔力の流れを操作するだけだ!」
「はぃ……」
「そもそも、お前が魔力を疎かにするから……いや、もういい。とりあえず、まずは書くことに専念しろ!」
「わ、分かりましたっ」
カチコチになった声で応じるも、ミアンは右手を使って文字の続きを書き記す。それに合わせて、クレンは文字に魔力が流れるよう、操作した。
やがて、彼女が魔術文字を書き終えると。
かすかに震えながら、メモ帳がふわりと浮き上がった。ぱっと、ミアンの顔が華やぐ。
「あっ、出来ました!」
「出来たな。初めてにしては上出来だろう」
事実その通りだった。
クレンも初めて魔術文字を書き記した際は、自身の師匠に手伝ってもらったにもかかわらず、うんともすんとも言わなかったのだ。彼女はやはり、覚えが早い。
素直に称賛すると、嬉しげに歯を見せて笑ったミアンだったが、すぐに困り顔に戻る。
「どうした?」
そう問うと
「あの……手が……」
「は?」
「手が、ずっとくっついた、ままで……」
もじもじと動いた彼女の左手を見下ろし、自分が握ったままだと気付く。慌てて両手を挙げて、のけぞった。
「す、すまん!」
「……師匠はたまに、距離感がおかしいです。困ります……」
赤くなった頬に手を当て、ミアンはうなだれる。クレンも黒髪をかき回しながら、似たり寄ったりの顔で視線をそらした。
「……悪かった……」
距離感がおかしいとはなんだ、と言い返したかったが。
彼も頭が真っ白になっていたため、ただただ謝罪するしか出来なかった。