15:眼帯と弁当
友人が飛び出して行ったリビングダイニングの出入り口を、ミアンはじっと見つめていた。微動だにしない。
その横顔は張りつめており、非常にいたたまれない。
「追わなくて、いいのか?」
クレンは彼女の痛々しい横顔へ、ためらいつつそう問いかける。ぎこちない動きで、ミアンはクレンへ振り返った。
「今追いかけたらきっと、もっと大喧嘩になると思うんです……だからお互いにちょっと、頭を冷やした方がいいのかなって……」
「そうか。賢明だな」
「ううん。怖がりなだけなんです。これ以上ぶつかっちゃったら……本当に嫌われる気がして、怖くて。あたし、リコちゃんしか友達がいないから」
首を振って、ミアンは言った。今にも泣きそうな顔である。
「あれだけお前に固執しているから、嫌うことはないと思うが」
「そう……ですか?」
「ああ。傍から見ていて、やや引いた」
素直に感想を述べると、やっとミアンの顔から強張りが消える。知らず、クレンも安堵した。
そして深呼吸をして、眼帯を撫でる。
「しかし、あの小娘が指摘したことも、あながち的外れではない」
「え?」
「眼帯だ。普通は違和感を持って、当然だろう。俺だって、未だに慣れていないんだから」
そう呟いて、眼帯を外した。その様子を目の当たりにしてぎくり、とミアンが身を縮めるのが分かった。
彼女の視線は、眼帯に覆われていた傷跡に釘付けだった。
「仮とは言え、お前は弟子だ。知る権利があるだろう」
そう静かに告げると、傷跡を見つめていたミアンの顔が、悲しく歪む。まるで、自分がその怪我を負ったかのようだ。
「ひどい怪我です……これは、どうして?」
声も、震えていた。
「弟子に逆恨みをされて、眼球を抉り出された」
弟子と言う言葉に、ミアンの肩が跳ねる。
温度のなくなった声で、クレンは続けた。
「二十四歳の時だ。当時引き受けていた弟子と仲違いした結果、寝込みを襲われ、こうなった」
「そんな……そのお弟子さんは、いま……?」
ミアンは青ざめている。
「逮捕され、刑務所にいる」
残された左目を、クレンは手元に向けた。その手が握りしめる、眼帯を見つめる。
「お前に話したのは、仮にも弟子でありながら、何も知らないのはあまりにも不公平だと感じたからだ。それ以上でも以下でもない。だから、あれこれ気にしなくていい」
そう言いながら、再度眼帯を装着しようとした腕に、ミアンがすがった。
背筋を伸ばして、彼女はじっとクレンを見つめる。
そんな強張った顔をするなら、いっそ顔を背けてくれればいいのに、と彼はぼんやり考える。
だが、ミアンは顔を背けなかった。真正面からクレンと、彼に残る傷跡をひたと見る。
「で……弟子を取るのを嫌がってたのは、そのことがあったから、ですか?」
核心を突かれる。
しかし改めて言語化すると、まるで子供のような嫌がり方だな、という気持ちも沸いて出て来る。
ためにクレンはすねた顔で、むっつりとうなずいた。
「……そうだ。あまりにも幼稚な発想に、呆れたか?」
挑発的な問いかけに、力いっぱい、首が振られる。
「そんなことないです。お弟子さんのせいで大怪我をして……嫌になって当然だと思いました……でも」
言葉を切った彼女の青い瞳は、大きく潤んでいる。
「あたし、絶対に師匠を裏切りません。絶対に絶対、ずっとそばにいます」
空のような海のような、澄んだ青い瞳に、吸い込まれそうになる。
曇天色の自分の瞳とは、大違いだ。
そして持ち主が純粋だからこそ、こんなにも瞳の色が美しく見えるのだろう──
そこまで考えてクレンは、内心で愕然としながら、己の思考に歯止めを掛ける。自分はなんて、不埒なことを考えてしまったのだろうか、と。
首を振って、ミアンに惹かれつつある気持ちを押し殺した。ついでに、むくむく大きくなっていく羞恥心も抑え込む。
腕に添えられた彼女の手を、やんわりと振りほどいた。このことに、ミアンが一時悲しげな顔を見せるも、見なかったふりをする。
「……俺のことはいい。それよりも、お前は小娘のことを考えろ」
「そう、ですね」
ぎこちなく笑い、ミアンは一歩下がった。
二人の間にできた距離に、クレンは寂しさと安らぎを感じた。仏頂面を取り繕う余裕も生まれる。
「小娘をどうするつもりなんだ? いっそ闇討ちするなら、手伝うが」
「しませんよ、そんな」
クレンの軽口に、ミアンはいつものように笑った。
「闇討ちの代わりに、餌で釣ろうと思います」
「餌……お前の友人はタヌキか野良犬か?」
「あながち間違ってはいないですね、警戒心も強いので」
ミアンはそう言って、自分とリコのマグカップを、キッチンの洗い場へ持って行く。
クレンも、自身のマグカップに残ったコーヒーをすすった。
それはすっかり、ぬるくなっている。正直言って、美味しくはなかった。
不機嫌顔でコーヒーをすする様子を観察して、ミアンは笑った。
「冷めちゃいましたよね。淹れ直しましょうか?」
もったいない気もするが、と逡巡の末にクレンは、マグカップをミアンに手渡した。
「ああ、頼む」
「はい」
再度ケトルで湯が沸かされる。
流しに手をつき、コンロの青い炎を見つめながら、ミアンは言った。
「リコちゃんは食いしん坊なので、お詫びの品にお弁当を作って謝ろうと思います」
クレンはカウンターの上に座り、彼女を見る。
「そうか」
「あ、心配しないでくださいね。師匠の分も作りますから」
ちょっぴり茶目っ気を混ぜた瞳が、クレンを見上げた。初弁当以来、なんだかんだと理由を付けて、彼女は二人分の弁当を作っていた。
途端、彼の眉が寄せられる。
「そんな心配などしていない! そもそもお前の弁当がなくても、俺は困らん!」
「あ……ひょっとしてお弁当、ご迷惑でした……?」
「あ、いや、それは……」
強く言い過ぎた。若干しょんぼりしたミアンに、クレンは目を泳がせる。照れを自重しようと思った途端、これである。
「め、迷惑ではない! なくても困らんが……その、あっても、特に困らん」
胸元に手を当て、ミアンはホッと息をこぼす。
「良かった」
緩んだ笑顔が大変無邪気で、たまらず胸が鷲掴みにされる。
それを深呼吸でごまかして、クレンはそっぽを向いた。
「……お前の飯は、美味い。だから困るものでもない」
視界の隅で、ミアンがゆっくりを目を丸くするのが見て取れた。
しかし、すぐに彼女はうつむいてしまう。
どうしたというのか、とクレンは横目でその様子を窺っていた。
「ありがとう、ございます……」
ややあって、涙交じりの感謝の言葉が、ゆるゆると紡がれた。
手の甲で涙をぬぐい、えぐえぐと泣く彼女の姿に、クレンは慌てた。
わたわたと、真っ赤な顔で箱ティッシュを突き付ける。
「い……いちいち泣くな、馬鹿者!」
「ごめんなさい、でも……嬉しくて」
ティッシュを一枚取って目尻に押し当てて、ミアンはにかんだ。