12:魔術の練習
不思議なもので、体が温まると気分も少し上向きになった。
小娘に可愛いと言われたぐらいでなんだ。あの年頃なら「可愛い」もただの褒め言葉と受け取ればいいさ──などと考えられるようになっていた。
しかしそれも湯舟を出て、風呂場の壁面にかけられた鏡を見るまでだった。
曇り防止加工が施された鏡には、クレン自身の顔が映っている。入浴中なので、普段は眼帯で隠れている、右目だった箇所もはっきりと。
ケロイド状に広がる傷跡が、そこを覆い隠している。眼球もえぐり取られたため、まぶたのあった部分には膨らみがなくへこんでいる。
右目を失って四年になるが、未だにこの奇怪で醜悪な傷跡を見るのが怖かった。
自身の醜さに嫌悪すると同時に、傷を負った当時のふがいなさや、やるせなさを追体験するのが辛かった。
まじまじ眺めていると、入浴前以上に気分が落ち込んでしまうので、鏡から目をそらす。
そして手早く髪を洗い、顔や体を洗った。
浴室を出て、脱衣所で寝巻に着替える。もちろん、眼帯を装着するのも忘れない。
仮の弟子であるミアンに、この傷跡をさらすつもりなどなかった。
そのミアンの部屋の前に行き、風呂から出たことを伝えよう──とするも、ノックをしても応答がなかった。
しかしリビングダイニングに人影はなく、トイレの電気も消えている。
寝てしまったのだろうか、と考えつつも、再度ノックをしてうっすら扉を開けた。
寝るのは構わないが、それならば洗濯を行う許可を得たかった。下着の処遇問題は……心を無にすることでどうにかしよう。
中をのぞきこむと、幸いにして電気は灯ったままであった。そしてミアンも、起きている。
起きているが、壁際の机──引っ越しに際し、クレンが購入したものだ──にかぶりついて、ぶつぶつと何かを唱えていた。
その華奢過ぎる背中へ、声をかける。
「おい、守賀」
「きゃっ!」
夢中になっていて、クレンの存在に全く気付いていなかったらしい。椅子の上から、彼女が飛び跳ねた。
それと同時に、彼女が左手に握りしめている何かが、ポンと破裂した。
それは球状に固められた、ティッシュだった。
ティッシュの残骸が、彼女の足元に散らばる。
ミアンはあわあわと、クレンとティッシュだったものを交互に見て、椅子から立ち上がる。
クレンもじっと、彼女を見た。
「相変わらず凄い魔術だな」
「ご、ごめんなさい!」
「怒っているわけではない。こちらこそ、驚かせてすまなかった」
そう言いながらクレンも部屋に入り、ティッシュの破片集めを手伝う。
「何を読んでいたんだ?」
窺うと、ほんのり赤面した顔があった。
「えっと、教本読んでました……魔術の」
「ああ、あれか」
彼女の顔を眺め、そして机の上ものぞきこんで納得する。
それは弟子入りが決まった際に、管理局から支給される本だった。しかしお役所的と言うべきか、いちいち書き方が回りくどいうえに難解な言葉を多用しているため、正直言ってクレンはクソ本だと思っていた。
「あんな本から得られるものがあるのか?」
「師匠、すごい言い草ですね……」
一瞬呆れ顔を浮かべたミアンであったが、すぐに弱々しく笑う。
「でも、その通りかもです。きちんと魔術を扱えるようになりたくて、読んでみたんですけど……ちょっと内容が難しくて」
「内容が難しいのではない。文章が難しいだけだ」
そう断言すると、彼女の笑みが元気を取り戻す。
「そうかもです。きちんと実戦でも役に立ちたくて、読んだんですけど……効果はなかったみたいで。また、暴発しちゃいましたし……」
最後は手のひらに集めた破片を見下ろし、肩を落とす。
「向上心を持つことは、好ましい」
「あ、ありがとうございます」
素直に称賛すると、照れたのか頬が赤くなった。
先ほどやり込められたことを思い出し、少しだけ優越感を覚えたところで、師匠としての務めも果たす。
「お前の魔術は、下手をすれば人を傷つけてしまう代物だ。それ故に、無意識に自制してしまっているんだろう」
「そう、なんですね。さっきは暴発したのに……」
ミアンの顔が、うらめしげなものに変わる。思い通りにいかない魔術に、クレンが入浴している間も悩まされていたらしい。
「それは驚いて、一時的に精神が揺らいだためだろう。手を貸せ」
言いながら、クレンは自身の右手を前へ出した。手のひらを上にして、そこへ手を重ねるよう視線で促す。
しかしミアンは、赤い顔でとまどった。目がさ迷う。
「えっと、あの、ま、まだお風呂に入ってないので、抱き着くのは、ちょっと……制服も汚れていますし……」
とんだ勘違いである。自分はハグ魔と思われているのだろうか。
冷静に誤解を解こうとする自分がいる一方、ミアンと同じく真っ赤になってしまう自分がいた。そして、後者の己が行動権を取る。
「手を握るだけだ! 人のことを、変態みたいに言うんじゃない!」
「あ、そうだったんですね……ごめんなさい」
そして、照れた自分が怒鳴ってしまう。
だが手を握るだけ、という言葉に安堵したミアンが、おずおずと小さな手を重ねてくれた。
そのことに彼自身も安堵しつつ、ミアンの魔力を感知。
「お前の魔力の流れを、一部操作する。その際の感覚を覚えて、自分で再現してみろ」
「は、はい」
触れた手のひらから、魔力の流れに干渉する。全身をくまなく循環する健やかな魔力の一部が、彼女の手のひらに集まる。
「なんだか手が、温かいです」
「魔力を一部集めた。この集まった力に、物体を爆破するイメージを重ね合わせれば、魔術が使える。やってみろ」
そう伝えて、魔力への干渉を中断する。自身の魔力の操作は、魔術の基礎の基礎だ。
「は、はい」
空いている彼女の左手に、再度丸めたティッシュを持たせる。
真剣な表情のまま瞳を閉じ、ミアンは己の魔力の流れを読み取ろうとする。
「ひとまず爆破のイメージは捨て置け。魔力を感知することに集中しろ」
「はい……体の中に、渦みたいなものがある気がします」
「それが魔力だ。その渦に力を加えて、手のひらに集めろ。そして、爆発するティッシュを思い浮かべるんだ」
「……こう、ですか?」
言うが早いか。
左手のティッシュが破裂音と共に、ポップコーンのように跳ねた。
跳ねて手のひらから落ちたティッシュ玉を、二人で追いかける。
クレンが拾い上げて見てみると、内側から避けたように割れていた。
ミアンもそれを眺める。
「成功……ですか?」
恐る恐る、と彼女の目がクレンの審判を待つ。
そうだな、と彼は呟いた。
「小さな爆発だが、自力で魔術を使ったにしては上出来だ。よくやった」
「ありがとうございます!」
クレンの空いている左手を取って、ミアンはぶんぶんと上下に振った。次いで、その勢いのまま抱き着いて来る。
入浴前だから抱擁は駄目だったのではなかろうか、とクレンは思ったのだが。
しかし、入浴前にもかかわらずいい匂いのする、柔らかな感触に驚いて、文句を言うどころではなかった。
ただ赤い顔で、おろおろと手をさ迷わせる。