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約束の花火  作者: 御堂 美咲
8/10

寝顔

 翌日。今日は暇な日認定している木曜日だ。小沼さんが入院してからちょうど2週間になる。今日は朝から安藤先生を捕まえた。

「先生、小沼さんにモルヒネを導入しませんか」

「お、どうしてそう思ったんだい」

安藤先生は優しく問いかけてきた。

「昨日話してみて、もう息も絶え絶えで、とても苦しそうでした。正直見てられません」

心の内を、本音をぶちまけた。安藤先生は頷いた。

「僕もそう思う。中野くんがそう言うなら、確かだね。使おう、モルヒネ。」

安藤先生はそう言って、モルヒネの開始量の相談に乗ってくれた。量を決めるにあたって体重をチェックするのだが、入院時より3キロほど軽くなっていた。数字で見ても、やはり痩せているんだなと思った。

 モルヒネは皮下注射で使う。皮下に点滴する要領で、少しずつポンプで注入していくのだ。皮下ならどこでもいいのだが、たいていおなかや胸元に管を留置する。朝回診を終えて、看護師と共に小沼さんの部屋を訪れる。ベッドの上には横たわったまま咳をする彼女がいた。

「小沼さん、モルヒネ使うことにするよ」

「それで、楽になるのかな」

「そう思うよ」

用意された針を持って、小沼さんの服をめくる。細い、というよりは痩せ細ったという表現がしっくりくるような腹部をアルコールで消毒する。

「じゃあちょっとちくっとするよ」

そう声をかけながらおなかに針を刺した。たったそれだけのことだが、モルヒネを使うという事実はもう本当に先が長くないことを意味していて、死へのカウントダウンを自分の手で進めてしまったような気がした。

「じゃあまた変わったことがあったら教えて」

「わかった、ありがとう先生」

少しの会話を終えて病室を後にした。


 暇な日と言ってもこまごまとしたやることはあるときもある。病棟からのコール対応をはじめ、入退院のサマリ作成など事務仕事のようなものを片付けるにはもってこいの日だった。とはいえ午前中にしっかりやれば午後からは時間があるもので、結局研修医ルームでだらだら過ごしてしまう。しかし状況が状況だけにモルヒネの使い方や副作用などの勉強はするつもりだ。コーヒーを飲みながら本を読んでいると森田がやってきた。

「おつかれ、中野は珍しく勉強してるの」

「たまにはね。例の患者さん、モルヒネ始まったもんで」

「そっかー。いよいよって感じだな」

「縁起でもないこと言うなよ」

森田は鳩が豆鉄砲食らったような顔をした。それはそうだと思う。僕としてもなんでそんなこと言ってしまったのかわからない。医者は患者の余命というものを冷静に考え今後の予定を立てていかねばならぬものだ。森田が諭すように言った。

「中野さ、落ち着きなよ。今までも何人も看取ってきただろ?一番合戦も言ってたけど、深入りしすぎてないか」

僕は冷静さを欠いているのだろうか。確かに、これまで何度かは緩和医療に携わり、患者を看取ってきた。患者の死というものを冷静に受け入れてきた。しかし、今回は心のどこかでまだ受け入れられていないのかもしれない。頭ではわかっていても、小沼さんの死というものを拒んでいるのかもしれない。第三者である森田から見れば、僕は十分深入りしてしまっているのだろう。一番合戦の言う通り、別れるのが寂しいと思うほどに、情が移ってしまっているのかもしれない。自分では気づかないうちに、もはやただの担当患者という扱いではなくなっていたのかもしれない。森田の核心をついた指摘に言い返すことができず黙っていると、森田が続けた。

「患者に親身になって接するのはいいことだとは思うけど、適切な距離感ってものがあるだろ。それを間違えると無用なトラブルに発展するぞ。揉め事って意味だけじゃない。小沼さんが亡くなって、中野は普通の精神状態を保てるのか?」

僕は何も言えなかった。小沼さんが死んだ後のことなんて考えたことがなかった。いや、考えないようにしていたのかもしれない。いつかやってくるその時に取り乱してはいけない、それはわかっている。医者は死に対しては冷酷であれ、ということなのだろうか。恐らく小沼さんの死を宣言する、つまり死亡確認するのは僕の仕事になるだろう。その小沼さんに対する担当医としての最後の仕事をきちんと行うためにも、決して取り乱さず、必要以上に悲しまず、冷静に、心を平穏に保っておかねばならない。死に対しての心の準備が必要なのは家族とばかり思っていたが、距離が近くなりすぎた僕にとっても必要なことであった。

「森田の言う通りかもしれない。ちょっと頭を冷やさないとな」

「教師と生徒の禁断の恋よりももっと禁断だ、気を付けな」

「そんなんじゃないよ」

そんなんじゃない。


夕方の回診の時に安藤先生はモルヒネの効き具合を小沼さんに尋ねた。

「息苦しさはどうですか」

「あまり、変わったような感じはしません」

「そうですか。しばらくすると効き目が出てくると思います。また量を調整していきますね。痛みはどうですか」

「はい、痛みはだいぶましです」

「それはなによりです。なにか辛いことがあれば遠慮なくおっしゃってくださいね」

「はい、ありがとうございます」

小沼さんは僕と話す時よりも緊張しているようで、なんだか少し可笑しかった。その思考を察したのか、小沼さんは僕を一瞥した。それを尻目に僕たちは部屋を出た。

 「モルヒネ、少しずつ増やしてみようか」

安藤先生は言った。確かにまだ副作用らしい副作用も出ていないようなので、増量の余地はあるだろう。そのままを僕は言葉にした。

「副作用もあまり出ていないようなので、それがいいかもしれません」

「お、じゃあ中野くん、モルヒネの三大副作用、勉強してきた?」

「はい。便秘、嘔気、眠気ですよね」

「いいね、勉強してきたことはわかった。じゃあ、それをどう診るかだけど」

「どう診るか、ですか」

質問の意図がわかりかねる。本人に聞いてしまえばいいことなのでは、と思ったがそういうことではないらしい。

「うん。その中で、問題になるものとならないものがあるよね」

「嘔気は問題になると思います」

「それが一番だろうね。息苦しさがましになっても、吐き気が強くちゃかわいそうだ。だから、吐き気についてはしっかり観察すること。逆に眠気についてはどうかな?」

「あまり問題にはならないと思います」

「そうだね。小沼さんの場合、いつ眠気に襲われても大して問題にはならないだろう。むしろよく眠れるということは、苦痛緩和ととることさえできると僕は思う」

「なるほど」

「残りの便秘に関しては様子見ながらでいいと思うね。食事ももうほとんど取れてないみたいだし、これで困ることは少なそうだ」

なるほど、一口に副作用といっても、対応の仕方は変わってくるというわけか。

「だから吐き気が出るものと見込んで最初から吐き気止め出しておくのもありだと思うよ」

「わかりました、処方しておきます」

安藤先生はうんうんと満足げに頷いた。

 小沼さんはこれから、痛みに耐え、息苦しさに耐え、それから加えて吐き気にも耐えなければならないのか。先の短い彼女の人生を、少しでも快適に過ごさせてやりたい。願わくは副作用など出ないでほしいものだ。


 夕暮れ。夏至も過ぎ、ちょうど日の入りが一番遅いころだろうか。僕はいつものように小沼さんの病室を訪れた。入るなり小沼さんは言った。

「あ、先生、さっき面白がってたでしょ」

バレてた。相変わらず察しが良い。

「いや、普段こんなに砕けた感じで話してるのに、安藤先生の前じゃ借りてきた猫みたいだったからつい」

「ふーん。だって安藤先生は、中野先生より風格があるんだもん、緊張もするよ」

お返しだと言わんばかりの言い様である。研修医と6年目の医者の差は大きい。小学1年生と6年生くらいの差があるように僕は感じている。

「バッサリ言うなあ。」

いたずらな笑顔でぺろっと舌を出した小沼さんは、昨日より元気そうだ。

「昨日より調子よさそうだね」

「そうかな。そう見える?」

「少なくとも、途切れ途切れで話してた昨日よりは話しやすそうに見えるけど」

「言われてみれば、そうかもしれない。お薬効いたのかな」

モルヒネの効果か、たまたま今日が調子のいい日なのかはわからないが、会話はスムーズだ。もしかしたら今の量でもいいのかもしれないな。

「ありがとね、先生」

「僕はなにもしてないよ」

「もう、俺に任せとけばこんなもんよ!とか言えないの?」

「そんなこと言う度胸があるように見える?」

「見えないね」

 他愛のない会話で笑い合える子の時間が、僕にとっても、小沼さんにとっても、癒しの時間であり、毎日の楽しみとなっている。いつまで続けられるのかわからないが、小沼さんが話せるうちは、毎日来よう。そう思った。


 翌日の金曜日も、その次の日の土曜日も、僕は小沼さんの部屋を訪ねた。今まで通りに、いつも通りに。その間少しずつではあるがやはり咳や呼吸状態が悪くなり、徐々にモルヒネは増量された。僕は日曜日も昼頃に小沼さんに会いに行った。日曜日にわざわざ出てくるなんてことは今までにしたことがなかったが、この日は足を運んだ。

 いつも通りに小沼さんの部屋を訪ねた。しかし、小沼さんは眠っていた。なんだ、わざわざ来たのに、気持ちよさそうに寝てやがる。僕は家族用の椅子に腰かけ、寝ている小沼さんを見つめた。痩せてはいるが、相変わらずの美人だった。寝顔を初めて見た僕は見とれてしまう。酸素マスクに、点滴、のチューブ、そしてモルヒネのチューブ。管だらけになってしまったな、と心を落とした。ふとベッドの縁に目をやると、尿をためておく袋がぶら下がっていた。それは尿道カテーテル、いわゆるバルーンと呼ばれるものが挿入されていることを意味しており、つまり自力でトイレにも行けなくなった、ということに他ならなかった。あとでカルテで確認して分かったことだが、土曜日の当直帯で挿入されたらしい。本当に管だらけになってしまった。もうベッドから起き上がることすらままならないのだろう。今はぐっすり眠っており、苦痛もないだろうから、このまま起こさずに部屋を出よう。ただ、もう少しだけ、もう少しだけ寝顔を見ていてもバチは当たらないはずだ。酸素マスクはつけたままだが、幸せそうに眠る彼女の顔を。

 何分経ったろうか。僕は急に我に返って、自分のやっていることが恥ずかしくなった。まるで変態みたいだな、と苦笑いしながら立ち上がると、小沼さんが目を覚ました。

「ん…あれ、先生、来てたの」

「ほかの仕事のついでにちょっと寄っただけだよ」

僕は嘘をついた。彼女のためだけに来たと言うのは、なんとなく言い出しづらかった。

「ほんとだ、今日は日曜日じゃん。お休みの日まで、ご苦労様だね」

「まあね。具合はどう?」

「まあまあかな。あんまり変わりなし」

「そう。無理はしないでね」

さて、察しの良い小沼さんに寝顔を見ていたことがバレないうちに帰ろうかと思ったとき、病室に小沼さんの両親が入ってきた。

「先生、日曜日なのに来てくださってるんですね。ありがとうございます。」

「いえ、とんでもないです」

互いに軽く会釈をしながら挨拶をした。

「あ、そうだお母さん、先生も『スライム』大好きなんだよ」

いつ大好きだなんて言った。小沼さんの中では「スライム奮闘記」が僕の大好きなものに位置付けられているようだ。別に嫌いではないし否定するほどでもないのでそういうことにしておいた。

「まあ、そうなんですか。唯も大好きなんですよ」

「先生は、リーゼルが好きなんだよ」

「リーゼル、ですか。すみません、私はそこまで詳しくなくて…」

そりゃそうだ。なんで親も知っている体で僕の好きなキャラクターを紹介してるんだ。

「ほら、ドラゴンの!先生、絵描いて。紙とペンくらい持ってるでしょ」

「え。絵心ないぞ」

「いいから」

いや紙とペンは持ってるけれども。断れる雰囲気でもなかったし、なによりお母さんが申し訳なさそうにこちらを見ていたので、描くことにした。長い髪に、額からは2本の角。大きなしっぽを生やした女の子。ざっと描き終えてみると、我ながら特徴はつかんでいるはずだ。ただ、全体のバランスは悪い。

「できたよ、これでいい?」

「うわマジで下手くそじゃん。お母さん、これがリーゼルだよ」

下手くそで悪かったな、と思いつつも小沼さんは上機嫌なのでまあいいかと思うことにした。

「ああ、この子ね、見たことある」

お母さんは本当にわかっているのかいないのかわからないが、その場の流れを汲んでそう言ってくれたのだろう。小沼さんにそう言った後、僕に言った。

「先生、お世話かけて申し訳ありません。娘のこと、よろしくお願いいたします。」

「はい、任せて下さい」

僕があえてそう言うと、小沼さんはそれを聞きたかったと言わんばかりに笑いながら手を叩いた。家族水入らずで過ごしてもらうため、両親と上機嫌な小沼さんに見送られながら僕は部屋を後にした。


続く

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