The Last Resort 0
ドゥルウェハは二度深呼吸をしてから、息を静かに止めた。彼の周囲の音は、さながら水底を目指して潜水するように、徐々に薄れていくように感じた。だがそれと同時に、どんな小さな音でさえも見逃さないであろうという自信があった。腰を屈め、低姿勢を保ちながら、巣穴に天敵がいないかどうか確かめるように注意深く周囲を窺った。彼の背後は背の低い草や木々が密集した林で、目の前には巨人が歩いたかのように所々土が陥没した湿地が開けていた。ドゥルウェハはその草に紛れて、じっと目を凝らしていた。村の祭りで、同じ年の子供と潜水競争をした時に、彼は最長で一時間も息を止めていられたことがある。ゲルイヤは彼を以って”化け物”とからかった。だがゲルイヤはおよそ彼が認識できるものはなんでもからかった。
ドゥルウェハの後ろにはヤナとルートの二人がいた。ヤナは立てるようになる前に腹筋ができるようになったのかと思われるほど、見事な腹筋を持っていた。だが、体躯の細さがその異様な輝きを放つ腹筋にそぐわず、結局恥ずかしがって籐の葉を編んだ腹巻のようなものを身につけていた。腹を隠すと、外見にはなんの特徴も見出せなかった。
「これじゃまるで腹以外のどこも成長しなかったみたいじゃないか」と一度ヤナはこぼしたことがあった。「飯だってちゃんと食ってるし、腕立て伏せだって毎日やってる。狩りの腕だって村の男に負けてない。頭だって……それほど悪くない——罠だって作り方はほとんど覚えている」ドゥルウェハは眉を上げた。ヤナは罠をつくる機会があるたびにその役目をドゥルウェハに押し付けていたからだ。
「お前が負けてないのは食うことぐらいさ」と皮肉屋のゲルイヤは馬鹿にした。もっとも誰かの机に残り物がないか目を光らせているのは彼も同じだった。「もしかしたら物を考えてんのはその腹なのかもな」ヤナは言い返すより先に手を出した。
ヤナはゲルイヤと関わると毎度のように頭に血を昇らせて、結局仲介者然としてドゥルウェハが割って入ることになる。楽しい職業ではない。彼はなんとか宥めようとするのだが、ヤナとゲルイヤの言葉の弓矢はやがて標的を共通の一人に定めることになる。
「このくそ坊主。俺よりも背が低いのに威張ってんじゃねえ」ドゥルウェハはゲルイヤが背の高さ以外を理由に彼を侮辱するところを経験したことがなかった。
「お前のファージュはくそみてえにブサイクだよ」とヤナが唾を銃弾のように飛ばしてまくし立てる。彼は喧嘩をするとき以外はドゥルウェハを怒らせない程度にファージュの気を引こうとしていた。
「それ以上言ってみろ」とドゥルウェハはすでに権威を宿し始めている変声後の声で言う。村の男にとって一番屈辱的なものは、自分の妻か許嫁を批判されることだった。「二人とも今夜は寝床に困らなくなるぞ。なぜなら海に投げ捨てられてるからな」
ルートは必要なこと以外は口にしなかった。そしてそれは怯えているというのでも、大人びているというのでもなかった。ドゥルウェハは茂みの奥で指示を待っているルートをちらりと見た。彼はただ喋らないのだ。その感じをうまく説明するのは難しい——「大丈夫お前の言いたいことはすべてわかっている」と言うかのような安心感と、「頼むから静かにしてくれ」と言うかのように拒絶がそこにはあった。それはまったくの赤の他人の腕に優しく抱かれているような奇妙な感覚なのだ。だがドゥルウェハはルートが背後にいてくれるとすごく安心した。幼馴染という状況的な理由だけに止まらない何かが彼とルートの間にはあった。
ぎらぎらと照りつける太陽が水を乾かし、涸れ川は大蛇のようにうねりを描いていた。草いきれと、動物の死体と乾燥した糞と小便の匂い。村の勇敢な男が生まれ、育っていく匂い。生と死の匂い。ドゥルウェハはそれを肌に感じていた。滴る汗のようにそれが顔を撫でるのがわかった。どれだけ愛するものがいようとも、どれだけ頼れる友がいようとも、これが最終的には彼の人生のすべてだ。ヤナは何度も経験していたことなのに吐きそうな顔をしていた。ルートは相変わらず無表情を貫いていた。ルートは死んだときも同じ顔をしているに違いないとドゥルウェハは密かに思った。三匹のとんぼがでたらめな軌跡を描いて飛んでいた。
枝が反発してたてるかさかさという音以外にはまるで静かだ。その静けさは狩人を緊張させる。失敗と成功という二つの可能性が五分五分で睨み合っているからだ。
湿地を横切って、彼らの反対側には、茶色く濁った流れのない川があり、そこで数匹のワニが世間話でもするみたいに身を寄せ合って陽を浴びていた。昨日もそこにいたのを他の仲間が確認していた。彼らはもっと近くで見たからそのワニ の大きさがおよそ二メートルほどであると報告していた。まだ子供だ。ドゥルウェハは彼が生まれる前には八メートルものワニを村中の男が一日かけて殺したことがあったと聞いていた。村の子供ならば簡単に丸呑みしてしまうような大きさであったらしい。その日の夜は子供たちの腹が満たされたわけだが。それほど危険を承知でワニを討伐しようとするのには理由がある。
一つにはその肉だ。ドゥルウェハも二、三回食べたことがあるが、臭みもほとんどなく、鳥の胸肉のように噛み応えがあって淡白だ。村中の人は祭りの日のように踊りを行い、気分が最大まで高揚したところで、最後に仕留めた男が初めに肉を食らう。前回仕留めたときは、かなり巨大な体だったので、女たちまでも肉にありつけた。中には涙を流すものまでいた。そしてその皮だ。村の近くの森を通って、岩ばかりがごつごつした山を越えると、大海と村長が呼んでいる海がある。二、三年に一回か、多いときは三、四回その海を渡った大陸から商人がくる。もっとも村長曰く、その名称はグレート・シーを渡った先に——ドゥルウェハには想像することなどまったくできないが——広がっているという大陸からきた人々の言葉なのだそうだ。ドゥルウェハとヤナはグレート・シーと何度も発音したが、その度に最初に聞いたものから遠ざかっていった。まるで階段を降りるように徐々に元の音から遠ざかっていくのに、三人も当惑を覚えた。ドゥルウェハは小さい頃に森の中を歩くうちに迷ってしまって、偶然にもグレート・シー(彼は未だに発音が覚えられない)に出たことから、家に帰れないのではないかという恐怖と一緒になってその光景が刻みつけられている。
岩の間からわずかに覗く草を除いて、生命感のまるでない岩場が崖っぷちまで続いていた。ドゥルウェハは下を見下ろせる位置まで来て、彼の目の前に広がって、いまも繰り広げられている雄大な光景に見入った。彼が自分が迷子であるということがとてつもなく小さなことに過ぎないのだと痛烈に思い知らされた。その青は彼が今までに見たどのような青とも異なっていた。快晴の空の突き抜けるような透明な青でもなく、森の中にある木の皮を絞って出てくる茶色がかった青色とも違う。それが彼の眼前にただただ広がっている。水に溶けた太陽の金色の光が産毛のように風に揺れて砕け、空を滑空する白い生き物の影が、気持ちよさそうに海を泳ぐ。ざあざあと波の立てる音が世界の辺境から聞こえてくるように心落ち着く調べで、剥き出しの岩に打ち付ける潮が白い泡を残して引いていく。飛び散った飛沫が風に乗せられて、彼の頰を撫でるように感じられた。どのように帰ったのかは覚えていない。それほど強烈な光景だった。
そんな信じがたい海を渡ってくる人々が、大量の荷物を積載した船に乗って、ワニの皮を欲しさにここまでくるという。ドゥルウェハは実際に取引の現場に携わったことはないし、彼自身も自分が得意としているのは、商売ではなくて狩りであると理解していたので、詳しく知ることはなかったが、大陸の人々は村の基準から考えると法外な額で買っていくのだと聞いた。もちろんプラぺ族では貨幣経済など発展していないから、物々交換によって取引される——陶器の皿や壺などが村長の家に誇らしげに飾ってある。ワニの皮は確かに丈夫ではあるし、村の人々の間でも服やらに利用されたりはするが、果たしてどれほどの潜在的価値があるのかどうかは彼には分からない。村長とフォリナーとの取引を仲介してくれるこの村の出身で、その大陸に実際に渡って働いているというグエンは、カーナルジャ大陸(これもドゥルウェハはうまく発音できなかったが、グエンは上手いと言って褒めてくれた)ではここでの取引の五倍の値段がついてもおかしくはないと言った。村の男はグエンのことを隠すことなく軽蔑していたが、ドゥルウェハやヤナにとってはグエンは自分の想像もつかないようなところで日々を過ごしている不思議な人だ。頭はつるつるに禿げていて(「ファッションだ」とグエンは自慢して言った)、目は周りの肉に潰されかかっているかのように小さく、鼻は醜いほど大きかった。紫色の唇は厚ぼったく、まるで死んだ幼虫でもくっついているかのようだった。彼が話をするとき、集まったものが彼の唇を愕然と見つめるのは、その話が知的好奇心をくすぐることだけが理由ではないのをグエンも明敏に感じとっていた。
そのグエンがドゥルウェハたちに向かってワニの皮について話したことがある。
「ワニの皮ってのは贅沢品なんだ。お前らにゃ分からないかもしれないが、俺が働いている場所っていうのはどんな生活ができるのかはその人間の稼ぎと身分によって決まるわけだ」とグエンはフォリナーの一団が近隣の村を訪ねて回る間に、拠点としてドゥルウェハの村に泊まった時に話してくれた。「ここで言うなら、村長は身分が高くて、お前らは身分が低い。村長は何不自由ない暮らしができて、美味しいもんを食べれて、良い女を抱ける」
「知らない女を抱くのか?」と珍しくルートが口を出した。
「ああそうだ。許嫁以外との性行為が禁じられているようなお前らには考えもつかないだろうがな」
「そんなことの何が楽しいんだ?」とヤナが言った。ルートはまるで口を開いたことなど一度もなかったかのように、いつもの表情に戻っていた。「お前はその女を知らない。その女もお前を知らない。そこに生まれるセックスに愛はあるのか?」
「ないさ」とグエンはあっけらかんに言った。「セックスに愛は必要ないんだ。腰をふって気持ちよくなる。それでおしまいさ。もっとも、俺はそんなたいそうなお遊びに興じられるほど稼ぎがいいわけではないから、実際のところはどうか知らんがね」
「きっと頭がおかしいんだろうな」とヤナは得心が言ったように呟いた。彼の頭で捉え切るにはあまりに多すぎる情報量だったようで、ゲルイヤは故障したようにむっつりと黙っていた。
「話を戻すがね」とグエンは続けた。「そういう上の人たちと違って、お前らはその日の生活で手一杯だ。どれだけ懸命に働いても、その働きぶりを評価してくれるやつはいない。お前らはやる前から決められたお金を受け取って、スリに遭わないようにビクビクしながら、家へ帰る。明日には借金やら酒代やらで何もなくなっている」
「”お金”ってなんだ?」とゲルイヤは言った。彼は自分の知らないことを他人が口にするのを嫌った。
「それは非常に哲学的な質問だな」とグエンは答えたが、今度は哲学的とは何かについて問われるのではないかと思ったのか、質問する暇を与えずに言った。「お金っていうのは、簡単に言えば、信用だ。例えば、お前があるものを持っていたとする。ああ? いや、なんでもいいんだ。木の枝、股と頭の緩い女でもワニの皮でも、お前らがいま頭に思い浮かべるられるものをだれかと交換すると仮定するんだ」
ドゥルウェハは彼の許嫁であるファージュのことがよぎったが、すぐにそれは不純な考えだと頭から追い出した。彼とファージュはまだキスとペッティングをしたことがある程度で、肝心の部分には入っていなかった。ヤナとゲルイヤはもう済ませていた。ルートでさえ経験があるとぼそっと呟いたことがある。一度そういう空気になったことがあったが、遠くでヤナとゲルイヤが怒鳴り合う声で打ち切られてしまった。ドゥルウェハはいつかまた機会があればその時を逃してはいけないとわかっていた。ファージュも、まだ心の準備はできていないかもしれないが、その気があるということはそれとなく匂わせていた。まるで一杯目のワインの酔いのようにさりげなく。
「だが俺らはここらで現実に戻らなくちゃならない」グエンの声で、ドゥルウェハははっとなって話に戻った。木の枝なんて誰が欲しがる? もしかしたら——いや、確実に——股と頭の緩い女を欲しがるやつはいるだろうが、そういう奴が常に近くにいるとは限らないだろう。となると困ったことになる。俺たちは売りたいものを持っているのに、買ってくれる人がいない。逆に買いたいものがあるのに、相手が自分の持っているものと交換してくれない。つまりそれが物々交換の社会の限界というわけさ。その原理が成立するためには、需要と供給がぴったりと一致していなくちゃならない。お金があればそうはならない。お金っていうのは……なんというか、価値をもった量なんだ。そいつをいくつ積むかによって木の枝にも、女にも、ワニの皮にもなったりするわけさ」
「よくわからないな」とヤナが言った。彼はあまり理解が早い方ではなかったが、ドゥルウェハもグエンの言葉を追うのに精一杯で、まるで石を無理やり飲み込んだかのように腹のなかに得体の知れない気持ち悪い感覚が残っているだけだった。寡黙なルートも首を傾げていた。ゲルイヤに至っては、飽きて股を掻いていた。
「そりゃ当たり前さ。実際にそいつを使うようにならなければ、この感覚はしっくりこないだろうよ」とグエンは村長の家の近くの簡易のキャンプから出てくる一団をじっと見つめて言った。「もうこの話はここでおしまいだ。俺は明日も仕事があるんだよ。坊やたちはねんねしな」
それ以上グエンは語ろうとしなかった。グエンがこの話はおしまいだというときは誰がなんと言おうがその話は打ち切りにされた。彼はキャンプから出てきた一団に合流し、自分の職務に戻っていった。ヤナとゲルイヤはフォリナーを興味深そうに観察していた。その大袈裟な身振りと手振り、言葉は分からないが雰囲気から推して、頻繁にジョークを交えているようだ。そのうちの一人に自然と視線が吸い寄せられる——背は小さいのにおよそ考えられる限度を超えて腹が出ていて、他の男たちと違って一人だけたっぷりとひげをたくわえている。彼はグエンを仲立ちに率先してヤウェと取引を行ってたし、彼の指示で他の男たちはきびきびと動いた。その男はいやにでかい声を出して笑ったが、その実くそも面白くないといった風だった。ドゥルウェハは彼が金でいくらになるか少し想像したが、その考えは頭の中で空転するだけだった。
それにドゥルウェハやヤナの目を引いたのは、そんな些細な違いではない。村の男とフォリナーの間には決定的な違いがあった。彼らはどういうわけか白い肌をしていた——ドゥルウェハは彼らの姿を見るまで、自分が黒い肌をしているなどと考えたこともなかった。フォリナーと自分たちはグレート・シーを挟んだよりもさらに大きく離れている、とドゥルウェハは思った。
その夜ドゥルウェハはお金の話題はグエンにとってはそれなりに深刻なものであるのかもしれないと、思いがファージュのことに取って代わられるまで考えていた。グエンは向こうの世界についての知識を出し惜しみしようとはしなかったが、自分の生活について積極的に語ろうとはしなかった。彼は寝返りをうって、家の入り口の方を見やった。風の音に耳を澄ませた。風は常に誰かのメッセージを載せているように絶え間なく吹いていた。俺が彼女を考えているように、ファージュもいま俺のことを考えているだろうか。だとしたら嬉しいような、申し訳ないような気持ちになる。俺が好きな彼女の健康的な笑顔とチャーミングなえくぼは夜にグッスリ眠っている証拠だろうし、その魅力を失って欲しくない。でもやっぱり寝ているほうがありえそうだ。
ドゥルウェハにとってはファージュとセックスをする——あるいは、したことがないこと——というのは日々の狩りと同じぐらいに重要な問題だった。ただそれは彼が肉体的な関係についてのみ興味を寄せているからではなかった。ドゥルウェハは妻になるファージュに対して女性として敬意をもっているし、たとえ他人から決められたことであっても、互いが好きだという心の紐帯は解けることはない。だが、彼女が村長ヤウェの娘であるということは無視できない質量をもって、彼らが一線を越えようとするたびに地平線に仄見えてきた。それはつまり彼が次期村長になるのに有望であるというお墨付きをもらっているようなものだからだ。ヤウェと彼の両親はそのことについては何も言わない。知らせないほうが彼のためであると思ってのことなのかもしれないが、その手の噂話に目ざといゲルイヤは彼に何度も思い出させた。「お前が村長になったら、カーダルチャ大陸の奴らみたいに好きな女とヤれる伝統を作ってくれよ」という具合に。
だから、ドゥルウェハとファージュは機会を踏みとどまってしまっていた。理性が働いたというよりもむしろ、直感が危険を察知したかのようにお互いの体から身を離した。ファージュはその度ごとにごめんと言ったが、彼も自分が情けなくて仕方なかった。そして気持ちの高ぶりは一瞬にして鎮静する。村長になるというのが怖いというわけではない。非常に名誉なことだと思うし、ヤナやルートも喜んで受け入れてくれるだろう。彼は屈強な男だし、狩りの腕も大人の男に並んでいる。その段になって文句を言い始める者はいないだろう。結局のところドゥルウェハは彼がファージュを、自分が思い込もうとしているほどには愛していないのではないかということが恐ろしいのだ。
ドゥルウェハはその夜、寝られなかった。”腰を振って気持ち良くなる。それでおしまいさ”とグエンの声が語りかける。彼は大陸の人間を野蛮だと思った。だが自分がいま思い悩んでいることはそんな野蛮人たちと何ら変わりないのではないか。深刻に考えすぎかもしれない。たかがセックスのことで——ドゥルウェハはその夜初めてにやりとした。とはいえヤナやゲルイヤに相談すれば笑われるだろうし、強い男のすることじゃない。
陽を浴びる数匹のワニのうちの一匹がのっそりと動いた。ドゥルウェハは経験から湿地の端にいても気配が感ずかれることがあると知っていた——彼とルートはゆっくりと茂みをでた。さながら話し込んでいる最中に急に本来の目的を思い出したように、そのワニは湿地に向かって、時々何か気になるものでも発見したように立ち止まっては首を回した。あるいは臭いを嗅いでいるのかもしれない。ヤナは事前に仕掛けておいた鶏の肉のほうにたっぷりと時間をとって、茂みをかきわけて進んだ。体長は二メートル程度だろうと予測していたが、実際に見ると五メートルも、六メートルもあるように感じられる。汚れて輝きを失った牙が閉じた口からちらりとのぞく。いまもにも中から何か得体の知れないものが飛び出してきそうだ、とヤナは汗をだらだら垂らしながら思った。彼は定位置につくと、縄の強度を確認した。問題ない。うまくいっている。これはなんでもないことなんだ。相手がどんな形をしているかしか違いはない。
ワニはもう一歩踏み込めば肉に噛み付ける位置にある。ヤナは舌打ちした。なにをぐずぐずしてやがる。はやく食っちまえ。だがそれは一向に動かない。まるで骨董品を精査する鑑定士のように。いや、まさか罠だということがばれているのか……
村の男たちから水辺で休んでいるワニのことを聞いたときから、三人——といっても、計画を立てて、実行に移そうと言い出したのはドゥルウェハとヤナの二人だった——は準備を着々と進めていた。木の幹を切り倒して、先を尖らせた新しい木の槍を三十本作り、徹底的に練習を重ねた。彼らは実際にワニを殺したことはなかった。蛇や巨大なトカゲ、猿やナマズなどあらゆる種類の動物を殺してきたが、ワニは初めてだった。ドゥルウェハが生まれたプラぺ族では年齢で成人が決まるわけではない。村の大人と同じことができるようになって初めて村を担うにふさわしい人物となれるのだ。そしてワニを殺すことはその一環だった。村長のヤウェは一人で三頭ものワニを一日に殺したことがあった。左頬のえぐれた跡はそのときにつけられたもので、彼はそれを誇っていた。彼が何かの決断をするときは無意識にその傷に手を伸ばしていた。まるでそれが正しい監督者であるかのように。ファージュをドゥルウェハに嫁がせたときもそうだった。
自分一人で来るべきだったかもしれないとドゥルウェハが考えたのは、ワニの側面を大きく迂回するように腰をかがめて移動しているときだった。視界の端に三十メートルほど先の茂みでワニに睨みをきかせているヤナが見えた。ここから見ると、ワニとヤナが一騎打ちをしているような構図だ。ヤナは相当に怯えているようだ。もちろんドゥルウェハも怖くないわけではない。膝はぶるぶる震えているし、両手に握った槍が止まらない汗で滑りそうになる。いままでに味わったことのない興奮が心臓を鳴らす。死はいま彼のこめかみにあって、それは手で触ることもできた。だが、友人を巻き込むくらいだったら、自分一人で挑んだ方が良かったのではないか——いや、とドゥルウェハはその考えを振り切った。ヤナは自らの意思で参加することにしたのだ。その決断を否定することは誰にもできない。それに彼がいなかったら、自分たちは経験もないまま、運に身を委ねなければならなくなる。
彼は首だけ後ろを振り返った。ルートは規則正しく呼吸をし、焦った様子もなかった。ただ少し当惑したような、自分はどうしてこんなところにいるのだろうという表情を浮かべていた。彼も内心では恐怖を感じているだろう。でもそれは表には出てこない。それがありがたかった。
「そうだ。それでいい」ドゥルウェハは低い声で自分に言い聞かせた。「やることは単純だ。あいつの息の根をとめる。これまで百回以上も繰り返したんだ。狩りは慣れている」
ドゥルウェハが自分を勇気づける言葉を終えるや否や、ワニはじっと閉じられていた口をかっと開いて、仕掛けた肉にかぶりついた。牙が肉に食い込む音が彼の場所からでも聞こえた。ドゥルウェハとルートは互いを見合った。瞳の奥には同じ記号が読み取れた。そしてあくまでもゆっくりと前進を開始した。
ヤナは縄がぐいっと引っ張られるのを感じた。彼は縄を握る手を強め、負けじと引き返した。縄は余分な長さが少しだけあるので、すぐにもっていかれることはないだろうが、じりじりと自分がおされているのがわかった。踵が土にめりこんで、ずるずると前に進んでいく。ヤナは後方に重心を傾け、顔を真っ赤にして引っ張ったが、縄はびくともしなかった。ワニは肉を独り占めしようと安全な地帯まで持っていこうとする。噛む力は細い木なら真っ二つに割ることができるそうだ。ということは一度噛んだら絶対に離さないということ——数秒おきに押し寄せる波のように強い引きがきて、一瞬も気が抜けない。だが、腕の筋肉はぴきぴきと悲鳴をあげているし、縄のささくれが手を擦るたびに激痛が走る。腹の筋肉を使ってなんとか耐えていたが、もうこれ以上は無理だ。意地をはってこのまま続けたら引きずり込まれて自分まで食われる。ヤナはドゥルウェハとルートの姿を探した。二人はもうすぐ近くまで肉に必死のワニの近くに寄っていて、両側を挟むように立っていた。
「後は任せた!」とヤナは筧が落ちるように一気に縄を離した。尻から地面に突っ込むと、肩を揺らして息をした。縄は増水してできた水路のようにしゅるしゅるとものすごい早さで巻き上げられていく。だが、なまじその早さだけに、自分の引っ張る力と同じだけの力が逆向きに加わればどうなるか?
それは一瞬のことだった。獲物をついに手にしたと喜んだのも束の間、その顔が苦痛に歪んだようにはっきり見えた。縄の反対の端が繋がっていたのは太い木の幹であったのだ。縄が限界まで引っ張られた時に、土に脈々と根を張る不動の木は揺れることさえなかった。だが、ワニはその噛む力の強さが災いとなった。反発した鶏の肉にはそのワニの食い込んだ牙がはっきりと記念碑のように残っていた。
ドゥルウェハは最初にワニの目を刺した。それから腹を回数を忘れるくらい何度も刺した。ルートは喉に槍を突き立てた。赤黒い血がどくどくと流れ、太陽に照らされて艶々と光った。血の跳ね返りが彼の頰についた。その血の熱さが槍の先に感じる重みだ。ワニは抵抗しなかった。噛むことに力を使い、疲れ果てていたのだ。だが傷を受け入れるその姿には敗北の感よりもむしろ強者の死に方を身を以て教えているようにさえ見えた。ドゥルウェハはひたすら腕を振った。やめたときもワニが死んでいると気が付いたからではなくて、自分の腕がまったく動かなくなったからだった。ルートは彼のそんな様子をじっと見ていた。まるでつまらない芝居でも見せられているように。
ドゥルウェハは中ほどまで血のべったりとついた槍を離して、その場に座り込んだ。目を閉じると、様々な光景が頭をよぎり、感情が色になって浮かんだり消えたりした。彼は自分が息をしているという事実さえうまく受け入れられなかった。ゆっくりと目を開けた。目の前に転がっているのは死体だ。自分がこの手で殺した。これは狩りだ。なのに実感がまったく伴ってこない。潰れた目から涙のように血が流れている。白骨化したように巨大な体が太陽に晒されている。まるで生きているみたいだ、とドゥルウェハはどこか納得したようにそう感じた。
「どうして俺を止めなかったんだ」とドゥルウェハは仕方なく訊いた。ルートが答えてくれるとははなから期待していなかった。
「止めてほしかったのか」とルートは言った。ドゥルウェハは顔を上げた。ルートの顔に書かれている表情はどうとも読み取れた。そこへヤナが走り込んできた。
「嬉しいことのはずなのに、なんでこんなしんみりした空気になっているんだ?」とヤナは二人の顔を見比べた。そして黄色い歯をみせて笑った。「ひでえ顔だな。腹を下したみてえになってんぞ」
彼の言葉にドゥルウェハは腹から笑った。ルートでさえもにやりと頬を緩ませた。
広場には火が焚かれ、普段は村を覆い尽くす暗闇を脇へ押しやっていた。まるでその光が闇さえも観客にしているかのようだった。燃えさかる火のすぐ近くにドゥルウェハとヤナとルートが殺したワニが葬儀のときの棺のように横たえられて、その輪郭が背後の光によって不気味に浮かび上がっていた。その周りを村の人々全員が囲み、彼らの輪の中で、女たちが村に伝わる舞踊が繰り広げられていた。軽快なスッテプを踏み、全身で生を体現するように大きく動く。だが、実際にはその踊りは精神的な面が重く、形式的な意味は希薄だった。村人以外からすれば、混沌とした即興演劇にでも見えただろう。ちょうどジャズが詳しくないものにとって退屈であるように。その中の数人が太鼓を叩き、意味のない声でリズムをつくる。それに呼応して輪をつくる村人たちの間にも波が広がっていく。その光景はさながら火という偉大な存在に対して熱量で勝負を持ちかけているようであった。掛け声が合い、一つの川がもう一つの川と繋がっていく。それがやがて大運河となり、海に注いでいく。彼らの踊りはそんな心象風景を思い浮かべさせる。
その興奮が極まったところで、村長のヤウェが輪を離れて前に進みでた。白いものの混じった髭は豊かで胸にかかり、額に刻まれた皺が年老いていることを示していたが、その目には依然光が宿り、顎はきっと締まり、胸や腕は隆々と盛り上がっていた。日に焼けた肌が光を受けて黒々と光る。ただ、左頬のえぐれた部分は洞窟のように光を失っていた。
「静まれ!」ヤウェの声が響くや否や、村人の歓喜の踊りがやんだ。弛緩した空気が緊張を取り戻す。彼は自らの威厳を示すようにもう一度繰り返した。
「我々は今日が祝福すべき日であることを知っている」とヤウェは厳かに初めた。ドゥルウェハとヤナは二人並んで輪の中にいた。ルートは少し離れたところで彼の許嫁と手を結んでいた。ヤウェの言葉に聞き入りながら、ドゥルウェハはいつも感じていたあの印象——ヤウェの語りの、なにかを思い返すような、だれか違う人物と話をしているかのような感じ——を思い出していた。ドゥルウェハの向かいにはファージュがいた。彼女の姿は光と闇の境目にいて、出かかっているのに思い出せない光景のように火の揺れに合わせてぼんやりと消えたり現れたりを繰り返していた。彼女は父の言葉に耳を傾けながらも、ちらりとこちらを盗み見ては微笑みかけた。「なぜならば我々の子供らは、いまや巣を飛び立ち、自らの体と知性で力の限り進んでいくことができるからだ。彼らは獰猛で凶悪なるものをその手で殺め、己が勇気と真なる実力を証明してみせた。我々はこれから彼らを一人前の男として、村の一員として扱わなければならない」
ファージュは憧憬のこもった眼差しをドゥルウェハに投げかけた。彼はその重さが体を貫くのを感じていた。一人前と認められることがなにを意味するかはわかっているつもりだった。
「これより誰も彼らを侮ることはできない。なぜならば彼らはすでに我らが同胞であるからだ。村を支え、危機から民を救い出し、悪に立ち向かうことのできる仲間であるからだ。私は長々と話をして諸君を白けさせるつもりはない。その光栄なる三人を紹介させていただこう。ルクル・ランフォルが子、ヤナ・ランフォル。ヘルドイト・カムが子、ルート・カム。最後にブワデク・ジェミストが子、ドゥルウェハ・ジェミスト」
ドゥルウェハは胃がきゅっと締まるのが分かった。前に進むことは名誉であるにもかかわらず、彼は逃げ出したいような気持ちになった。初めに名前を呼ばれたヤナが、慎重に足を進めた。まるで少しでも気をぬくとどちらの足を出すか忘れてしまうかのようだった。蝿がたかっているワニの前まで行くと、彼は止まった。次のルートはもっと自然だったが、それでもドゥルウェハとヤナには彼が相当緊張していることがわかった。ドゥルウェハの番になった。
ドゥルウェハはゆっくりと前に出た。誰もが彼の一挙一足を見つめていた。まるで彼が出所したばかりの凶悪犯のように。ヤナとルートに合流したときには心の底からほっとした。ヤウェは彼らの近くにより、高らかに宣言した。
「これより清めの儀式を行う。彼らは古き衣を脱ぎ捨て、新たな世界へと突き進んでいく。だが体に不純なものを残してはいけない。故に若者はこの火を潜り抜け、穢れをすべて燃やす」ヤウェはドゥルウェハの肩に手を置いた。そして、「ドゥルウェハ・ジェミストが初めだ」と低い声で言った。
ドゥルウェハは目の前でいまも燃え続ける火を見た。赤々とした火が喘ぐように揺れている。それは夢の中の怪物のように大きくなったり、小さくなったりした。そばにいるだけで熱風が彼の体を洗い、まとも見ていられない。火の向こう側にはファージュがいるはずだった。彼の側、彼女の側。ドゥルウェハはそのことを考えた。これは儀式だ。実際になにかが変わるわけではない。「ある種のものごとはそのままの形でいるのが一番いいのかもしれないわね」とある日ファージュがポツリと言ったことを思い出した。この清めの儀を経験した自分は、それ以前の自分と何かが決定的に異なってしまうということもわかっていた。
ドゥルウェハは目を瞑ったまま足を入れた。足の裏が薪に触れるや否や、薪が爆ぜる音と尋常ではない熱さが伝わった。体重をかけると脆くなった炭が崩れ、火の形が大きく変わった。まるで火が彼を飲み込もうと口を開けたように見えた。
まず最初に歓声が聞こえた。それからファージュが彼を抱きしめていることがわかった。柔らかい腕が彼の胴にまとわりつき、胸が彼の腹に押し付けられていた。踊りと太鼓と掛け声の騒々しさが再び火の一帯を包んでいた。最後に痛みがきた。足の裏は確実に火傷をしているだろう。地面につくたびに刺すような痛みが走る。
「おめでとう、ドゥルウェハ」とファージュが嬉々として言った。「これで父は私とあなたの結婚を正式に認めてくれるわ!」
彼はそれには直接答えず、「愛している」とだけ言った。ルート、ヤナと続いて火を通り抜けた。ヤナは折角大人と認められたばかりだというのに、泣きそうになっていた。
「それは嬉しさに泣いているのか?」とドゥルウェハは訊いた。
「さあね。自分でもなにに対して泣いているのかよくわからないんだ。ただ、ようやっといろんなことがあるべきところに落ち着いたなって思ったんだよ」ヤナは無表情でこれからは自分の妻になる許嫁のもとに向かうルートを見て仰天した。「あいつ、どんな体してんだよ!」
「ねえ、ドゥルウェハ。後で会える?」とファージュが耳元で囁いた。「いつもの場所で」
心臓がどきんと鳴る音が聞こえるようだった。ドゥルウェハはなんとか答えようとして振り返ったが、ファージュはもう自分の輪の中に戻っていた。彼女はいつもそうだった。無視するには大きすぎるなにかをそっと彼の身体の奥深いところに置いて去ってしまうのだ。
「諸君!」とヤウェが声を張り上げる。「儀式は終わりを告げ、三人の若者はいまや村の男となった。これより彼らを祝福する宴を始める! 狂ったように楽しみたまえ。今日が人生最後の日であるかのように!」
三人は村の人々の輪を回っていき、それぞれ祝いの言葉をかけられて抱き合った。あるものは感慨深く強く、あるものは強くて弱い微妙な力で彼らを抱きしめた。ドゥルウェハは誇り高いような恥ずかしいような、複雑な思いを胸中に抱きながらも、一人一人の抱擁の暖かさをしっかりと受け止めた。
「これで腹筋以外も成長すると思うか?」と途中ヤナが小声で囁いた。
「まあ少なくとも腹筋は成長し続けるだろうな」とドゥルウェハは答えた。ヤナはその光景を思い浮かべて、未来の彼のグロテスクな姿に少し気分を悪くしたようだった。
三人を見送った村の人々は音楽に合わせて独自のダンスをしていた。まるで出鱈目なのに、なぜか息が合っている。彼らは踊りのうまさとか音楽の正確さなんてものはまるで意に介していない。ただこの場を楽しむという全員に共通する気持ちが秩序はなくとも統一感を生み出していた。ヤナはその光景にしばらく見入っていたが、彼の妻に手をさらわれ、踊りの熱狂の中に入っていった。
ドゥルウェハは彼の両親と抱擁を終えたばかりのルートのところへ行った。ルートもそれに気がついたようで、彼らに感謝の言葉を述べて、ドゥルウェハの方に振り返った。
「少し話できるか?」とドゥルウェハはできるだけ深刻に聞こえないように言った。
「もちろん」とルートは言葉少なげに同意した。「それで?」
「大した話じゃないんだ。ただ……お前とヤナがいなかったら、俺はいまごろワニの胃の中すっぽりと収まっていただろうよ。お前らがいてほんとうに助かった」
「それだけか?」とルートは少し拍子抜けしたような顔をした。
「それだけだよ」とドゥルウェハは苦笑いした。「なんだ、もっと重たい話でも切り出せばよかったか?」
「いや、それはそれで困る」とルートは言って笑った。「俺からも一言。俺もお前も、ヤナもおめでとう。これでゲルイヤに馬鹿にされる材料が一つだけ減ったな」
彼らは声をあげて笑った。ドゥルウェハはこれまでルートがこれほど気さくなやつだとは思いもよらなかった。もしかしたら祭りで気が緩んでいるのかもしれない。だが目の前にいる俺の友人は生きているんだ。無表情で何事もやり過ごすようなやつじゃない。血があり肉があり、感情がある。そんな当たり前の発見が、彼にはなんだか嬉しかった。
ドゥルウェハとルートは短い別れの言葉を言って、離れた。ルートは家族に合流し、ドゥルウェハは村長のヤウェの元へ行った。彼は一人踊りの輪から離れたところに立って、腕を組んでいた。まるで千年も前からそこに立っているみたいだった。ヤウェはドゥルウェハが近づいてくるに気がつくと、相好を崩した。左頬の抉れた部分が醜悪に歪んだ。
「やあやあ。おめでとう、ドゥルウェハ・ジェミスト」その声には寿ぐようでありながら、突き放すような調子もあった。彼はもはやドゥルウェハを子供扱いしてはいなかった。
「ありがとうございます」と彼は抱擁した後に言った。
「君はあそこの宴に加わらなくていいのかね? 主役がいない場など村人にとっては面白くもないはずだぞ」
「そういう村長こそ、村を指揮するものが今宵くらい楽しまなくていいんですか?」
「堅苦しい言葉は使わんでいい。ヤウェと呼んでくれ。これから私たちを隔てるものは、どういう役職であるかというだけだ。それとて大した違いにはならん」と彼は言った。「ファージュとはうまくやっているかね?」
ドゥルウェハはその言葉の意味を計りかねた。「私は彼女を愛していますし、彼女も私を愛しています」
「それは実に良い知らせだ。これから君と彼女は正式な夫と妻という関係になる。君には妻を守るという、言ってみれば当たり前の義務が課せられることになる」とヤウェは言って、少し考えた。また左頬の穿たれた部分を撫でていた。まるで心ここに在らずといったように、それでいて慈しむように。「何も君が力不足だとか言っているわけではない。ただ生きていくためには愛だけでは不十分なこともあるのだよ」
ドゥルウェハは続きを待ったが、ヤウェは続ける代わりに「いや、すまん。おおいなる宴の日にこんなことをいうべきではないな。今夜を楽しんでくれ、ドゥルウェハ・ジェミスト」とだけ付け加えた。
「そうさせてもらう、ヤウェ」とドゥルウェハは少し戸惑いを覚えながら、気持ちを切り替えて、ヤナの踊りに混じった。
夜の森を歩いていくのは困難を極める。たとえ森を知り尽くしているものであっても、自分の位置を見失ってしまうことは容易だ。だからプラぺ族は村を取り巻く半径五キロメートルほどの範囲に入る森の木に、なんらかの印を彫っている。村に生まれた男の子はまずこの印とそれが意味するものを徹底的に覚え込まされ、それから獅子が我が子を崖から突き落とすように森の中に置き去りにする。村人たちが森の中で落ち葉に紛れて人骨を踏むことがある所以は言うまでもない。だが夜ともなればその印とて探すのは易しくない。
ドゥルウェハにはその心配は無用だった。なにも彼が絶対的な土地勘をもっていて、自らの位置を俯瞰するだけではなく、進むべき方向を指針してくれるような、仮想的な地図を頭の中に有しているからではなかった。もっと単純に、彼がその道を何度も通ったことがあるからだった。宴はつい先ほど殺したワニを料理したものをたらふく食べて終わった。ゲルイヤはいつも以上に目を鋭くして村人の間をまわっていた。ヤウェも深刻そうな雰囲気は一切出さずに、幸せそうに目の前の肉にかぶりついていた。ドゥルウェハとヤナ、ルートの三人は村の全員に熱烈な抱擁をされながら、最後の一人が家に戻るのを見届けた。
「これで俺たちも村の男になったわけだが」とヤナが帰途につく最後の村人の背中を見つめて言った。「これまでと一体なにがそれほど変わるってんだ?」
「ワニを殺しても強烈な歓待を受けることはなくなったわけだ」とドゥルウェハが言った。「少なくとも今日ほどにはな」
「少しずつ変わっていくんだ」とルートが考え込むように言った。ルートは何かを言うときは最適な表現を探すように常に時間をかけた。ドゥルウェハとヤナはびっくりしてしまった。「若木が草を生い茂らせ、やがて老樹となるのに何百年もの歳月がかかるようにな」
グエンだったらルートのことを形容する気の利いた言葉を知っているだろう。ヤナはくすくす笑った。ドゥルウェハはルートの言葉を反芻しながらファージュとの約束を思い出した。
「ともかく今日は終わりに近い。もう寝よう」とドゥルウェハが言い出した。彼の喉はからからに乾いていた。二人は頷いて、別れの言葉を口にして家に帰った。
ドゥルウェハはたいていの人が寝静まったと確信してから、家をそっと出た。玄関がわりのシダの葉をくぐるときにかさかさとなった音で彼の母親が寝返りをうったことに驚いて立ち止まったが、森に入るまでは誰にも見咎められなかった。彼は振り返って、宴のあとの静まり返った村を見回した。火が弱いながらまだ燃えていて、村全体をぼうっと浮かび上がらせていた。
森の中は濡れた葉の匂いが充満していた。ドゥルウェハたちの狩りの直後に、短くて激しい雨が降ったからだ。村の周囲にはよく起こることだった。ドゥルウェハはぬかるんだ道でなおも歩を進めた。顔にかかる大きな葉を手で避けた際になめくじに触れたのは気味が悪かったが、ここに住む生物たちにとって雨の滋養は恵みであるのだ。途中で明らかに他の人の足跡と思われるものを踏んでからは、彼の気持ちは昂ぶった。だが混乱してもいた。
「来たのね?」とファージュの声が暗闇のなかから呼びかけるのがわかった。三十分も歩いたほどだろうか。
昼間の光を浴びていれば、そこはちょっとした池があるのがわかっただろう。その池に渡された太い木の幹を伝って向こう側に行き、起伏の激しい道をずっと進むと、木の間から遠くにいくつかの丘陵が連なっているのが見える。木々がびっしりと斜面を埋め尽くしているその丘を越えれば違う村が生活を営んでいる。彼らの密会の場は言わば、ドゥルウェハの村と他の村の分水嶺のようなものだ。アーラ大陸の村々は互いを尊重して——言い方を換えれば、互いのことに過剰な関心を払わないで——それぞれの生活を送っているので、年に数回ある交易を除いては普段この境界までくる人はほとんどいない。
「宴のあとに呼び出してしまって申し訳ないわ。普段ならもう少し明るいときに集まるものね」
「気にしなくていい」ドゥルウェハはそうは言ったものの、どういう要件があるのかについては慎重だった。「わかってると思うけど……」
「そのことについては言わないで」とファージュは少し強く言った。「私は村長の娘よ。この村のしきたりはよく知っているし、あえてそれを破ろうとするつもりもない」
「じゃあどうして俺を呼んだんだ?」とドゥルウェハは言った後で後悔した。「悪い。ただ疑問に思っただけなんだ。だって話をするだけだったら、あの場でもできたはずだろう」
「でもあなたは今日の主役だったから、話ができたとしても、ほんの短い間だけだったはずよ。それにあんまり親密な話ができたとも思わない」とファージュは言って、彼の膝に手を置いた。なんとも気だるいような、それでいて魅惑的なタッチだった。「ねえ、私は目的を拵えるのはあんまり上手じゃないし、そういうのにはうんざりしているの。私はただ……」
ドゥルウェハはファージュが座り直して、彼に近づくのを感じた。「愛しているよ」と彼は言って、物欲しそうにだらりと垂れている手を握った。
「そんなありきたりな言葉を聞きたくて誘ったとでも?」とファージュはいたずらっぽく笑って、彼の唇に優しく自分の唇を重ねた。ただ触れ合いがここまで人を興奮させることができるなんて、本当に愛したものができるまで誰にも理解できまいとドゥルウェハは思った。ファージュは舌を入れようとはしなかった。ただ子供に与えるご褒美のように、軽く触れただけだ。あたりが暗くてよかった。もし明るかったら自分の欲望がすべてばれてしまっただろうから。「……したいんでしょ?」
心臓をひやりとした手で握られたのが確かにわかった。ファージュはいつも、ドゥルウェハの考えることを見通していた。彼女は常に何歩か先にいた。わずかだけれど、決して詰めることのできない距離だ。ドゥルウェハは見えるはずもないのに、自分が情けなくこっくりと頷くのを発見した。その気配を察したのか、ファージュは握る手を強めた。どんな言葉よりもその手の感触は意味を持っていた。
「ねえ、見える? あの三角形」ファージュは沈黙の重さを測るように慎重に言った。
彼は空を見上げた。その辺り一帯は村と村の境界線であるとはっきりと分かるように周りの木々が切り倒されて、空き地のようになっていたから彼の視線を遮るものはなかった。箱いっぱいに詰め込んだガラス玉をばらまいたみたいに、無数の粒子状の光が真っ暗な空に散らばっている。ひときわ強い光を発するものもあれば、消え入りそうな光もある。ドゥルウェハはこの日この星々はいったいどこまで広がっているんだろうかと疑問に思った。グレート・シーを渡ったカーナルジャ大陸の人々にもこの光は届いているのだろうか。それとも俺たちだけに特別に微笑んでくれているのだろうか。その星の中でも特に光を強いものが三つ、結ぶとちょうど三角形の頂点に当たる位置で光っている。プラぺ族ではそれらの星のつくる三角形に宗教的意味を、あるいは根拠を求めようとした。村長の娘であるファージュはドゥルウェハが考えるよりよっぽど大きな意味をこのトライアングルに感じ取っているいのだろう。
ファージュは何も言わなかった。ドゥルウェハも平凡な感想を言おうとは思わなかった。
「何か言おうって思ってたんだけど、忘れちゃったわ」とファージュは照れ臭そうに言った。「ここにくるまでは覚えたんだけどなよ。何回も口に出したのに」
「愛しているよ」とドゥルウェハは言った。それ以外に何を語ればいい?
一つの星が少しだけ光を強めたように見えた。それはトライアングルの頂点のうちの一つだった。