縦に振れば横に飛ぶ
「何時も通りここに魔術印をお願いします」
青年はテーブルを挟み向かい合って座っている上品な服を纏った初老の男の前に、一枚の紙を滑らす。
男はそれを受け取ると紙の右下部分にある受け取り印と書かれた場所に親指を当てる。すると当てた先が淡く光り、離した後にはこげ茶色の幾何学模様がそこには浮かび上がっていた。
「いや今回も助かったよ。なんせ遠距離輸送を他に頼むと時間がかかって仕方がないからね。また何かあったら頼むよ」
「ひーふーみーよっと、いやこちらこそいつもご利用ありがとうございます」
男はにこやかな笑顔を浮かべつつ青年の前に懐から取り出した袋をのせて紙を青年のもとへと押しやる。
それを受け取った青年は袋を開けて中に入っている報奨金の額を数えると、彼もまたにこやかな顔で返事を返した。
「……そうだ。君に一つ話があるのだが……」
「……?」
突如初老の男は何かを言ったかと思うとそこでことばを切る。顔も朗らかなものから少し苦々しそうな表情へと変わっていた。
何か粗相でもやらかしたのだろうかとここにきてまでのやり取りを思い返してみるが、思い当る節は浮かんでこない。
この男性は上客であり手放すには惜しい人物であったため、丁寧な対応を心掛けていたつもりではあったので彼は困惑していた。
ただ、この疑問は男が発した次の言葉で氷解することになる。
「もし暇があれば今から家で食事でもどうかね? 娘が君に会いたがっているのだが……」
初老の身なりのいい男……レンサス・クルフォビアス伯爵はそう青年に告げた。
レンサスは十五歳になる愛娘のルルシアを溺愛している。
その溺愛している娘であるルルシア・クルフォビアスは巷でも有名な美しい令嬢である。透き通った肌に肩までで切りそろえられた輝くような銀色の髪に柔らかな光を湛えた琥珀色の瞳。貴族様のいわば婚活パである社交界デビューの際、順番待ちで整理券が配られたという噂まであるぐらいであった。
レンサスは上客であり、これまでにも何回か荷運びの依頼を受けている。そのたびにルルシア様の話を聞かされてきていた。今回も聞かされている。
そのルルシア様が男と食事をしたいと父親に頼み込んだのだ。溺愛する娘のその頼みを聞くかどうかかなり悩んだであろうことは簡単に予想されることであった。
……もしかしたら俺……シュラク・リテールはここで殺されるのかもしれない。
「シュラク君。君には娘のため、できればいい返事を期待しているよ」
明らかな嘘である。
腹芸がお手の物であるはずの貴族様がもちろん断るに決まっているよなぁ? 的な目を俺に向けているのだ。ルルシア様のお誘いは嬉しいのだがここで首を縦に振れば次の瞬間には首が横に飛んでいるかもしれない。
「お誘いはとてもありがたいのですが、え……遠慮させていただこうかなと……アハハ」
引きつりそうになる顔を無理やり笑顔にしてシュラクはそう返すが、
「うちの娘の頼みを断るだと……?」
一体何が正解なんだっ!?
今度は別の意味での射殺すような視線にシュラクは思わず頭を抱えてしまいそうになるがかろうじで堪える。
「あ、いえ……その……次の荷運びの依頼がありますので、ルルシア様には悪いですが何時になるかわからないというか……そのまたお暇があればご一緒させていただく形でも構わないでしょうか?」
シュラクは願う。頼むから助けてくれと
「そうかそうか。いやぁ、仕事の依頼があるなら仕方がないな。うん、仕方ない。うむ。いや実に残念だ。しかし仕事の邪魔をしてはいけないからね。いや仕事熱心なことは感心だ。うんうん。非常に残念だが娘に伝えておくとしよう。いや、無理を言ってすまなかったね。これからもよろしく頼むよ」
シュラクの思いが届いたのか、レンサスの表情は一転変わって再び笑顔に戻る。
それを見て内心でガッツポーズをしつつ、気が変わらないうちに去ろうと腰を上げて立ち上がる。
「では、クルフォビアス様。またご用があれば運び屋リテールをご利用ください」
シュラクは深々と頭を下げると部屋にいた2人の護衛にも会釈してからそそくさと退室した。
シュラクはレンサスの部屋から少し離れたところで辺りを確認して人がいないのを確認すると大きく息を吐く。
し、心臓に悪い。殺されないとはわかっているが怖いものは怖いんだよなぁ。
……余計な何かが起きる前にさっさと帰るとするか。
そう心に決めたシュラクは普段より気持ち早歩きで屋敷を出たのだった。