7の消失
イチカが家に帰ると、母がぼうっとソファに身を投げ出して座っていた。
たった一人の息子である兄が家を出ていってから、母が微笑むことは二度となかった。家から一歩も出ることはなく、一日中ぼうっと壁を見つめている。壁に喋りかけている時すらあった。
小声で滑舌が悪く聞き取れなかったが、どうやら兄の名前を呼んでいるらしい。そんな母を気味悪がって、愛想を尽かした父も家を出て行き、ますます母は生き人形のようにそこに居るだけの存在に成り果てていった。
イチカと母の生活を支えるのは、外国で働く姉の、尋常では考えられないほどの高額な賃金からの仕送りと、父からのせめてもの罪滅ぼしというような、最低限の養育費だけだった。
けれども、イチカが成長期とはいえ、女二人の生活では食費も殆どかからない。家にはテレビもなかったし、新聞も取っていなかったので、余計な集金に煩わされることもない。必要なのはイチカの教育費だが、イチカが特待生なため、これも殆ど無に等しい。
高校生に入り、セナと黒に強く勧められたのもあって、スマートフォンを購入したぐらいである。
初めて手にする電子機器は、イチカにとって未知なもの以外何物でもなかった。少しずつ黒に使い方を教わり、やっと彼女も地域の小さなコミュニティーに参加できるようになった頃合いである。
「母さん、今日はどうだった?」
返答が無いことは分かりきっていたが、いつもの儀式的な挨拶のごとく、イチカが問いかける。案の定、母は無言だった。
代わりに、なな、なな、と口走った。
なな。
多分、兄のことなんだろう。それ以外にイチカには思いつかない。
イチカは兄のことをよく知らない。
兄が家を出たきり帰らなくなったのは、彼女がまだ三歳の頃だった。名前も憶えていないし、記憶もない。
ただ、母のつんざくような泣き声と、兄の大きな背中が扉の向こう側へと消えていくのが、ぼんやりと思い出せるばかりだ。