氷を食べる話 ―巷で噂の中二病 2―
最近やたらと氷が食べたくなるときがある。
季節は秋に差し掛かっていて、暑い日もまだまだ続くが夏本番のときよりは和らいでいる。しかしどこにいても氷を見ると無性に食べたくなり、気付くと毎日製氷用の容器一皿分は食べるようになっていた。
家族も不審がって初めはいろいろ注意してきたが、氷なら食費も要らないという考えなのか――はたまた、もう血縁者ではないことがすでに露呈してしまったからか――、直に何も言わなくなってきた。
「それ、氷食症ってやつじゃないかな?」
いそいそと黒いローブを着込みながら、相変わらず某有名進学校の男子制服姿の波音は凛太郎を見上げてそう言った。巷を騒がせている中二病少年の正体を唯一知っている、これまた近所では名前を知らない者はいないと言われるヤンキー少年である凛太郎は、きょとんとして波音の顔を凝視した。
「ヒョウショクショウ?」
「兄さんの本で読んだことがあるの……。異食症のひとつで、確か非栄養物質を強迫的に食べたくなる病気なんだって」
病気という言葉に、万年風邪すら引いたこともない凛太郎はぎょっとして波音に詰め寄る。
「え、俺病気なのか?」
「どうなんだろう……私は、兄さんみたいに医者を目指しているわけではないから、ちゃんとしたことは言えないし…………」
「その氷食症ってやつは、治さないとヤバイやつなのか?」
必死な形相で問いかける凛太郎に、波音は視線を泳がせて申し訳なさそうにうつむいた。
「ごめんなさい……はっきりとは覚えていないの。明日でよければ、ちゃんと調べてくるね」
「んや……俺の方こそ、ごめんな」
心配させまいとニッと笑い、わしわしと無造作に波音の頭を撫でていた、そのときだった。
突然の眩暈と頭痛がして、視界が急激に暗転した。
「り、凛太郎くん!」
波音の悲痛な叫びを遠くに聞きながら、凛太郎はその場にくずおれたのだった。
「貧血ですね」
病院のベッドに寝かされて点滴を受けながら、凛太郎は口をとがらせて天井を見上げていた。波音は凛太郎とカルテを持つ老医者とを交互に見比べて目を丸くする。
「貧、血……ですか?」
「ええ。鉄分不足による、鉄欠乏性貧血です。重ねて氷食症だったそうですね?」
「そうみたい、です……」
医者は怪訝そうに女子学生らしからぬ格好の波音を見つめて、しかし何も言わずにカルテをパラリとめくる。
「氷食症は鉄欠乏性貧血またはその前駆状態の方に出る症状です。どうしておかしいなと思ったときに病院に相談してくれなかったんですか?」
「そ、そう言われましても……」
「こんな状況になる前に、もっと早く気付くこともできたはずですよ」
「おい医者、何もそこまで責めることはないだろ」
凛太郎のぶっきらぼうな口調に、医者の苛立ちが増したようで小さな舌打ちが聞こえる。
「とにかく、今日は検査入院してもらいますからね。あと、ご家族にも話をしたいので連絡先を教えてください」
「…………」
「こら、返事は?」
「わあったよ。いちいちうるさい医者だなぁ」
医者は腰を上げて病室の出入り口に向かい、去り際に面倒な奴らだなと言いたそうに二人を一瞥する。医者の足音が遠ざかっていくのを耳にしながら、波音は愛用している猫モチーフの不気味な仮面で口元を隠した。
「ごめんね……私がもっと勉強してたら、こんなことには……」
申し訳なさそうに俯く波音に、凛太郎は黙って首を振って微笑んだ。その顔はとても穏やかで、先ほどまで医者に見せていた不機嫌な表情とは打って変わっていた。
「お前が悪いんじゃない。だから、謝らないでいい」
「そうかもしれないけど……ごめん…………」
「だから、謝るなよ……俺が悪者みたいじゃん」
でも、とさらに言い募ろうとする波音に、黙ったまま彼女が手にしていた猫の仮面を奪って顔面に押し込む。それだけで、波音は突然立ち上がってまるで人が変わったかのように高笑いをした。
「まったく、貧血ごときで倒れるとは貧弱な奴だな! 仕方がない……僕が直々に魔術を駆使して作った、貧血によく効く秘薬でも用意してやろう!」
「……お前はどうしてこうも性格がコロッと変わるのかね」
「ちょっとあなた! 病院内ではお静かに!」
突然入ってきた看護婦に、波音は「ごめんなさい!」と慌てて仮面を取ってフードを目深にかぶる。やれやれと肩を竦め、羞恥に顔を真っ赤にしている波音を見つめる凛太郎の顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。