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怒らない悪魔

まだ、熱い……


結菜は地下倉庫で大島建設の過去の受注伝票を探しながら、ギュッと抱かれた余韻の残る身体を持て余していた。


胸はドキドキと壊れそうな勢いで早鐘を打つ。耳に残る、熱い吐息と間近で聞こえた低い声が、告白が夢ではないと主張する。


告白……されたんだ。


はっきり言えば彼のことは好きだ。失いたくはない。彼は人としてとても魅力的だと思うし、先輩としても頼りになる。尊敬できる存在だ。


さっきだって、抱き締められて戸惑いはしたが、嫌悪感は感じなかった。それくらい好きなのだ。ただ、その先がわからないのだ。


『やる気満々』だと言っていたキスも、結局されずに済んだ。恋人同士になったら当然するであろうそんな行為や、もっと過激なあんな行為を、果たして自分は彼とできるのだろうか。


そう考えると、途端に思考がぐちゃぐちゃになってあの熱い抱擁で頭がいっぱいになってしまう。これでは『あんな行為』なんて絶対無理に違いない。


五十嵐は優しく、『よく考えて結論を出して』と言って結菜を解放してくれたが、そんな調子だから考えても考えても自分の気持ちがまるで見えてこない。


こんなはっきりしない気持ちのまま、失いたくないからと彼の手を取っていいものだろうか。


おまけに『五十嵐くんを助けてあげて』と必死になっていた七海の顔がちらついて、これにも結菜は悩んでしまう。


七海は五十嵐の気持ちに薄々気づいてたのだろう。だから五十嵐のために、自分と彼をまとめようと躍起になっていたに違いない。彼女自身の気持ちを封印してまで……


それほどの――自分を犠牲にできるほどの強い想いを結菜は知らない。未だかつて経験したことがない。


そんな自分が七海を差し置いて五十嵐の隣に居据わるなんて、七海に対して申し訳ないような気がする。


たとえ今、五十嵐の想いを受け入れたとしても、この先結菜が七海以上の気持ちになれるとは限らないのだから。


「やっぱり、どう考えても七海先輩の方がお似合いだよ〜」


誰もいない地下倉庫で、結菜はぽつりと呟きを漏らした。


シンとした空気が結菜の呟きに震えると、辺りはまた薄気味悪い静けさを取り戻す。


声を上げたことによって、この薄暗い広い空間にひとりぼっちだということを認識してしまい、物音がするたびにびくびくと、そちらの方を確かめられずにはいられない。


どうせ、倉庫に寄ったのは口実だし……もう戻ってもいいかな。


五十嵐と二人肩を並べて部署に帰るわけにもいかず、行き先ボードに倉庫で捜し物をすると書いてきたからと五十嵐に先に帰ってもらったのだ。


せっかくだから、大島建設の過去の物件でも探してみようと思い立ったのだが、ひとりで捜し物をするには、この、陽の当たらない倉庫は怖すぎた。


蛍光灯が一本、ジーッジーッと音を立てて、点いたり消えたりを繰り返しているのにもまた、恐怖心を煽られる。


こ、この部屋で、いじめを苦に自殺した女子社員とか、ストレスからくる疲労でポックリ無念の死を迎えた営業さんとか……い、いないよね!?


落ち着かない気分で、それでも頑張って受注伝票の綴りを求めて、埃っぽい棚から一冊ずつ冊子を抜き出す。


残りあと三冊というとき、抜き出した冊子の表紙に大島建設受注分の文字が、結菜の目に飛び込んできた。


「あっ」


ページをめくると、十年前の日付から五年前の日付の伝票が分厚く束ねられていた。


できればもう少し新しいものが欲しいと次の冊子に手を伸ばそうとしたとき、結んであったひもが解けて、無惨にも伝票はバラバラに床に滑り落ちてしまった。


「もう〜っ!」


やっと部署に戻れると思ったのにコレだ。


伝票をかき集め、日付の古い順に並べる。かなりの量があるので順番どおりに並べるだけでも重労働だ。


はぁ〜。


知らず知らずのうちに結菜からため息が漏れる。それが自分の耳に届き、更に気分が滅入ってしまう。なんという悪循環。


「もう帰りたい……」


すると結菜の背後でかさっと人の動く気配がした。


振り返って気のせいだと確かめたいが、誰もいなかったら、それはそれで何だか怖い。だって確かに衣擦れの音がしたのだ。


足元から震えが上がってきて、結菜は金縛りにあったように動けない。


「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」


両手を胸であわせて目をギュッと瞑り、小さな声で繰り返し念仏を唱える。心の中では神様どうか助けてくださいと祈るが、念仏を唱えながらの祈りが果たして神様に届くのか……定かではない。


「バカか、お前は。何やってんだ」


「ぎゃー!!」


いきなり耳元で地を這うような低い声が聞こえて、とっさに耳を塞いだ結菜の手から、せっかく拾い集めた伝票が一枚残らず床の上にばらまかれた。


結菜がそおっと声のした方を窺い見ると、そこには……


「か、課長?」


そこには、いじめを苦にして自殺した女子社員でも、ストレスからくる疲労でポックリいった営業マンでもない、生きた田中太一が腕組みをして踏ん反り返って立っていた。


「って、何で課長が?」


「阿呆」


あ。『バカ』じゃない。


しかし、そんな事に気付いたって、ちっとも嬉しくなんてありゃしない。


「一体、何時間席を外してるつもりだ。それに、なんだこの散らかりようは」


田中は床の伝票にお冠だ。顔をしかめてバラバラになったそれを睨むと、結菜に小言を言い始めた。


「十年も前の伝票で何をしようっていうんだ。半日かけてやる仕事か!? どうせ今の現場が終わればお前は大島から離れるんだ。そこまでやる必要などない」


半日と言われ時計を見ると、針は四時半を指していた。


「す、すみません。そんなに時間が経っているなんて思いませんでした。でも、今の現場が終わるまで私も大島建設の担当です。少しでも知っていたいんです」


元々は口実だった倉庫探索だったが、怖いのを我慢して頑張ったのだ。半分くらい本当の事だし、ちょっとくらい熱心ぶったって罰は当たらないだろう。


ちょっぴり結菜は後ろめたかったが、精一杯のすまし顔で田中を見つめた。


「……それだけか?」


「はい? それだけとおっしゃいますと?」


田中は結菜の質問返しに、少しイラついた様子で下を向いた。


「部署に……居づらかったわけではないんだな」


「居づらい? 何でですか? 早く戻りたかったんですけど、なかなか捜し物が見つからなくて」


「……その伝票は古すぎる。直近の五年分の伝票はデータ化されているからお前のIDを入力すればPCで見られる。知らなかったのか?」


「あ、そうなんですか。知りませんでした。以前ここで過去の物件を調べている方がいたので、調べ物は地下倉庫って思い込んでました」


「こんな昔の物件を調べる奴がいるのか? 改修工事かな」


田中は首を捻るが、そんな調べモノをする人もいるのだ。現にここに。


「そういえば……」


何を思い出したのか、田中はニヤリと笑って声を落とした。


「数年前の寒い日だったなぁ。ここで調べ物をしていた人が、心臓発作を起こして亡くなったっけ。もしかしたら、亡くなってもまだ、調べたいことがあったのかもな」


ヒェーーーッ!


い、いたのか! やっぱりいたのか!


「や、や、止めてくださいよぉ。嘘ですよね?」


「嘘だと思うなら、それでいいんじゃないか? 俺は先に戻るから、お前はそれ、片付けて来いよ」


つれなく背を向ける田中のスーツの裾を両手で掴み、結菜は涙を浮かべて必死の形相で引き止める。


「ま、待ってくださいよ〜! ひとりにしないでください〜!」


「ばか! 止めろ! スーツが皺になる!」


「いやです〜!」


田中が結菜の手を引き剥がそうとしても、ひとりになりたくない結菜は力の限りぎゅうぎゅう裾を握り締めてすっぽんのように放さない。


後で怒られてもいい。今この恐怖の現場で見知らぬ幽霊と二人きりになるなら、まだ実体のある悪魔の田中の方がマシだ。それに、幽霊よりも悪魔の方が強そうだから、田中がいれば幽霊だって怖がって姿を現したりはしないだろう。


「逃げないって約束してくれるまで、絶対に放しませんからね!」


長期戦に備えて結菜がスーツをギュッと握りなおすと、田中はギョッとして慌てて言った。


「わかった。わかったから! 逃げないから今すぐ手を放せ!」


ちょっとお高いスーツだったようだ。


言質は取ったので、それを反古にする田中サマではないだろう。


ようやく安心して、結菜は田中のちょっとお高いらしいスーツから手を放した。


「早く拾えよ」


そっぽを向いて、脱いだスーツの皺を伸ばしながら言うセリフはちっとも恐くなくて、結菜はペロリと舌を出すと「は〜い」と朗らかに返事をした。そして一枚一枚丁寧に伝票を拾い集めると、さっきと同じ手順で古い順に並べ始る。


しばらく黙って作業をしていたが、付き合ってもらっているのにだんまりを決め込むのも何となく悪いような気がして、共通の話題を探してみたが、年齢も性別も違う田中との間に共通の話題なんてあるわけがない。仕事の話を振って、お説教が始まるのも面倒だ。


「課長って、随分若いのに課長なんですね」


結局無難に年齢の話で切り抜けようと話を振るが、「そうか?」と言ったきり話にのってこない。スーツの皺が気になるようだ。


「あ……すみません、皺」


「いや。そんなについてないから気にするな。この後予定があるから少し気になっただけだ」


「……!」


おかしい!


今日の田中は怒らない。思えば遅刻をした(らしい)のに怒られないどころか見逃してくれた。


具合が悪いようにも見えないし、怒りを我慢してるようにも見えない。一体彼に何が起こったのか……


結菜は作業の手を止めて、遠慮ない視線を田中に向ける。頭の天辺から爪先まで、ちょっとの異変も見逃さないよう細心の注意を払って眺め回す。見た目は特段変わったところは見受けられない。


ということは……内面の変化。何か良いことでもあったのだろうか。


……そうか! 予定というのは、きっと奥さんとデートなんだ!


ピンときた結菜はニタリと笑って、このおいしい発見で、いっちょ田中をからかってやれと思いついた。だって今日の彼は怒らない!


「ふふふ。いいですね。今日はお楽しみですか〜?」


「はぁっ!?」


突然ニタニタしだした結菜を、田中は訝しげな目付きで見つめた。


「おっかない課長も、奥様には頭が上がらないんですね。ふふっ。いいなぁ。結婚しても待ち合わせしてデートですか」


「何言ってんだ?」


ん?


「だから奥さんとデート……あれ?」


眉間には小さな皺が刻まれて、今日は怒らないはずの田中の機嫌が悪くなったと告げていた。


「お前、俺にケンカ売ってるのか?」


「め、滅相もない」


「『おっかない』俺に妻はいない。バツイチで悪いか」


「げっ!」


驚く結菜に、田中の冷たい視線が降り注ぐ。


彼がバツイチとは知らなかった。そういう情報は前もって結菜の耳に入れておいてくれないと困るじゃないか。


「まぁ、付き合い始めは相手の男しか目に入らないからな」


一瞬の冷たい空気に結菜はヒヤッとしたが、やはり田中は怒らなかった。小さく息を吐くと遠い目をして何かを見つめている。それは、今となってはもう戻れない、若かりし日の思い出……なのかもしれない。


……ん? 待てよ。付き合い始めって誰のこと?


「五十嵐と付き合い始めたんだってな」


ああ、先輩と自分かぁ!


なぁんだと思い、ハタと気づく。


「まだですよ! まだお返事してませんからっ! 何で告白されたこと、知ってるんですか!?」


「お前は付き合ってもいない男とキスするのか!?」


結菜の疑問には答えず目を剥く田中に、結菜も唾を飛ばして力一杯反論した。


「だからしてません! キスなんて!」


田中のくせにそんな噂を信じるのかと、胸の奥がムカムカする。


噂の真偽を問いただす前にまるっと鵜呑みにしてしまうとは、管理職として迂闊過ぎるではないか。


「噂の件を知っていたなら、デリカシーとは無縁の課長らしく、はっきり聞いてくれれば良かったんですよ」


「お前の口からデリカシーとは無縁とか言われると、なんかムカつくな」


上から結菜を見下ろす田中は、溢れ出る威圧感で彼女を圧倒するが、今日の田中には普段言えないことだって思う存分言えるはず。だって今日の田中は怒らない!


伝票整理を放り出して、すっくと立ち上がると田中の前に立ちはだかり、小さな体を大きくみせるよう胸を張る。


そして、軽く拳を握ると仁王立ちで真っ正面から田中を睨み付けた。


「普段偉そうにお説教ばっかりしてるんだから、こんな時くらいかわいい部下を庇ってくれてもいいじゃないですか! 上司は部下を庇うためにいるんでしょ! そういう上司だから部下は着いていけるんです! たとえ怒鳴られても、足蹴にされても、額にハンコを押されても!」


最後だけやけに具体的になって力が入ってしまったが、言い終わった結菜はすっきりとした爽快感を味わっていた。


言った。言い切ってやった。やったね、自分!


自分で自分を褒め称え、言いたいことを言い切れた感動に唇を噛み締める。


その時、自分に酔い痴れた結菜を奈落の底に突き落とす、悪魔の楽しげな声が響き渡った。


「ほう。それじゃお前は、この俺に助けを求めていたわけか。そりゃ気づかなくて悪かったな」


「ん?」


結菜の悪魔探知レーダーがぴょこっとアンテナを立てていち早く結菜に危険を知らせる。


「か、課長? もしかして……怒ってるとか?」


田中はニヤリと黒い微笑みを浮かべて、顔を引きつらせながら後退る結菜に合わせて一歩前進した。


「か、課長?」


「怒ってるように見えるか? 心外だな」


バッチリ黒いその笑顔に、からかうようなその口調。怒ってるようにしか見えやしない。


「そういう事なら遠慮する必要はないな」


そういう事?


そういう事とはつまり……?


たった今、自分が意気揚々と語った内容を思い返して、結菜は愕然とした。


つまり……いざという時庇ってくれれば、怒鳴られても足蹴にされてもOKよ。こう受け取ったということか!


「ひ、ひねくれ者〜っ!」


秋の空よりも女心よりも、ひねくれ悪魔の気分は変わりやすい。なぜだか知らないけど悪魔に豹変するのを遠慮していたと言うのなら、最後までそれを貫いてほしい。


「遠慮は日本人の美徳ですよぉ……」


「その割りにはお前、『偉そう』だの『デリカシーとは無縁』だの、遠慮がなかったな。そうそう。あと、『ひねくれ者』だったか?」


「うっ……!」


それを言われると結菜も言葉に詰まってしまう。確かに、ここぞとばかりにチクリチクリと言葉の針で攻撃したのは事実だ。


なんだか展開を誘導されたみたいで詐欺にあった気がする。


そういえば『騙し』は悪魔の得意技だった……


「ぐすん」と、結菜が鼻を啜る音が、不気味なほど静まり返った室内に弱々しく響く。


鼻を啜る音に風邪でも感染されたら困ると思ったのか、寒くなったのか、田中は持っていたスーツをヒラリと羽織る。ごく普通の、至って日常的な風景。


しかし結菜は見逃さなかった。


上着に袖を通しながらほくそ笑む、悪魔の愉しげな表情を……



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