予感
遅い更新ですみません。
結菜がいつものように食後の歯磨きを済ませて席に戻ると、机の上に放り出されたケータイがメールの受信を告げていた。
発信者は五十嵐。社内にいるのにメールとは、やっぱり人目が気になるのだろうか。五十嵐との気安い関係が変わってしまった気がして結菜はちょっぴり寂しく思う。
『急でごめん。話がある。至急小会議室に来て』
五十嵐らしからぬぶっきらぼうな短い文章から、彼の焦る気持ちが伝わってくるようで、できれば結菜もすぐに駆け付けたい。
しかし、今朝遅刻をした(らしい)結菜が彼の呼び出しに応じて、もしも午後の始業に間に合わなかったら……当然、黒いオーラのあの悪魔が黙っちゃいないだろう。今度こそ頭からバリバリ食い尽くされてしまうかもしれない。
おぞましさに震えながらチラリと田中の席を見ると、書類の山の向こうに彼の姿は見えない。まだ昼食から戻っていないようだ。
慌てて結菜は机の上に見積書を広げると、ホワイトボードに『地下倉庫』と書き、猛ダッシュで『地下の小会議室』へと向かった。
「先輩!?」
通路と小会議室を隔てるドアさえももどかしく、結菜は蹴破るようにドアを開け、中に転がり込む。
室内はひんやりとしていて、四階から地下まで全力で走ってきた結菜には心地よく感じられた。
「ごめんね、呼び出して。『噂』聞いた? 俺たち道端で抱き合ってキスしてたらしいよ。」
「ふぇっ!? だ、だ、だ、抱き合ってキス!?」
噂は間接キスだったはず。『間接』はどこへ消えてしまったのだ。
「ほら、車を避けたときの、アレ」
「だって。キ、キスなんてしてないじゃないですか」
間接キスでもドキドキなのに、本当のキスなんて! 想像しただけで顔から火が出そうだ。
「でも、噂ってそういうもんだよね。暗かったからそう見間違えたのかもしれないし、噂が広まるうちに尾ヒレが付いたのかもしれない」
肩をすくめる五十嵐に憤っている様子はなく、どこか他人事のように冷静に噂を分析していた。
「見間違いだったとしても、噂に尾ヒレだったとしても……無責任ですよ!」
「面白ければなんでも有りなんだろ。どうやら噂では、俺が無理矢理結菜ちゃんにキスしたってなってるらしいんだよね。困ったね」
「先輩が……無理矢理?」
結菜の心臓がトクンと音を立てた。
その言葉は今朝聞いた。『キスしてたんだって?』と言う吉沢に、五十嵐の天然たらしっぷりをうっかり話してしまった時のことだ。
動揺してたとはいえ、信用できないおしゃべり男に何故話してしまったのか……今更だけど悔しい。もしかしたら『五十嵐無理矢理説』を流したのは吉沢なのではないかと不安が胸に押し寄せてきた。
吉沢は、『もう噂は広まってる』と言っていたが、わかるもんか。彼自身、噂を広めるつもりでいたからそう言ったのかもしれない。
「まぁ、それはいいよ。別にそんな事はどうでもいい。ここからが本題だから、本当の事を聞かせて欲しい」
それまでどこか呆れた口調で他人事のように噂を語っていた五十嵐が、急真面目腐った顔で結菜の瞳を探ってきた。結菜はドキッとしてしまい、一歩後退る。
「さっき七海さんに怒られた。『か弱き乙女の唇を味見だなんて、どういうつもり!? この不届き者!』って。七海さんは君から裏を取ったっていうんだけど、彼女に俺がキスしたって言った?」
キスしたなんて言ってない。七海としたのは間接キスの話だ。しかし五十嵐の話を信じるとすれば、七海は五十嵐が結菜の唇を奪ったと思っている。つまりはきっとそういう事……
七海がしてたのはキスの話で、結菜の説明を全てキスに変換して受け取ったということだろう。多分、吉沢も同じ受け止め方をしたに違いない。つまり、やっぱり噂の出所は結菜自身だったのだ。
今更発覚したこの事実を、五十嵐になんと言って伝えれば良いものか。
「あの、先輩? 言ったけど、言ってないんです。私が言ったのは間接キスについてで……えっと〜」
自分でも矛盾していると思うけれど、他に言葉が見つからない。五十嵐が言葉の裏を汲み取ってくれないかと期待を込めて言ってはみたが、五十嵐は綺麗に整った眉をひそめて「どういう意味?」と聞いてきた。
そりゃそうだろう。五十嵐は自分が行った行為も、それを結菜が眠れないほど気にしていたという事実も、全く気づいてないのだから。
当てが外れて結菜はガクリと肩を落とす。そもそも五十嵐が結菜のフォークを勝手に口に運んだのが原因じゃないかと恨めしくなってくる。
結菜の恨めしげな視線をピシャリと跳ね返すように、五十嵐が「ああ、そうか」と声を上げた。
「今の結菜ちゃんの言葉に、何かが引っ掛かったんだ。やっとわかったよ。昨日言ってた『かんせつき』って、もしかして間接キスのこと? 結菜ちゃんのフォークを使っちゃった事だよね? あの時結菜ちゃん、ものすごく美味しそうにサラダを食べてて、つい同じ物が食べたくなっちゃったんだよね。で、ちょうど良く目の前にあったもんだから深く考えないで味見させてもらったんだけど……そうか。間接キスって言えば、間接キスかもしれないね。で? それがどうかしたの?」
謎が解けて、能天気に晴れやかな笑顔を見せる五十嵐に結菜は思う。
――どうもこうも、そのせいで先輩は強引無理矢理キス男です〜。天然なだけなのに……
「……私もそう言ったんです、七海先輩に。みんなが噂してるのが間接キスの事だと思って、五十嵐先輩、味見したかったんだろうって。でも私と七海先輩は根本的なところが違っていたみたいでこんなややこしい事に……すみません」
「はあ。それで味見か。つまり、結菜ちゃんは間接キスの話をしていたつもりが、七海さんは噂通りキスの話として受け取っていた。と、こういうわけか」
結菜は飲み込みの早い五十嵐に、うんうん、と一生懸命頷いた。
「そうなんです。どういうわけか会話が成り立っちゃって……」
「なるほど。納得したよ」
納得してもらえたのは何よりだ。誤解がひとつ解けて嬉しいが、結菜にはもうひとつ、重く心にのしかかる、しなければならない報告があった。願わくは、話し終えてもまだ自分に笑顔を向けていてほしい。祈るような思いで結菜は口を開いた。
「あの……言いづらいんですけど、先輩が無理矢理私に……キス……したっていう噂も多分私が原因です」
結菜が今朝の吉沢との会話伝えると、段々と五十嵐の表情が険しくなっていく。
やはりどうでもいいとは言いながらも、不名誉な噂に腹を立てていたのだろう。それが結菜の誤解から始まったとなれば、怒りの矛先が自分に向けられるのは当然だ。そう思った結菜は、五十嵐をまともに見ることさえできなかった。
「……の野郎」
五十嵐には似つかわしくない、野蛮な呟きも険しい表情も、全部結菜が受け止めなくてはならないもの。
「ごめんなさい! すみません、先輩。私、頑張って噂を撤回しますから」
「え? 結菜ちゃん……どうして君が謝るの?」
険しく歪めていた表情を一変させて五十嵐が言う。柔らかな空気を醸し出した彼を見ても、結菜の気持ちは晴れない。
「だって。私が誤解したせいで、先輩だけが悪く思われて……」
ここで涙を見せるのは狡い事だと分かっていても、五十嵐を怒らせてしまった自分の間抜けさに腹が立って、こぼれ落ちる涙をこらえる事ができなかった。
五十嵐は結菜をそっと引き寄せ抱き締めると、彼女の耳元に甘い吐息を漏らした。
「バカだな。そんなことはどうでもいいんだよ。誰にどう思われても気にならない」
クスッと笑う五十嵐の唇が、結菜の額に触れ、結菜は自分が五十嵐の腕の中にいることに気付いた。彼の腕の中は安心できて、昨日のように自分からそこを出るのは困難に思えた。このまま甘えていたい……
「吉沢には俺が自分で礼をするから、結菜ちゃんはもう気にしないで。」
結菜は五十嵐の温かい胸に、コツンと額を当てて、フルフルと横に振った。
「でも、吉沢さんが広めたのかもわからないし……広めたのが吉沢さんだったとしたら彼に話した私が悪いです」
「ふっ。意外と頑固だね。吉沢かどうかなんて……どっちでもいいよ。君にそれを聞いた事が許せないんだから。直接俺に聞けばいい事だろ? あいつ、俺にやたらつっかかってくるくせに、こんな時だけ来ないんだからなぁ。面倒くせぇ奴。」
五十嵐はため息混じりに低い声で吐き捨てるように言った。心底忌々しく感じているのが触れ合う体から伝わってくる。ほんの少し力が加わった、その腕から。
「ちなみに昨日七海さんのメールにあった『ラブシーンを目撃した女の子』っていうのが、吉沢の彼女。さっき七海さんと話してたら、彼女にその子からメールが入ったようだよ。昨日のキスは俺が無理矢理したらしいって。大方吉沢とランチでもして、その話で盛り上がったんだろうね。そうやって、知り得た情報を故意に広めてるのは奴なんだから、君は何も悪くないよ。」
昨日のあれを見てたのが、ペラ男の彼女……
「……わかりました」
やっぱり自分の迂闊な発言が五十嵐を貶めたのだと、はっきりわかった。
あのペラ男に――信用できないあの男に、話してしまった自分がバカだったのだ。
凭れていた温かい胸に別れを告げ、五十嵐の目を強く見据えて結菜は言った。
「先輩、一発殴ってもらえませんか」
そうでもしなければ結菜の気が治まらない。五十嵐は優しいから殴ってはくれないかもしれないが、その時は自分で自分を殴ろう。自己満足でもなんでもいい。とにかくけじめをつけたいのだ。
目をギュッと瞑って顎を上げ、歯を食いしばって衝撃を待つ。
「酷いな。俺に女の子を殴れって言うの?」
呆れたような声にも、結菜の決心は変わらない。
「ごめんなさい。先輩が嫌なら自分でやります。責任を取らせてください。こんな方法しか思いつかなくてすみません」
「いや、謝られても……ホントに頑固だね。わかった。そんなに言うなら責任を取らせてあげてもいいけど、後悔しても知らないよ」
と、言いながら、五十嵐はコクンと頷いた結菜の顎に手を添える。
たとえ顔の大きさが倍になったって後悔なんてしやしない。結菜は心の中で固く誓い、五十嵐の手に導かれるまま顔を少し上に向ける。すると、それを追うように彼のもう一方の手が彼女の左頬を優しく包み込んだ。
指を伝って結菜に流れ入る五十嵐の体温はやけに熱く、一発入魂されてもいないのに顎も頬も痺れるほどの火照りを感じた。
――顎も頬も?
片手は顎、もう一方の手は頬。彼の両手は、もうふさがっている。では、五十嵐はどこからパンチを繰り出すつもりなのだろう。
「先輩?」
思わず結菜が目を開けると、飛び込んできたのは近すぎる五十嵐の顔。少し傾けた彼の顔は、ドラマでよく見るキスの角度。このままいけば確実にお互いの唇が触れ合ってしまう。
「あわわ。せせせせ、先輩っっ!?」
触れ合う寸前、結菜の両手が五十嵐の顔を押し退けて、間一髪間に合った。何とか、さくら色に輝く己の唇のピンチを救うことができたのだった。
「先輩、な、な、何を?」
「何をって……キス?」
ケロリとして悪怯れもせず五十嵐は言う。
「キスって、キ、キスって……なんで!?」
「結菜ちゃんにどう思われても、俺には女の子は殴れないよ。それにキスって言ったって本当にしようとは思ってなかったからね。触れるか触れないかのギリギリのところで、結菜ちゃんが気付くのを待ってようと思ったんだ。驚かせてやるつもりでね」
……そうだった。最初から彼は『女の子は殴れない』と言っていた。その五十嵐に無理に『殴れ』と言ったのは自分だと思うと、されてもいないキスにガタガタ騒ぎ立てるのが子供っぽいわがままに思えてくる。
五十嵐への償いなのだから、彼が彼なりの方法を選んだのなら、それに従うのが筋ってものだろう。
「君があまりに頑固で困らされたもんだから、ちょっと灸を据えてやろうと思ったんだ。邪な気持ちなんかじゃなかったって、信じてもらえないかな?」
腕を組んで結菜にやんわりと語り掛ける五十嵐は、余裕を感じさせる表情で頭ひとつ分上から彼女を見下ろしている。
その姿からは邪な感じなど見受けられず、五十嵐の言う『邪な気持ち』が彼のどんな気持ちを指しているのか結菜にはわからなかったが、目の前の悠然とした彼にその言葉は似合わないと思った。
天然たらしな五十嵐だから、こんなお灸の据え方は“らしい”と言えば彼らしい。多分ホントに結菜のしつこさに参ってしまっただけなのだろう。
「……先輩、すみません」
「今の……俺が言ったこと、信じるの?」
結菜はしゅんとして小さく頷いた。
「はい、信じます。自分が罪の意識から逃れたいために、先輩に無理を言ってしまってすみませんでした。他人の嫌がる事は無理強いしてはいけないと、身を以て体験できました」
「ああ……そうだよね。嫌な事してごめんね」
「ああっ! ごめんなさい。違うんです」
嫌味を言われていると思ったのか、五十嵐はちょっとだけ不機嫌な口調になって、結菜を慌てさせた。結菜は慌てて足りない言葉を付け足す。
「先輩が私に教えるためにあんな事をしたんだって、分かってますから謝らないでください。先輩が私にムラムラしちゃったんじゃないかとか、私を好きなんじゃないかとか自惚れたりもしてません。これっぽっちも思ってないです。どうぞ安心してください」
「ふうん。これっぽっちも……ね」
五十嵐の機嫌は益々悪くなり、じっとりと結菜を睨めつける。
「そ、そんなに睨まないでくださいよ。疑うんですか? そりゃ、ちょっとはドキドキしましたけど……それはビックリしたからで、先輩の思わせ振りにはもうすっかり慣れちゃいましたもん!」
五十嵐の皮肉っぽい口調に、結菜はついムキになってしまう。
「だって先輩は『天然たらし王』なんだから、いちいち気にしてたら身が保たないですから……あっ!」
昨日腹立ち紛れに付けたあだ名を本人にばらしてどうする。
結菜は青くなって失言ばかりの自分の口を慌てて押さえてみたものの、一旦飛び出してしまった言葉は戻ってくるはずもなく……
「俺が……何? あんまりいい意味に聞こえなかったけど?」
当然五十嵐の耳に届いて、彼は不機嫌極まりない……というような声でそう言った。
五十嵐の『天然たらし王』伝説。
それを語るには、自分が彼の『たらし』術に散々振り回されてきた経緯も語らねばなるまい。ということは、昨日自分がまんまと術にはまって、うっかり自惚れた事実も芋づる式にバラさなければならないだろう。
たった今、得意気に『自惚れたりしてません』と豪語した口で、『でも昨日は自惚れちゃったの。てへ』などと言えるわけがない。
しかし適当に誤魔化そうにも、五十嵐のまとわりつくような視線に邪魔されて集中できない。彼の目に、全て見抜かれてるような気がしてならないのだ。
何の妙案も浮かばず、時間ばかりが過ぎていく静けさの中で、空調の音が低く辺りに響き渡る。
「……から」
「えっ?」
五十嵐の独り言のような小さな呟きは、空調の音に消されてしまって結菜の耳には微かにしか届かなかった。しかし結菜は確信した。困り果てた自分を哀れに思って、優しい彼は追及を諦めてくれたのだと。
「何ですか?」
一瞬にして心が晴れて、ウキウキと聞き返す。きっと彼は『もういいから』と言ってくれるはず。
「……嘘だから」
「へ?」
「途中でキスを止めようと思ってたって言ったのは嘘だよ。本当は、する気満々だったよ」
ニコリともせず、五十嵐の目が挑戦的に光る。
「これっぽっちも思わなかったのなら、今度ははっきり教えてあげる……」
『する気満々』と聞いて、思わず一歩下がった結菜の腕を取り、五十嵐が思い切り彼女を引き寄せた。
今日は室内。当然、暴走車の介入はない。気にするような人目もない。だからだろうか……力強い腕が、息もできないくらい結菜を締め付ける。苦しいのは締め付けられているからか、それともかつて見たこともない五十嵐の剣幕に驚いたからか。
一度目の抱擁は訳もわからず、ドタバタのうちに終わった。
二度目の抱擁は温かく、居心地が良かった。
そして、いま、三度目がおとずれた。すっぽりと結菜を覆ってしまう厚い胸。頭の天辺には五十嵐の熱い唇……そこから漏れる、唇以上に熱い吐息。
「結菜ちゃん……」
苦しげに囁く声が熱を帯びた風に煽られ、甘く艶めいて結菜の耳をくすぐる。
ふと、この先を聞いたら元には戻れないかもしれない、そんな不安が結菜の頭をよぎった。しかし耳を塞ごうにも五十嵐の見た目よりもがっしりした腕の中では、結菜の手は思うように動かない。
されるがままの状況で、不意に五十嵐の唇がするすると滑り降りてきた。
頭の曲線に沿って、彼女の柔らかな髪をなぞるように耳元までくると、大きくゆっくり息を吸ってそれを吐き出した。
「好きだよ……」
……好き?
予感は当たっていた。
もう元には戻れない。
彼の想いを受け入れるか、拒絶するか。
目の前に現れた二股に分かれた道は、多分どちらを選んでも彼を失う、見せかけの分かれ道。
それ故に、結菜はどちらも選びたくない……いや、選べない。臆病な結菜が顔を出して、立ちすくむ。
たったひとつだけ。結菜が望んだのは、たったひとつだけ。五十嵐が結菜に笑いかけてくれる……
たったそれだけの未来だったのに……
読んでくださって、ありがとうございました。
色々言い訳をしたい気分ですが、活動報告に記述した通り、スマホデビューに四苦八苦で、それもままならない状態です。すみません…
ではまた! なるべく早めに…