ため息の意味
もう、言い訳のしようもございませぬ。
またまたまた話がのびてしまい、今回も二話に分けます。
なので、予告した噂の真相には行き着けませんでした。すみません。
そして、更新が遅くてすみません。
「遅いっ!」
お弁当を抱えて応接室の扉をくぐると、七海のイラついた声に出迎えられた。
十二時をたった三分過ぎただけなのに、かなりお冠な様子だ。ひとりぼっちで待つには、三分は長過ぎる時間なのだろうか。結菜は首をひねる。
いつもランチを共にする他のメンバーは、昨日のうちに外食の相談をしていた。だから、今日は七海と二人きりのランチタイム。このままだと、ちょっと気まずい。
「すみません、課長に用事を頼まれちゃって」
取り敢えず課長のせいにして謝ってしまおう。
しかし、結菜の姑息な作戦は、七海には通用しなかったようだ。
「結〜菜ちゃん。田中課長があんたに電話を頼んだのは、もっとずっと早い時間。誤魔化そうったって、そうはいかないんだから」
頼まれた用事が電話だって事まで知られている。一体どこで聞いていたのか。
不気味に笑って、自分が座っている三人掛けソファーの右側を、ポンポンと叩く。どうやら並んで座れと言っているようだ。
うそ臭い笑顔と胡散臭いチャン付け。はっきり言って、「遅い」と怒鳴られるより怖い。
白旗を掲げて、結菜が素直に七海の横に腰を下ろせば、七海は「よろしい」と満足そうに頷く。
「で? 実のところどうなってるのよ。気になって仕事どころじゃなかったんだから」
「仕事をしてください。その質問て、もしかして……」
七海はニヤリと人の悪い笑みを浮かべて、「う・わ・さ」と言った。
――やっぱり。
予想通りの答えにため息が出る。今日は朝からそればかりだ。
「キスしてたってホント?」と、確かめられること数回。
「なんか噂されてるよ」と、報告されること数回。
結菜をチラチラ見ながら、遠巻きにこそこそ「ほら、あの子」と、指を指されることなどは数えきれないほどだった。
まともに取り合ったら自分が窮地に立たされるのは、今朝の吉沢の件で立証済みだ。あの時偶然にも田中が呼んでくれなかったら、結菜はパニックを起こして暴れていたかもしれない。
だからその度に、逃げたり誤魔化したり曖昧にお茶を濁したり、噂に群がる探究者たちの包囲網をやっとの思いで掻い潜ってきたのだ。
安息の地と思い定めていた昼食の場で、よもや1対1の追及を受けようとは思ってもみなかった。
唯一楽しみにしていたお弁当の時間なのに、この仕打ちとは……
朝食を食べ損ねたお腹が、切ないほどに空腹を訴えている。
七海を見る目がつい恨みがましくなってしまう。今日は大好きなオムライスだと、お弁当を持たせてくれた母親が言っていたのに。
しかし、取り調べが終わるまで、七海からの解放はあり得ない。
結菜は、いつ終わるとも知れない取り調べにげんなりとし、ならばいっそ先手を打って自白してしまおうと覚悟を決めた。
「あのですね。五十嵐先輩、昨日はなんかちょっとおかしかったんですよね。上の空というか、ボーッとしてたというか……心ここにあらずって感じだったんですよ。そうかと思えば急に落ち着かなくなったり。とにかく変だったんです。そしたら突然手を掴んで「美味しそうだね」ってパクっと。多分、味見がしたかったんでしょうね。軽い気持ちだったんですよ、きっと」
思い出すと、また恥ずかしさが込み上げてくる。
こんなに何度も思い返していたら、記憶が強化されて、永遠に忘れられなくなりそうだ。
カタン。何かが床に落ちる音がした。
「せ、先輩! お弁当が! 大事なお弁当が!」
七海を見ると、七海は、目をまん丸に見開いて、穴が開きそうなくらい結菜の唇を凝視していた。手からはお弁当が、まるっと床に滑り落ちていた。
「……パクっと?」
「そうですよ。パクっといっちゃったんです」
七海のお弁当を拾って、手渡しながら結菜は答えた。
「先輩、無事でしたよ、お弁当! ふた、しっかり閉まっていて良かったですね」
「う、うん……そんな事より! で、どうなったのよ!?」
「え? それだけですよ。相当美味しそうに見えたんでしょうね。欲しいなら頼めばいいのに」
「頼めばいいのかい!? ちょっと待って、結菜。それってホントのことだったの? 道端で抱き合って……」
「抱き合って、って言われると恥ずかしいんですけど……あの時、車がすごい勢いで通り過ぎたんです。五十嵐先輩が抱き寄せて助けてくれなかったら、私、轢かれてたかもしれません」
「……マジ?」
結菜はコクコク頷いた。
「いや、びっくり。なんと言っていいやら。私はてっきり『やだ〜、先輩。見間違いですよ〜!』的な事を言われると思っていたから、ホントびっくりした。あいつめ。そんな飢えた野獣みたいな事を……。でも、あんた大丈夫なの? なんか五十嵐君の不意打ちみたいだし、ショックじゃなかったの? その割りにはケロッとして……」
「そう! ショックなんてもんじゃなかったですよ! でも、五十嵐先輩は無意識の行動だったみたいで、全っ然、気にしてないんですよ! 悔しいから平気な振りしてるんです。だって私ばっかり意識してるなんてバカみたいじゃないですか。向こうは私を女として見てないのに」
七海は天を仰いで大袈裟にため息を吐いた。
「いやいや。さすがにソレはないよ。五十嵐君に限って、女だと思っていない子にそんな事するわけない」
「……でも、よくあることですよね。私はあまりそういうのは馴染めないけど、友達は平気でしてましたよ。多分、五十嵐先輩も、そういうの平気な人なんじゃないんですか」
「まったく最近の若い子は……」
七海は苦々しい顔で結菜を見る。結菜は慌てて自分は違うと手を横に振った。
「そういうのはね、好きな人とするのがいいの。好きな人と想いを確かめ合うためにやりなさい」
ふうん、七海も意外と奥手だったんだ、と結菜は彼女に対する評価を改めた。
たかが間接キスじゃないかと笑われると思ったのに、それどころか好きな人とやりなさいって。さすがの結菜も、そこまで言い切ったりは出来ない。想い合った二人なら、もっと進んだ、もっと過激な愛情表現があるだろうから。
「今回の件は、五十嵐君の先走りが原因みたいだから肩を持つ気はないけど、彼だって誰彼構わずそんな事ができる人じゃないってことは断言できるよ。あんたは気付いてないだろうけど、彼は興味ない人間には壁を作って、一歩たりとも中に入れないんだから。近寄ろうもんなら容赦なく切り捨てられるよ」
そんな五十嵐を結菜は知らなかった。優しい五十嵐しか……知らない。
さっきから五十嵐を熱く語る七海には、そんな彼が見えてるのだろうか。表面に現れない彼の内面をよく理解している。
肩を持つ気はないと言いながらも、五十嵐が悪く思われないよう、庇っているようにも感じられる。
もしかして、七海先輩……
「もう付き合っちゃえば? 端から見てると、二人、イイ感じだよ」
「へ?」
あれれ? と、結菜は首をひねる。結菜の想像が正しければ、それを現実にしたら七海は困るはずだ。
大体、そんな提案、結菜だって困る。
「いいんですか? 先輩、ホントにそれでいいの!? 勝手に色々想像して諦めちゃダメですよ!」
「な、何がよ」
身を乗り出して迫る結菜に、七海もたじたじだ。
「だって先輩、五十嵐先輩のこと……好き……なんじゃ?」
「はあっ!? 誰が、誰を、好きだって?」
今度は七海が結菜の方に身を乗り出し、結菜はソファーの隅に追いやられる。
「え、えーと。七海先輩が……五十嵐先輩を?」
「ち、が、い、ま、すっ! 変な誤解しないでよ! 私、五十嵐君みたいな人はタイプじゃないの。私、他に好きな人いるもん」
その話は初耳だった。七海のお眼鏡にかなったのは、一体どこの誰なのか。たちまち結菜は七海の『好きな人』で頭がいっぱいになった。
「誰? 二課の人? ……は違うか。みんな七海先輩を恐がって、あまり近寄ろうとしないもんね。じゃ、防シスの勅使河原さん? 消火の山本さん……あっ! 人事の黒河さんかも」
七海の好みそうな社内のイケメン達を思い浮かべ、ふぅとため息を吐く。
「みんな先輩よりずっと若い……痛っ!」
頭に衝撃を受けて、目から無数の星が飛び出した。
「無礼な想像は頭の中でやんなさい。私の事はどうでもいいの。今はあんたと五十嵐君の話でしょ。いつまでも噂の的でいたいの?」
――ううっ。それは遠慮したい。
惜しい気持ちはあるけれど、ぶんぶん頭を振って、余計な情報を欠片も残さず追い出した。
「要はあんたと彼がどういう関係かわからないから、みんな詮索したがるんでしょ。付き合ってるってなれば、道端で抱き合おうがキスしようが、バカらしくてそんな気起こさないって。『バカップル』って思われるだけで。あんた、そういう気持ちはないの? 五十嵐君と付き合いたいって」
うーんと唸って彼と付き合っている自分というものを想像してみるが、へのへのもへじの顔をした結菜らしき女の子がへのへのもへじの顔をした五十嵐らしい男性と、手をつないで波打ち際であははうふふとはしゃいでいる、何とも貧相なデート風景しか思い浮かばず、早々にギブアップしてしまった。
「付き合うっていう行為が想像できないです。私はこの歳まで、男性とお付き合いをした経験もなければ、恋をした経験もないんですもん」
結菜は密かにそんな自分を恥じていた。歳を重ねる毎に、恋人のいる友人が増えていく。皆が当たり前のように恋愛をしていく中で、自分だけが切なくも幸せな恋心を知らないのだ。
五十嵐のような憧れの先輩にドキドキしたり、人気のある同級生にちょっぴり胸をはずませたりした事なら、片手で足りるくらいだけど何度かある。告白されてその気になりかけたこともある。しかし、それらが恋にまで発展した事は一度もなかった。
自分は恋愛感情欠落人間ではないかと、切ないほど苦しんだのだ。
だから万が一、五十嵐が「付き合おう」と言っても、積極的に「はい」とは言えない自分がいる。恋人同士という関係に憧れる気持ちは大いにある。けれど、付き合ってはみたものの結局恋にはなりませんでした、ごめんなさい……と終わりを迎えるのが怖いのだ。
あんなに結菜をドキドキさせてくれる五十嵐とでさえ恋愛感情が持てないだなんて、この先の人生が甘さ控えめのビターな毎日だと決定付けられるようで怖い。
憧れの先輩と気まずくなって、彼を失ってしまうのも怖い。
始まってもいないのに終わることを考えている自分は、なんて臆病者なんだろうと、自分で自分が嫌になる。
「恋愛……した事なかったんだ」
七海のおずおずとした声に、結菜はコクンと頷いた。
「そう……」
そう言ったまま七海は黙り込んでしまった。何かを思い詰めているようで、その表情は暗い。
「先輩? どうしたんですか?」
「うん……ごめん、結菜」
いきなり真面目に謝られて、結菜はびっくり仰天驚いた。
「今回のこと、恋愛未経験じゃ、事実を受け止めるだけで精一杯だったよね。私、面白がっちゃって……ごめんね」
そうだ。ただ受け止めるだけでホントにいっぱいいっぱいだったのだ。抱き寄せられたのも間接キスも、結菜にとっては初めての経験で、できれば胸に鍵をかけて、そっとしまっておきたかった。
そんな彼女の気持ちをわかってくれる、七海の優しさが嬉しい。感動に胸が震え、目頭が熱くなる。
「や、止めてくださいよ。確かに面白がってた部分もあるのかもしれないけど、根っこの部分では心配してくれてるってわかってます。それが先輩の優しさなんだって」
「ホント?」
頭が千切れそうなくらいに首を縦に振ると、七海はやっと安心したように笑顔をみせた。
「まあ、そうだよね。二十歳過ぎまで恋愛のひとつもしてないなんて、普通考えられないもんね。天然記念物だわ。ったく、大学で何を学んできたのやら」
……感動を返せ。
「もういいです」
七海のあまりの変わり身の早さに、結菜は唇を尖らせた。
「こんな話、意味ないですよ。五十嵐先輩の気持ちを無視して、付き合うの付き合わないのって、おかしいです。私は天然記念物ですしね」
「ははっ、ごめんって。実はさ……今の五十嵐君を見てるの、辛いんだよね。結菜なら彼のお気に入りだし、助けてあげられるんじゃないかと思って」
嫌われてはいないと思うけど、お気に入りは言い過ぎだろう。
しかも『助けてあげられる』なんて、買いかぶりもいいところだ。逆にいつも助けられてばかりいるというのに。
結菜が『無理ですよ』と言うより早く、七海は先を続けた。普段『お局様』と呼ばれ、二課の面々を震え上がらせている彼女を微塵も感じさせない、弱々しい声だった。
「五十嵐君が二課に配属された時、一緒に配属された同期の女の子がいたんだ……」
「あ。昨日、聞きました。営業としてお客様と信頼関係を築けないまま、失意の内に辞めていった同期がいるって。」
「そっか。それで? 他は何か聞いた?」
結菜は記憶を辿って五十嵐との会話を思い出してみたが、彼女が話に登場したのはそれだけだった。
「その人については他は何も。五十嵐先輩、なかなか営業に出してもらえない私を励ましてくれたんです」
「やっぱりあんたは特別待遇だ」
その時ばかりは七海も、茶化すように笑って表情を和ませた。しかしそれは一瞬の事で、すぐに表情を引き締めた。
「その子……愛美ちゃんていうんだけど、五十嵐君と付き合ってたんだって。詳しいことは私の口からは言えないけど、彼女が退職する時、私、何もしてあげられなくてずっと罪悪感を引き摺ってたんだ。だから、別れたらしいって聞いた時は、五十嵐君の目を見る事が出来なかった。おこがましいようだけど、あの時彼女ともっと話をしていれば、もしかしたら退職を思い直してくれていたかも、ってずっと後悔してたから」
昨日、急騰室で五十嵐が語ってくれた『同期』とは『彼女』だった人なのか。
興味がむくむく沸いてくるけど、気軽に聞けない雰囲気だ。
「五十嵐君は私があの時の事をこんな風に気にしてるとは思ってもいないだろうけど、彼女が会社を辞めなければ五十嵐君もああは変わらなかったんじゃないかと思うと、責任を感じちゃって。」
「五十嵐先輩、どこがどう変わったんですか?」
「そうね。他人と関わらなくなったかな。あの子が辞めてから無口になって、社内の人と接触を断つようになった。彼が社内の誰かと飲みに行く姿、あんた見た事ある?」
「昨日……」
「それ以外でっ!」
七海の剣幕に恐れを為して、今度は真面目に考える。そういえば、彼が誰かと連れ立ってどこかへ繰り出す姿は見た事がない。
「……ないですね」
「でしょ?」
七海は満足そうに頷いた。
「でもね、それでも今はまだマシになった方なんだよ。配属された当初は明るくてやる気に満ちていた彼が、あの件以来、無表情で排他的になってしまったの。それが、今また少しずつ昔に戻ってきたみたい。そんな彼を、結菜は知らないでしょ?」
七海がちょっと得意気に見えて、結菜は面白くない。やっぱり先輩、五十嵐先輩のことが好きなんじゃ……と、また同じ想像を繰り返してしまう。
結菜が黙ってぷうっと膨れていると、七海は、さもおかしそうに吹き出した。
「あんた、やっぱり五十嵐君の事、好きなんじゃないの?」
それはこっちのセリフだ。
「別に私に張り合わなくてもいいでしょ。私が言いたかったのは、こう。『結菜は知らなくて当たり前。彼が昔のように笑顔を見せるようになったのは、あんたが配属されてからだからね』ってね。さっきも言ったように、あんたは彼の特別待遇なの。あんたが彼にいい影響を与えているんだよ。ね? 昔の五十嵐君を取り戻してあげて?」
拝まれても困る。五十嵐は元に戻りたければ戻るだろうし、戻りたくなければそのままだろう。
百歩譲って結菜にその力があるとしよう。しかし、それを発揮させるような真似はしたくない。五十嵐は五十嵐のいたいままでいいのだ。結菜が意識的に手を加えたら、それは五十嵐ではなくなってしまう。
それを七海に伝えると、「やっぱり五十嵐君が好きなんじゃない」と、ため息を吐いた。
五十嵐に対して一生懸命な姿を見せ付けられて、結菜もまた、やっぱり七海は五十嵐が好きなんだ、とため息を吐く。
吐いてからハッとして、ため息の意味を考えてみたけれど、七海の物憂げな表情がチラチラと邪魔をして、はっきりとした形を成さないまま、やがて煙のように消えてしまった。
読んでくださってありがとうございました!
さすがに次は二分割はないと思います…多分。
では、また。