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うわさ

あまりに遅すぎる更新で、前話までをすっかり忘れてしまったでしょうか…

申し訳ありません。


一話が長くなってしまったので(またか!)前半分をお届けします。


結菜は焦っていた。


この冬一番の寒さだというのに、額に汗を滲ませて、込み合うエレベーターの隅に息を切らして立っていた。


上昇するエレベーターは、そんな彼女を嘲笑うかのように各階に止まり、のんびりと人々を吐き出す。


彼女の目指す四階に着いた時には、残っているのは結菜ひとりとなっていた。


腕時計は8時57分を指している。なんとか遅刻は免れそうだ。


開きかけたドアから滑るように出ると、結菜は急いで彼女の在籍する営業本部へと向かった。


営業本部はエレベーターホールのすぐ前。走らなくても間に合う距離にある。しかし二課に入る直前で結菜の足は、ピタリと止まってしまった。


今朝は朝礼なんてなかったはず。なのに今日に限って直行がひとりもいない。


全員集合した課内は、結菜の席だけがポッカリ空いて、やけに目につく。おかげで結菜は入り辛くて仕方がない。


こんな日に――いや、どんな日でも、寝坊した自分が悪い。新入社員の分際で、課の誰よりも遅く出社した事実に言い訳なんてできやしない。


でも……と、つい思ってしまう。普段は遅刻どころか、30分前には出社して始業に備えているのに、なんて間の悪い……と。


寝坊の理由は自分でもわかっていた。昨晩は五十嵐と色々あったせいで、なかなか寝付けなかったのだ。


飲んで帰った次の日に遅刻をするなど、社会人のマナーに反する。それくらいの常識は結菜にもあるから、帰宅は遅くなったが、床に潜り込んだのはむしろいつもより早かったはずだ。しかし横になって目を瞑っても、一向に眠りは訪れなかった……


今更どうにもならない過去を振り返っても、何も始まらない。とにかく今はポッカリ空いて悪目立ちしている自分の席に、一刻も早く座らなければ。


結菜の不在が田中に知れたら、どんな仕打ちが待っているか。想像するに難くない。


扉の影から田中の様子を窺ってみれば、なんと奴は下を向いて本を開いているではないか。


チャンスは今しかない。


結菜は何食わぬ顔でささっと席に座り、脱いだコートをさり気なくイスの背もたれに掛け、昨日の続きの見積書を机に広げた。


イスが彼女の存在を知らしめるようにギシッと鳴る。普段なら気にならないほどの小さな音が、ドキッとするくらい大きく響く。


さすがに田中も気付いたかと、様子が気になってチラッと見ると、未だ下を向いていて全く気付いた様子はない。取り敢えず当座の危機は回避できたようだ。


周りの先輩社員たちの視線は痛いけれど、今日のところは勘弁してもらおう。かわいい失敗と大らかな気持ちで受け止めてほしい。


図々しくも開き直り、気持ちを切り替え、目の前の仕事に集中する。ただひたすら感知器の数を拾い出すことに専念したのだった。





汚名返上をスローガンに、働く意欲に燃えていた結菜だが、職場の空気に違和感を感じて、集中力はすぐに途切れてしまった。


何かがいつもと違う。


先輩社員たちの様子が、どうもおかしいのだ。どういう訳かみんなの視線が自分に集まっているような気がしてならない。


何やら視線を感じて結菜が顔を上げると、必ず誰かしらと目が合う。そして皆、例外なく意味ありげにニヤリと笑うのだ。正直言って感じ悪い。


それが一度くらいなら気のせいだと自分を納得させられるけど、優に片手を越えた今、最早気のせいとは言えまい。


ギリギリに出社したのが気に入らないのだろうか。それならそれではっきり言ってくれて構わない。


先輩社員たちのはっきりしない態度が、結菜にはもどかしい。


課の長たる田中は言い過ぎでその部下たちは言わな過ぎ。足して2で割ればちょうどいいのに。


すると、隣の席の吉沢が「武藤さん」と、小声で話し掛けてきた。


「武藤さん。昨日の帰り、五十嵐さんと一緒だった?」


吉沢は途中採用で入った、結菜より三つ上の先輩だ。いつもどうでもいい話で仕事を邪魔してくるので、彼女はまたかとげんなりした。


「はいはい。一緒でしたけど〜? 何か〜?」


目も合わせずに、右から左へ聞き流す。どうせまた、どうでもいい話に決まってる。


しかし。


――待てよ? 昨日?


聞き捨てならないその言葉は、結菜の脳裏に七海のメールを蘇らせた。



『何やらお二人のラブシーンを見たという女子社員が慌てて戻って来たんだけど、どういう事かな? 噂になってるぞ』



ラブシーンではない。助けてもらっただけだ。たとえ噂になったとしても、結菜は真実で対抗するつもりだ。


もしや吉沢は、七海の言うこの『噂』を聞いて探りを入れて来てるのではないか?


ならば今ここで、きっぱりはっきりバッサリと、吉沢が想像してるような破廉恥行為ではないと説明しなくてはなるまい。


そう結菜が決断するよりも早く、吉沢が更に声を落として耳元で囁く。息が掛かって気持ち悪い。


「キス、してたってホント?」


キス?


路上では、抱き寄せられたけどキスなんてしてない。


だけど、心当たりはひとつある。


昨夜の間接キス……


「いや、あれは、そのぉ」


そっちについてはノーマークだった。いや、頭の中には、ずっとこびりついていた。眠れないほどに。


でも、それを知ってる人がいて、しかも話を振られるなんて夢にも思わなかったから、誤魔化す言葉も浮かんでこない。


言い淀む結菜に、吉沢の目はキランと光った。


「えっ!? ホントにしてたの? まゆつばモンの噂かと思ってたのに。へぇ」


そう言って結菜を見る吉沢の表情は、感心しているようでもあり、面白がっているようでもあり、彼女を余計に慌てさせた。


「ち、違うんですよ。だって気が付いたら五十嵐先輩が手を掴んで勝手に口に……」


『運ぶから間接キスみたいになっちゃったんです』と状況を説明しようとしたが、途中で吉沢に言葉を奪われる。


「勝手に!? 無理矢理かよ!? ひでえ」


まあ、無理矢理と言えばそうなのかもしれない。結菜は許可した覚えはない。


でも、自分の口から飛び出た言葉で五十嵐の名誉が傷つけられるなんて我慢できない。


「はあ。無理矢理というか……天然なんでしょうね。あんまり気にしない人なんじゃないですか?」


ペットボトルの回し飲みとか、味見で『あーん』とか、間接キスなど平気な人はいくらでもいる。結菜は五十嵐もその部類に属するのだと強調した。


「吉沢さん、変な噂流さないでくださいよ。そんなの、みんなやってることでしょ?」


心臓はバクバクしていたが、なんでもない風を装っておしゃべりな吉沢に釘を刺す。


「へえ。意外だな。武藤さんの口からそんな言葉がでるなんて。でも、残念。もうかなり広がってるよ、噂」


「うそーっ!!」


ひょっとして、先輩社員たちの思わせ振りなあの態度は、新人のくせに遅刻しそうだった結菜を責めていたのではなく、噂を聞き付けて面白がっていたのだろうか?


自分にとっては重要な出来事だけど、他人にとってはたかが同じフォークを使ったってだけのつまらない話ではないか。何がそんなに面白い!?


何はともあれ、五十嵐にこの情報を伝えなければ。しかし、生憎席を外しているようで姿が見当たらない。


五十嵐の姿を求め、辺りをキョロキョロ見渡すと、二課全体が耳ダンボになって吉沢と結菜の話に聞き耳を立てているではないか。何しろみんな手が止まっているのだ、バレバレだ。


――ううっ。みんな仕事しろっ!


彼らの退屈しのぎになるのはまっぴらごめんだ。迂闊な事はここでは言えない。横からごちゃごちゃ探りを入れてくる、うるさい吉沢から逃れるいい手はないものか。


「武藤」


実にいいタイミングで救いの手が差し伸べられたと、一瞬喜び元気よく立ち上がったが、愛想のまったく無いこの声の持ち主に思い当たってガックリ肩を落とした。とんだぬか喜びだ。


しかしダンボ達には効果は抜群、たちまち二課の空気は仕事モード一色に塗り替えられた。


いそいそと仕事を始める先輩社員たちを横目に、呼び付けられた結菜の足取りは重い。


課長もあの噂を耳にしてるのだろうか。何か言われるだろうか。『会社に騒ぎを持ち込むな』と、怒られるだろうか。


びくびくして田中に近寄り「なんでしょうか」と、か細い声で尋ねる。


「大島建設の宮下さんに連絡してくれ」


小さなメモを渡され、見ると、感知器の仕様変更を伝える内容が書き込まれていた。


「はい」と答える結菜に、ようやく安堵の笑みが浮かんだ。


どうやらお説教ではないらしい。しかもたった一人のお客様、宮下への連絡。結菜が間に入ることを渋っていた課長も、自分から結菜を使う気になったようだ。


だったら期待には応えなくてはなるまい。お気に入りのカエルちゃんのペンを握り締め、一言一句漏らさぬよう、気合いを込めて田中を見つめた。


「喫煙ルームに煙(感知器)つけるバカがいるか。そう伝えておけ」


――それは無理。


「念の為メモの型番、メールしとけよ」


型番、メールする事! 渡された小さなメモ用紙に書き込む。もちろん『バカ』は無視。


「ビル名とフロアは宮下さんはご存知なんですか?」


「今、ファックスをもらったヤツだと言えば分かる。永倉ビルの八階だ」


「永倉ビルの八階ですね」


再びペンを走らせて、情報を書き留める。


「では、連絡しておきます」


メールを送ってから電話を入れて……と、段取りを考えつつ席に戻ろうとした結菜を、田中は「武藤」と呼び止める。


「はい?」


わざわざ立ち止まって振り返ったのに、田中はジッと見つめるばかりで口を開かない。


「課長?」


結菜は不審に思って田中に近づき、掌をはたはたさせて視線を遮った。ボーッとする課長なんて、らしくない。


するといきなり、にゅっと手が伸びてきて、彼の右手が前髪に触れた。


「消えたのか」


微かに笑みを浮かべるその顔は、どこか残念そうだ。

具合でも悪いのかと、ちょっとは心配したのに、ハンコが消えたのを残念がってただけか! なんという性悪。


そこまで人をコケにしたいのかと、ムカッ腹を立てるが、もちろん声には出せやしない。悪魔の出現は懲り懲りだ。


内心ムカムカしながら、黙ってされるがままにしていると、満足したのか飽きたのか、田中はそっと前髪から手を外した。


「先方が待ってるから早くしろ」


誰が引き止めたんじゃ! と、結菜が唇を尖らすと、田中は素知らぬ顔で彼女にもうひと太刀浴びせかけた。


「それと、今朝は三十秒の遅刻だからな。今は時間が無いから見逃すが、いずれ倍にして返してもらうぞ。覚悟しとけよ」


本人でさえ気付いてなかった三十秒の遅刻を、下を向いて本に集中していたはずの課長が気付いていたのにはビックリだ。侮れない。


しかし、それより何より、もっと気になる事がある。


「倍返し!?」


一体何をさせられるのかと、結菜は不安になってくる。そんな事なら、いっそ今この場でお説教をくらった方がまだましだ。


「さて。何をしてもらうかな」


楽しそうに結菜を眺める田中の後ろに、舌なめずりしている悪魔が見える。もう逃れられないんだ。ちっぽけな自分など、たちまち頭からむしゃむしゃと食べられてしまうんだ。


次々と浮かぶ暗い妄想に引き摺られ、結菜の目にうっすらと涙が光る。


「バカか」


お約束のセリフに潤んだ目で田中を睨むと、クックッと笑っているではないか。


「……冗談だ。気にするな」


だったら笑えない冗談言うな。すかさず心の中で突っ込むが、彼の悪魔な所業に彼自身がこうやってフォローを入れるのは初めての事で、結菜は驚きのあまり、おかしくもないのに笑い出しそうになってしまった。


「席に着いたのは三十秒の遅刻だったが、入口でしばらくうろうろしてただろ。ま、ギリギリセーフにしておいてやるか。今回は大目に見るけど、次はそうはいかないからな。明日からはまた、いつも通りに家を出ろよ」


「……はい」


頭からむしゃむしゃと食べられなくて良かったと喜ぶべきなのか、優しい言葉をかけているようで、実は結菜で遊んでいるだけじゃないかと怒るべきなのか。自分でもよく分からない。


でも取り敢えず明日は、いつもより更に10分早く家を出ようと心に誓う結菜だった。


後半部分もなるべく早く見直して、早めの投稿を心掛けます。すみません(涙)



最後まで読んでくださってありがとうございます。


では、また。

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