予想外の出来事
「つ、疲れた……」
結菜はよろよろとした足取りで席に着くと、書類の山で半分隠れた自分の机に上半身を突っ伏した。
頭の中では、たった今訪問してきた大島建設の宮下の笑顔が、キラキラと輝きを放っていた。
先輩でも上司でもない、歳上の男性。今はまだ、たったひとりの結菜の大事なお客様。
もちろんメインの担当は田中だ。しかし宮下は言ってくれた。「田中さんがいらっしゃらない時は、武藤さんが間に入って取り計らってくださいね」と。
最初、田中は「武藤は新人だから」と断っていた。しかし説得する宮下の、「田中さんが忙しいから連絡取れなくて困ってたんですよ」という一言が決定打となり渋々承諾した。ただし、宮下と組んでいる今の現場が片付くまで、の期間限定ではあるが。
結菜はムクリと起き上がってカバンを漁ると、新品の名刺入れを取り出した。
初めてのお給料で買った、赤い革の名刺入れ。配属時に貰った自分の名刺が、ぎゅうぎゅうに詰め込んである。
その中にたった一枚の、自分以外の名前。宮下康則と書いてある簡素な名刺を、大事そうにホルダーに移し替えた。
「結菜、お店予約しといたよ」
営業日報を書いていた結菜に、七海がそう告げた。
佐倉七海。営業本部経理課の先輩だ。高校を卒業して入社した彼女は、もう十年以上この会社に勤めていて、女性社員の中では古株に属している。
下っ端社員からは『お局』と呼ばれて恐れられている七海だったが、結菜のことはわりと可愛がってくれていたので、彼女は七海を姉のように慕っていた。
その七海が「お店を予約した」と言う。思い当たるのはアレしかない。今日の昼食時に盛り上がった、『結菜の営業デビューを祝う会をしよう』という話。
配属当初から結菜のグチを聞いて励まし続けてくれた他の女子社員と共に、とても喜んでくれたのだ。
まさかこんなに早く実現させてくれるなんて。
「え? 先輩、ホントですか? ホントに今日?」
「うん、ホントホント。お祝いしよう! 割り勘だけどね」
割り勘の言葉に、結菜はガクッと大袈裟にこけた。それでは普通の飲み会だ。気持ちだけでも嬉しいけれど、それはそれ。形に表してくれると尚嬉しいのだ。
「七海先輩、飲みたいだけなんじゃないですか? おごってくださいよー! お祝いでしょー?」
「何甘えた事言ってんの。祝う気持ちにケチを付けるな。ただで酒が飲みたいのなら自分でスポンサーを探しなさい」
「ちぇーっ……イタッ」
七海は、後輩の少々お行儀の悪い返答に頭を小付くと、彼女の手元を覗き込んだ。
「これ、日報?」
「そうなんです! ほら、見てくださいよ」
営業日報の今日の日付を開いて、得意満面に七海の目の前に差し出した。七海がそれを興味深そうに受け取り、声に出して読み上げる。
「なになに。大島建設、宮下康則様訪問。って、あんた大島建設に行ってきたの? 超大手じゃない。何か粗相しなかった?」
「失敬な! 何もしませんよ!」
「結菜ちゃん、大島建設に行ったの?」
ぷりぷりと怒る結菜の頭上から、いきなり五十嵐の声が降ってきた。
「五十嵐先輩!」
七海の手首を掴んで、五十嵐もまた結菜の日報を覗き込んでいる。
「あら、五十嵐君。図ったように丁度良く現れるのね。」
五十嵐は顔を上げて真っ直ぐな視線で、嫌味を言う七海に答える。
「ええ。自分も彼女が初めて営業に出たって噂を聞きましたからね。気になって、話に加わる機会を狙ってました」
あははと笑う七海をひとまず横に置いて、五十嵐は結菜に向き直った。
「結菜ちゃん、大島建設に行ったんだ」
「あ。はい。あの後、急に行く事になったんです」
「課長と?」
「はい」
会話を始める二人を、「ちょっと待て」と七海が遮った。
「そんなに気になるなら五十嵐君も来る? 六時に予約を入れたから、時間があんまりないんだよね。話し込まれたら主役が遅れちゃうよ。あっちで話そう?」
「予約って?」
首を傾げる五十嵐に、先輩方がお祝い会を開いてくれるのだと説明する。
「ああ。そうなんだ。行くよ。参加していい?」
このチャンスを逃す七海ではない。キラーンと目を光らせ、狙った獲物に食らい付く。
「参加してもいいけど、結菜の会費、少し持ってくれないかな? 女の子ばっかり4人で、予算が足りなくて困ってたんだ。田中課長でもご招待してカンパを頼もうと思ったんだけど、五十嵐君が出してくれるなら、手間が省けるんだけどなぁ」
割り勘だったはずなのに、いつ課長にカンパを頼むことになったんだ!? あんなのを呼んだら楽しめないじゃないか! と、結菜は七海の急な提案に目を剥いた。
「ちょっ、七海先輩! 割り勘で構わないですから」
慌てて七海のカーディガンの袖を引っ張り、彼女の暴走を食い止めようとしたが、五十嵐がふわりと笑い、それを制した。
「いいよ、結菜ちゃん」
七海の迫力に負けたのか、持ち前の気前の良さか、五十嵐が結菜の会費を全額負担してくれると言う。
七海はいつものニヤニヤ笑いで、「男だねぇ」と茶化した。
「じゃ、結菜と五十嵐君は先行ってて。うちらは着替えなきゃいけないから。しばらくの間、五十嵐君に結菜を任せるね。五十嵐君、出資分は楽しんで、ね。」
七海の意味深長な流し目に、彼は不敵に笑う。
「お気遣いありがとうございます。適いませんね、七海さんには。ゆっくりメイク直ししてくださって結構ですよ。自分が責任を持って結菜ちゃんのお相手を務めますから」
結菜は、会費を倍額取られる上に、自分のお守りまで押し付けられる五十嵐が気の毒になり、無駄だと知りつつも僅かな抵抗を試みた。
「先輩、自分の会費くらい出します! いくらなんでも五十嵐先輩に申し訳なさすぎます!」
「じゃ、後でね!」
案の定、七海は結菜の意見などちっとも取り合わず、軽く手を振りご機嫌で去って行った。
「七海先ぱ〜い……」
七海の姿が見えなくなっても見送り続ける結菜に、五十嵐は自分の腕時計を見せて急かした。終業の五時半はとうに回っている。
「結菜ちゃん、時間無いよ。早く日報を出して行かないと、遅刻するよ」
「でも……」
五十嵐は、尚も愚図る結菜から日報を奪い取ると、しかつめらしい顔をして言った。
「じゃあ、君に選択権をあげよう。今すぐに俺と出るか、七海さんが言ってたように課長にカンパを頼んで課長と行くか。さあ、選んで」
五十嵐に会費を払わせるのを申し訳ないと思っただけなのに、また課長か! 大体、何でその二択なんだと結菜は恨めしく思う。
「いいんですか? 先輩。会費……」
「そんな事気にしてたのか。俺はまたてっきり……」
「てっきり?」
「いや、何でもないよ。だったら早く行こう。大丈夫。嫌々払うわけじゃないからね」
五十嵐に力強く言われて、ようやく結菜は心が軽くなるのを感じた。
「これ、出しといてあげるから三分で帰る支度してね」
「あ、先輩! ありがとうございます!」
まだお礼を言っていなかったことに気付き、席に戻りかけた五十嵐に声を掛けると、彼はにっこり笑って「三分だよ!」と指を三本突き出した。
そしてきっかり三分後。「さ、行こう」とすっかり帰りの支度を整えた五十嵐が、遅々として支度の進まない結菜を迎えに来た。
時間に厳しい、できる営業マンの極意を見せ付けられた結菜だった。
「結菜ちゃん。今日、あの後課長と何話してたの?」
七海が予約したお店に行く道すがら、世間話の合間を縫って五十嵐が問い掛けてきた。
色んなことが有り過ぎて、ずーっと前の事のような気がしていたけど、あの悪魔のような田中に苛められたのは今日の午前中の事だった。
五十嵐が聞きたいのがどの話なのかわからなかったが、結菜が話したいのはこれしかない。
「酷いんですよ、課長ってば! 給湯室での一件がバレちゃったんですけど、物凄い勢いで怒って、ここに……見えますか?」
例の跡が見えるように前髪を手で除けると、白い額が顕になった。
五十嵐は目を細めてそれを見たが、額の白さが際立っている以外は、何も目につくものはない。
「何もないけど?」
「見えないですか? 良かった。苦労したんですよ。擦っても落ちないし、洗ってもまだ残ってるし、ごしごししたら赤くなってくるし。コンシーラーとファンデーションを塗りたくって、やっと目立たなくなったんです」
「それは大変だったね。でも……そうか。バレちゃったのか。二人だけの秘密だったのにね。ちょっと残念かな。で? おでこにされた酷い事って?」
よくぞ聞いてくれました!と、結菜は鼻息も荒く思いの丈を五十嵐にぶちまけた。
「ハンコですよ、ハンコ!ここに、ぺったりハンコを押されたんです! わたしのおでこは回覧かって。乙女の額にハンコなんて、イタズラが過ぎますよね!? 何が『大人の意地悪』よ。子供のイタズラとしか思えないですよ! そう思いませんか!?」
「……学生の時、俺もやったよ」
五十嵐が気まずそうに頭を掻いた。
「えっ?」
思慮深い五十嵐にそんなイタズラッ子な一面があったとは!
衝撃の告白に、結菜はびっくりしてバッグを落としそうになった。
「サークルの合宿で、先に寝ちゃった後輩のおでこに、『肉』って」
それじゃ、アニメのキャラクターだ。五十嵐のどこをどう見ても、彼と『肉』など繋がりようがない。
「子供だったんだよ、そんなイタズラで喜んでいるんだから。それにしても課長も案外子供っぽいんだね。結菜ちゃんも気にしない方がいいよ。イタズラに意味なんてないんだから」
五十嵐が田中を『子供っぽい』と評したことにはちょっぴり満足するが、まだまだ腹のムシは治まらない。
「でもね、ホントに大変だったんですよ! あ〜っ! 思い出したらまた腹が立ってきた!」
「ほらほら。それじゃ課長の思う壺だよ。そうやって怒らせて楽しんでるんだから。イタズラは、気にしないのが一番。これからは何をされても態度に出したらダメだよ」
そうか。そういうものなのか、と結菜も納得して頷く。経験者が言うのだから間違いないだろう。そう言われれば、田中の態度には結菜を困らせて楽しんでいる節があったようにも思える。
「わかりました。これ以上課長の思惑には乗せられません。恐いけど、悉く知らんぷりしてやります!」
「そうそう。その意気」
笑って頷く五十嵐が、ぴたりと足を止めた。結菜に向き直り、彼女の髪をかきあげ、そっと額に触れる。
「結菜ちゃん」
「は、はい?」
名前を呼ぶ五十嵐の表情が恐いくらいに真面目になって、結菜の心臓がとくりと鳴った。額がやけに熱い。
更なる追い討ちをかけるように、彼女の額に触れた指が、右に左に感触を確かめながらゆっくりと滑る。
「あは……あはは。先輩、額。額、くすぐったいです」
五十嵐の指が彼女の声に応えてピタリと止まった。結菜はホッとすると同時に、彼の胸を力一杯押し戻した。
他ならぬ五十嵐だから、おでこの一つや二つ、気の済むまで触らせてあげてもいいような気もするが、こんな道路っ端では誰が見てるかわからない。
「先輩、変な噂にでもなったら困りま……す……」
突如、彼女の視界は彼一色に染まった。
頭を引き寄せられて、結菜の小さな体は五十嵐の腕の中にすっぽり収まっていた。彼の体の温もりがスーツ越しに流れ込んでくる。
「結菜ちゃん!」
五十嵐の叫び声が耳に届くと同時に、クラクションの音が激しく辺りに鳴り響く。その直後に、白い乗用車がエンジン音を轟かせ、目の前を猛スピードで走り抜けて行った。
先に我に返ったのは五十嵐で、腕の中の結菜に気付くと「大丈夫?」と声を掛けた。
結菜は呆然として頷き、声の近さにハッとする。目の前には薄いブルーのネクタイ。今日、五十嵐の着けていたネクタイの色……
そろそろと顔を上げると彼の顔が十センチ程に迫っていて、目が合うと五十嵐は苦笑した。
「キスするみたいだね……なんて、今はそんな冗談言ってる場合じゃなかった。ちょっと困ったことになったみたい」
ちっとも困っているようには見えない五十嵐が、細い道路の反対側を指で指し示した。
見ると、他部署の社員らしき人達が、彼らを見てこそこそ何かを言い合いながら通り過ぎていく。中にはあからさまに指まで指している者もいる。
結菜は「ぎゃっ!」っと叫んで、慌てて五十嵐の腕の中から飛び退った。大声で、ギャラリーに「違うんです」と全てを説明したいくらいだ。
「あわわわわ! 先輩、どうしましょう?」
「そうだね……走って!」
突然、五十嵐が結菜の手を取って走りだした。取り乱す結菜は、訳もわからず言われるまま引き摺られるように、店までの暗い道のりを全速力で走り抜いたのだった。