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VS悪魔

書き終わったものを保存しようと思ったのに、操作ミスでうっかり消してしまいました。


大変長い時間を要してしまいましたが、やっと書き上がりました。


お付き合い頂けましたら幸いです。

電話はワンコールで取れ。研修中に教わった、社会人の『いろは』だ。


ツーコール鳴らしたら『お待たせいたしました』


スリーコール以上になると、『大変お待たせいたしました』


待たせれば待たせるほど言うべき言葉が増えて、もっとお客様を待たせてしまう。研修中、結菜はそれを不思議に思っていた。


しかし、眉間にしわを寄せてイライラしている様子の田中を前にして初めて、得心がいく。言わずにはいられなかった。


「大変お待た……」


瞬間、田中の目が彼女を射ぬく。心の中で結菜は、『ひーっ!』と悲鳴をあげた。


「いいから早く座れ!」


やっぱりあの電話の取り方は間違ってる。今度人事部の研修担当に、マニュアルを作り替えるよう進言してみよう。


そう心に誓った結菜だが、当座の問題は電話の取り方ではなく、この田中だ。ぎこちなく椅子に腰を下ろすと、その怒りに歪んだ顔を盗み見た。


「で?」


平仮名一文字で問い掛けられても、何のことだかさっぱりわからない。小首を傾げて復唱する。


「……で?」


「見積もりが、どこまでできたのか聞いているんだ!」


田中の大爆発に、結菜の背筋がピーンと伸びた。


どうやら田中はいつも以上に機嫌が悪いらしい。ならば、言葉の選択に気をつけなければ。不用意な一言が命取りになりかねない。


「はいっ! 見積書はまだできていませんが、仕様書で見積りをしてはいけないと気が付きました!」


心の中で『五十嵐先輩がね!』と、こっそり付け足す。


「バカか、お前は」


「はい?」


素直に現況を報告したらバカと言われた。


なんで? と、結菜の頭にクエスチョンマークが乱れ飛ぶ。


報告、連絡、相談。いわゆる『ほうれんそう』は部下の務めだ。その務めを果たした自分に『バカ』? しかも報告を求めたのは田中なのに。


首をひねる結菜に、田中の視線は冷たい。


しばし考え込んで、ハッと気付く。


もしや、お茶にフキンの絞り汁を混入しようとしたのがバレたのか? 見積りに託けて、仕返しをしようとしているのではないか? 狭量な田中のやりそうな事だ。


しかし、お茶の一件は五十嵐しか知らないはず。優しい五十嵐が田中に話すとは思えない。だとしたら、第三者がこっそり見ていて田中に報告したのか。それなら可能性は十分にある。


結菜の額に嫌な汗が浮かんできた。


『怒られる前に謝った方がいいよ』


と、弱気な結菜が現れて耳元で囁く。彼女としても、それしか方法がないように思える。意を決して拳を握りしめた。


「あの。か、課長? 給湯室での件は、深く反省しております。何卒お心を広く持って寛大な措置を……」


ギロリと睨まれ、言葉に詰まる。そんなに凄まなくても十分恐いのに。


「そうか。反省しているんだな。それなら……」


やはり給湯室での一件がバレていたのか。早めに気付けたのは不幸中の幸いだったが、この後田中がどう出るかが問題だ。


結菜は不安と緊張の入り交じった面持ちで、田中の出方を伺った。ジリジリと時が流れるのを感じた。


結菜の不安をよそに、しばしの間を経て、田中は珍しく笑顔を見せた。普段見慣れた仏頂面からは想像もできない、眩しいほどの笑顔だった。心なしか後光まで差しているようだ。


「それなら、お前の口から真実を聞かせてもらいたい。お前が訳もなくそんな事をしたとは思えない。だから、俺も直せるところは直そう。忌憚なく話してくれ」


打って変わって笑顔を曇らせ、悲しそうに目頭を押さえる田中に、結菜の胸が痛んだ。後悔の念が沸き起こる。


いくら田中でも、部下に嫌がらせをされたら傷つくに決まっている。裏切られたと思ったかもしれない。


それに、『お前が訳もなくそんな事をしたとは思えない』と言ってくれた。正直、田中がそんな風に評価してくれているとは、彼女自身思ってもいなかった。感動で、熱いものが込み上げてくる。


こうまで言われたら、正直に全てを話して許しを乞おう。結菜はそう決心した。


「すみませんでした、課長。私、課長に意地悪をされていると思って……」


「思って?」


「お茶にフキンの絞り汁を混入しようなんてバカな事を……未遂に終わったとはいえ、本当に申し訳ありませんでした」


でも、雑巾を絞るのは我慢しました。とは言えない。


深々と頭を下げて、心から愚行を詫びる。


「フキンの絞り汁?」


頭の上を、不機嫌な声が通りすぎた。それは聞き慣れた、いつもの田中の声音だった。


「課長?」


不吉な予感がして下げた頭を元に戻すと、いつも通りの仏頂面が目に飛び込んできた。


「バカか、お前は!」


「か、課長?」


変わり身の早さに狼狽える。さっきまでの弱々しさは、きれいさっぱり消えていた。


「自分の失敗を棚に上げて、俺を逆恨みか?」


地の底に潜んでいた悪魔が猛然と姿を現し、嘲笑を浮かべる。闇よりも深い、映したもの全てを取り込みそうな黒い瞳で、結菜を睨め付ける。


「も、もしかして……ご存知ではなかった?」


「知るわけないだろう」


だ、騙された。


結菜は、漸くカマをかけられていたことに気が付いた。


あの笑顔も、憐れみを誘う仕草も、みんな演技だったのだ。自分はこの悪魔の思う壺にはまっていたのか。


今ごろ気付いてももう遅い。全ては田中の知るところとなってしまった。ならば彼の情けに縋るしかない。悪魔にそんなものがあるとしたら、だが。


「あの、課長。か、寛大に、ですね……」


田中は腕を組み、尊大な態度で答える。


「生憎、俺は狭量でね。ご期待に応えて、腕によりをかけて苛めてやろうか?」


やはり悪魔に情けはないらしい。せっかくの申し出だが、結菜はマゾではない。期待などしていないので、できればお断りしたい。


田中を刺激せず、うまく事を収めるにはどうすれば良いのか。これほどの重要かつ緊急な課題には、今まで御目見得したことがない。


頭をフル回転させてみるも、田中はそれを上回る速さで結菜に攻め寄る。


「教えてやるよ。大人の『意地悪』をな」


田中の瞳の奥が、怪しく揺らめく。見つめられると、吸い寄せられてしまいそうだ。


取り巻く空気も次第に熱を帯びてきて、結菜の感覚を狂わせる。息苦しいほどの熱に、目眩がした。


そして、悪魔の手が、結菜に向かってゆっくりと近づいてきた。


怪しい光に捕らえられ、田中の瞳から逃れることができない。身体が竦んで動けない。結菜は、得体の知れない恐怖に為す術もなく、慄然として成り行きに身を任せていた。


「俺が、恐いんだろう?」


恐いに決まってる。田中はいつだって恐い。直ぐに怒鳴るし目付きも尋常じゃなく鋭い。纏う空気からして氷のよう。それが田中だ。


これまで、そんな田中という上司が恐かった。


でも、今感じたのは……


結菜の知らない、男である田中への恐れだった。


反射的に結菜は思い切り頭を左右に振っていた。一刻も早く、この男を頭から追い出したかった。結菜の頭のどこかで警鐘が鳴っていた。彼は危険だと。


必死に首を振り続ける結菜に、田中が小さく低く呟く。


「……早く一人前になれ」


唐突にもたらされた言葉に、結菜は動きを止める。再び捕われないよう視線を合わせず考える。


そんなことは結菜が一番望んでいる。何で今、このタイミングでこの男がそれを言う?


石のように固まっている結菜の額に田中の指が触れた。驚いてうっかり視線を合わせそうになり、慌ててギュッと目を瞑る。心臓がドキンドキンと激しい音で鼓動を打つ。


結菜は闇の中で、額に固いものが押し付けられるのを感じた。


「アイタッ!」


押し付けられた瞬間、痛みが走った。


結菜が様子を伺いながら目を開けると、上司に戻った田中は仏頂面でそっぽを向いていた。額は痛かったが、いつも通りの光景にホッと胸を撫で下ろす。


「か、課長! 何か当たりましたけど!」


「さあな。人の気も知らないで何が絞り汁だ。俺がどれだけお前に苦労させられているか……。寛大なお仕置きに感謝するんだな」


「な、何をしたんですか?」


額を擦る結菜に、田中が忠告する。


「ああ。あんまり擦らない方がいいぞ。赤くなる」


可笑しそうに言うのがまた腹立たしい。しかし抗議をして、あの悪魔に再び登場されるのは遠慮したい。もう懲り懲りだ。


「お仕置きはこれくらいにしておいてやる。さあ、本題に戻るぞ」


「……はい」


額を気にするのは後回しにして、素直に意識を仕事に切り替えた。田中を本気で怒らせるのは止めよう。そう心に誓って。





結菜は気付かなかった。


悪魔を相手に死闘を繰り広げていたのだ。当然、周りなど見ている余裕などない。


だから気付けなかった。一部始終を、食い入るように見つめていた瞳があったことに。





「結局、見積書を突き返された原因がわかっただけか。あれから何日経ってると思っているんだ!?」


本題に戻ってホッとしたのもつかの間、またこうして怒られている。


「わからないならわからないと、何故相談しない? 俺はお前に、やみくもに仕事を任せているわけじゃない。毎回テーマを決めて、お前の理解度を測っているんだ。相談に来なければ、何が理解できていて、何に躓いているのかもわからないだろうが!」


ただ見積もりばかりさせられているのだと思っていた結菜は、目を丸くする。言われて初めて試されていたのだと気付いた。


「非常警報設備から始めて、少しずつ規模を大きくしていった」


非常警報設備とは、感知器を有しない手動式の火災報知設備である。押しボタンを押すとベルが鳴り、周囲に火災を知らせることができる。


「今回お前に課したのは、『情報収集能力』だ。だから俺は、情報を故意にお前に伝えなかった。お前がきちんと情報を集めて、正しい情報を得た上で見積書が作成できるかどうかを見ておきたかった。」


「情報?」


「そうだ。変更の見積書を作れと、誰が言った?」


数日前に記憶を巻き戻す。田中が言った言葉は『見積書を作れ』のひと言だ。


そういえば五十嵐も『変更かどうか確認すること』と言っていた。忘れたわけではないが、結菜の中での優先順位は低く、後回しにしてしまったのだ。


「誰も言ってません」


「そうだ。お前が勝手に判断した。お前も社会人のはしくれなら、自分の仕事に責任を持て。依頼を受けるときは、相手から詳細を聞き出さなければならない。些細な伝達ミスが大事になる場合もあるからだ。やれと言われたからと適当にやっていたんじゃ、いつまで経っても信用は得られないぞ」


適当になんてやってません!


結菜はそう言いたかったが、見積書はあり得ないミスをして間違えた。五十嵐に言われた『確認』もしていない。『適当』と言われても仕方がないのかもしれない。


だけど心は納得できない。いつだって、全力を尽くしてきたのだ。


「状況からそう判断しました。自分で判断するのが、そんなにいけない事ですか?」


配属されて三ヶ月。初めて結菜は田中の瞳を真っ向から睨み付けた。田中に自分の意見をぶつけたのも初めてだった。『適当にやった』と言われたのが、今までの自分を全否定されたようで悔しかった。


田中はフンと鼻で笑い、まったく動じない。


「自惚れるな。見積もりひとつできないお前が、何を判断できるんだ。そんなセリフは、もっとましな仕事ができるようになったら言え」


結菜の頬がカッと燃える。そんな風に言われてしまったら、黙るしかない。


恥ずかしさと悔しさに耐え、結菜は俯いた。


田中に言われる迄もなく、早く一人前になりたい。切実にそう思う。


いつまでも田中の視線から逃げている自分など想像するのも嫌だ。


「武藤。顔を上げろ」


「嫌です」


「顔を、上げろと言っている!」


強い口調に屈し、田中の言葉に従う。


五十嵐と約束した。部署では泣かないと。だから涙を流すわけにはいかない。


手の甲で溢れ出そうになる涙を拭い、瞬きで濡れた瞳を隠した。


「バカか、お前は」


またバカですか。はいはい。どうせ見積書も満足に作れないバカですよ。と、不貞腐れて、見えない舌を田中に向けた。


「人前で涙を見せるな。お前は感情に振り回され過ぎる」


「泣いてませんよ」


「そうか? じゃあ、気のせいだな」


田中の持って回った言い方が気になって、結菜の強気がみるみる内に萎んできた。


「な、何がですか?」


「――鼻水出てるぞ」


結菜は慌てて鼻を掌で隠す。ティッシュはバッグの中、絶体絶命だ。


ニヤリと田中が笑い、結菜にポケットティッシュを差し出した。結菜はそれを一枚取り、鼻を擦る。そして、苦々しい気持ちで、使用済みのティッシュをゴミ箱に放り投げた。


コトンと音がして、丸めたティッシュがゴミ箱に吸い込まれるのを見届けると、田中が表情を改めた。


「ともかく、お前が信じていいのは事実だけだ。情報収集は怠るな。そしてそれを、必ず俺に報告しろ。客先に出たら、この二つは必ず守れ」


「……はい」


ポケットから小さなメモ帳を取出し、忘れないように、言われたばかりの注意点を書き込む。


来年の新入社員が入社する前に、自分は営業に出られるのだろうか。


見えない未来に深いため息を吐き、メモ帳をパタンと閉じた。


「見積書は今週中に提出しろ。増加分だけでいいからな。ところでお前、午後の予定はどうなってる?」


どうもこうも、結菜の予定なんて、この見積書を作るくらいなものだ。


知ってるくせに、嫌らしい。


心の声をそのまま口に出して、また田中が悪魔に変身しても困るので、少し修正を加える。


「午後は設備図から数を拾って、見積りの続きをします。今日中に出来上がると思いますけど」


「いや、それなら今日の午後は外に出るぞ。昼は早めに終えて準備をしておくように。俺も一緒に行く」


「はい?」


それが念願の営業デビューだと、すぐには理解できなかった。


「名刺を忘れるなよ」と言われて、やっと自分にチャンスが訪れたことを知った。待ち焦がれた分、喜びに胸が躍った。


「午後ってことは……一時でよろしいでしょうか?」


「それでいい。時間がないから早くしろ」


時計を見ると十二時を少し回っていた。


「はい!」


焦って勢い良く立ち上がる結菜に、田中が声をかける。


「ああ。飯の前に鏡を見ろよ」


「え!? まだ鼻水出てますか?」


田中が何故か吹き出した。しかし気にしてなどいられない。結菜には時間がないのだ。当然、彼に構っている余裕もない。


「失礼します」と前を辞すと、一目散にトイレに駆け込んだ。


そこで目にしたものは……


燦然とおでこに輝く、朱肉で赤く彩られた、『田中』という文字であった。


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