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先輩

お茶を配り終えた結菜に、五十嵐が『おいで』と手招きをした。


結菜は、見積書と仕様書、そしてビルの設備図面を持って、彼の隣に腰を落ち着ける。


「これです。お願いします」


見積書を見るなり、五十嵐が首を傾げる。


「図面を見せて」と言われ、結菜は慌てて設備図を広げた。


設備図には、感知器や受信機の設置する位置や、配線などが描かれている。


しばらく設備図を睨み付けていた五十嵐が、「なるほど」と呟いて結菜に向き直る。


「これを見て」


いつになく真剣な表情で、仕様書と設備図を並べて指を差す。


「何か気付かない?」


『気付かない?』と言われても、何か気付いていたなら、とっくに合格点をもらっている。何度も何度も見直して、それでもわからなかった……のだが……


「あれ? 受信機の回線数が、仕様書と設備図で違ってる?」


受信機は警戒区域毎に、火災を表示する。受信機が表示した小窓を見れば、ひと目で火災の位置がわかる仕組みだ。その小窓の数が、設備図の方が多い。


「正解。よく気が付いたね。じゃあ、次はこれ」


五十嵐が仕様書を指差す。


「仕様書?」


「そう。どうしてこれで見積書を作ったの?」


「え? 作れって言われたからですけど?」


当たり前のことを聞く、五十嵐の意図するところがわからない。首を捻りながらも質問に答えた。


五十嵐は困った顔で「本当に?」と念を押す。つられて結菜も、困惑の表情でコクンと頷いた。


「ここ、なんて書いてある?」


「受注仕様書です」


「そうだよね。意味わかる? この仕様書が発行された物件は、もう受注されているんだよ」


受注とわざわざ書いてあるのだ。それくらいは結菜も知っている。


「知ってますよ?」


「じゃあ、課長はどうしてこの物件の見積書を作らせたのかな?」


「変更があったんじゃないですか?」


「だとしたら、この仕様書の数を見て見積書を作ったらダメだよね? 今自分で確認したでしょ。回線数が増えている事。回線だけが増えるって事はないから、当然感知器も増えてるよね?」


結菜はハッとした。


その通りだ。変更ならば、当然数が変わってくる。


完璧な見積書だと思い込んでいた、ちょっと前の自分を殴ってやりたい。完璧どころか、入り口から躓いているじゃないか。


「変更だとしたら、結菜ちゃんがとるべき行動は?」


少し考えてから、結菜は慎重に答える。


「設備図で数を確認しなくてはいけません」


「うん。それでいい。後は設備図を見てごらん。併せて変更かどうか、きちんと確かめてね。曖昧なままにしておかないこと」


五十嵐は結菜の答えに満足して、やっと彼本来の優しい笑みを見せた。


けれど、笑顔を向けられても結菜の気持ちは晴れない。


『言われたことしかできない人間はいらない』


田中の言葉が結菜を責め立てるから。そう言われるような仕事をしてきた自分を自覚したから。


この数日、結菜はこの仕事にかかりきりだった。でも、設備図に目を向けたことは一度もない。仕様書ばかりに気を取られていた。


それに比べて五十嵐は、結菜が犯した過ちに、ひと目見るなり気付いた。


社会人としての経験の違いを盾に開き直る事も、問題が解決したと能天気に喜ぶ事も、結菜にはできなかった。


「結菜ちゃん?」


声をかけられても、恥ずかしさで顔が上げられない。俯く結菜の顔を五十嵐が覗き込む。真っ赤な顔の結菜に小さく微笑むと、そっと髪を撫でた。


「失敗は今のうちにしておくといいよ。それが君の財産になるから」


「失敗が、私の財産に……」


「その失敗が痛ければ痛い程、同じ過ちは繰り返さないで済む」


五十嵐の言葉が心に染み入る。彼もまた、過去において、何か痛い失敗をしたのだろうか。頑張れば彼のようになれるのだろうか。


「結菜……」


「武藤」


五十嵐の低音が甘く結菜の耳に響いた丁度その時、威圧感溢れる鋭い声が彼女を呼び付けた。呼ばれただけでしっぽを巻いて逃げたくなる、冷たい声。


「……はい」


結菜は立ち上がり、渋々田中のデスクに近づく。


「見積りはできたのか?」


「まだです」


「喋ってる暇があるなら、さっさと席に戻ってやれ」


結菜は唇を強く噛み締めた。


面白可笑しく世間話をしていたわけじゃない。仕事を教わっていただけなのだ。


――課長が怒鳴ってばかりで何にも教えてくれないから、先輩が見兼ねて教えてくれてたんじゃないですか!


口に出したい文句は山ほどある。だが、田中を前にすると、言いたいことも言えずに俯いてしまう。この三ヶ月の、お決まりのパターンだった。そして最後は田中がこう締めるのだ。


「ボケッとしてる暇があったら、さっさと仕事をしろ!」


結菜は田中に聞こえないよう、小声で文句を言いながら自席へと戻る。それが日常。


しかし、この日の展開は、いつもとは少し違っていた。


「課長」


結菜の背後から、低く響く声が投げ掛けられた。田中に背を向けようとした結菜の肩を、ガシッと掴む者がいる。両肩に置かれた彼の手の温もりが、結菜を安心させてくれる。


いつの間に席を立ったのか、五十嵐が結菜を背後から支えるように寄り添っていた。


「課長。僭越ながら、武藤さんの指導を自分にも任せてもらえないでしょうか」


一瞬、書き物をしていた田中の動きがピタリと止まる。手元に落としていた視線が五十嵐へと向けられた。刺すような、冷たい視線が。


結菜は、自分に向けられたわけではないのに心臓が縮み上がった。


結菜を庇ってくれる五十嵐には申し訳ないが、冷たい目を向けられたのが自分でなくて良かったと思ってしまう。もしもこの視線をまともに食らってしまったら、その場で心臓が凍りついてしまうだろう。


「何か不服か?」


「まさか。この子の…」


と言って、結菜を一瞥する。


「力になりたいと思っているだけです」


結菜の心臓がドキンと鳴った。そんな風に言われたら、特別な意味を感じてしまう。


あり得ない、と否定しながらも胸のドキドキは収まらない。


「ほう。他人に構っていられるとは余裕だな。だが、仕事に私情を挟むな」


田中がギロッと五十嵐を睨み付けると、五十嵐はニヤリと笑って応じる。


結菜の左右の耳を手で塞ぎ、「私情……ですか?」と田中に囁く。


「私情はお互い様、ですよね? いつも目で追って、気に掛けてますね。同じものを追ってると、嫌でも気付いてしまうんですよね。それとも自分の勘違いですか?」


結菜を挟んで二人の間に火花が散った。やがてそれは炎となり、大きく激しく燃え立つ。


一方結菜は……


耳に当てられた五十嵐の掌がくすぐったくて身をよじる。


「あの、先輩? 耳……」


「ああ、ごめんね」


五十嵐は結菜の耳から手を離し、人差し指を一本立てると自分の口に当てた。


「ごめんね。結菜ちゃんには聞かせられない、男同士の話」


何を話したのかは聞こえなかったが、確かに一瞬、険悪な空気が膨れ上がった。


一体どんな会話が繰り広げられたのか気になる結菜だが、とても聞けるような雰囲気ではない。睨み合う二人を、チラチラと盗み見るのが精一杯だ。


「武藤の指導社員は部長が決めた」


皮肉な笑みを浮かべ、田中が五十嵐から視線を外す。そして、何事もなかったかのように書き物に向き直り、再びペンを走らせた。


「指導社員になりたいのなら部長と話せ。もういい。二人とも早く仕事に戻れ」


「わかりました。結菜ちゃん、行こう」


「ああ、武藤」


顔を上げた課長の視線を真っ向から浴びて、結菜の背筋がピーンと伸びる。


「はいいっ!?」


「ちょうどいい。見積書を見ておくから持って来い」


当然、結菜に『NO』という選択肢はなかった。





結菜は五十嵐の席に置いてあった諸々を手に取り、盛大にため息を吐く。


「大丈夫?」


心配した五十嵐が、結菜を見つめて問い掛ける。


もう、彼に迷惑をかけたくない。課長との対立は、彼の将来においてマイナスになるに違いない。


「大丈夫です」


余裕のフリをしてニッコリと笑う。


「先輩こそ大丈夫なんですか? 課長、意地悪だから仕返しされないか心配です。でも、力になりたいって言ってくださってありがとうございました」


「いいよ。力になりたいのは本当の事だからね。課長にも言いたいことが言えたから満足だよ。課長との事、気にしてくれるの?」


五十嵐も笑みを見せる。先ほどの課長との睨み合いが、嘘のよう。穏やかで優しい、いつもの五十嵐だ。


「当たり前ですよ。私をかばってくれたせいで先輩の査定が下がったら、自分を許せません。私がもっと仕事のできる人間だったら良かったのになぁ」


しょんぼりする結菜に五十嵐は首を横に振る。


「誰にでも新人と呼ばれる時期はあるんだ。課長にも、もちろん俺にも。誰もが誰かの手を借りて成長していく。君も堂々と先輩である俺を利用すればいい。それも『先輩』の仕事なんだし、気にすることはないよ」


『仕事だ』と言われて、結菜の胸中は複雑だった。優しくしてくれるのは彼が先輩だから。他意なんて、あるはずもなかったのだ。


「……ですよねぇ」


そんなに都合のいい話が、自分に舞い込んでくるわけないんだ。危うく勘違いするところだった。結菜だから優しいのだと。


「そうだよ。そうやって当たり前のように利用してよ」


「え? あっ!」


結菜の胸の内を知らない五十嵐は、彼女の呟きを自分への返事だと誤解したらしい。


「今の、違うんです。独り言というか、あの……」


仕事だから利用していいとまで言ってくれた人に、『ですよね』は図々しすぎる。かといって、胸の内を暴露するのは恥ずかしすぎる。


図々しい結菜でいるか、自惚れ屋の結菜に正すか。


どちらを選んでも、自分が五十嵐に与えたいイメージではない。今更かもしれないが、彼には良い印象を持ってもらいたいのだ。図々しい人も自惚れ屋も、あまり好ましいとは思えない。


しかし、良く考えてみれば、『先輩が、私のこと好きなのかと思ってました』などと暴露したなら、恥ずかしい上に図々しい。ダブルパンチではないか。このまま誤解させておけば、図々しいだけですむ。だったら結菜の選ぶ道は自ずと決まってくる。


「いいえ、なんでもないです。先輩、本当にありがとうございました。いつか私も、後輩のために体を張れる先輩になりたいです」


内心の動揺を隠し、澄ましてピョコンと一礼する。


「失礼します」


クルリと五十嵐に背を向けると、田中の下へと急ぐのであった。


読んでくださってありがとうございます。


文中に受信機の説明がありますが、消防設備士の手引き書ではないので、ごくごく簡単に書いております。


間違いがありましたら、勉強不足とご一報くださいましたら幸いです。

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