嫌な上司へのささやかな報復
似たような会社を知っている! と思っても、どうか胸に収めておいてください。
この物語はフィクションです。実在する団体・人物とは全く関係ありません。
結菜には嫌いなものが三つある。なすとねずみと、上司の田中太一だ。
なすは食感、ねずみは見た目、田中太一は性格が大嫌い。
割りと仕事ができて、割りといい男風で、割りと背が高い。と、いうのが結菜の田中太一評だ。
しかし、いくら(割りと)面が良くても優しさのかけらもないあんな男、結菜にとっては生ゴミ以下だ。むしろ生ゴミの方が肥料として役に立つ分、社会的貢献度が高いと言えよう。
「田中太一なんて、小学一年生でも漢字で書ける名前のくせに」
呟きながら、先程、怒鳴られて突っ返された見積書を睨み付ける。その呟きこそが小学生レベルだとは気付かない。
「人間、顔の善し悪しじゃないんだから。あー。わかんない」
何度見直しても自分には完璧な見積書に見える。
仕様書と見積書の、商品の個数もあっている。計算間違いもしていない。当たり前だ。機械がみんなやってくれるんだから。
一体、田中太一は何が気に入らないのだろう。
結菜は叫び出したくなる気持ちを抑えて、見積書のチェックを始める。しかし、内なる思いに心が折れ、すぐにペンは止まってしまう。
同期の営業職の仲間は、もう、一人で顧客を回っている。それに引き換え、自分は先輩から頼まれた見積書を作る毎日。営業事務をやりたくて営業を希望したわけじゃないのに。
考えると涙で視界がぼやけてくる。焦る気持ちと惨めな劣等感で、最近は同期の飲み会にも参加していない。
「ソレもコレも、あのバ課長めが!」
怒りでプルプルと手が震える。力が入りすぎて、シャープペンの芯がバキンと音をたてて折れた。危うくお気に入りのカエルちゃんのシャープペンを、真っ二つにしてしまうところだった。
これ以上物を壊さないうちに、自分のなかで暴れている怒りを何とかしなくては。
ひとつため息を吐いて、結菜は給湯室へ足を向けた。
『バカ野郎! こんな見積を、よく恥ずかしげもなく出せたもんだな。言われたことしかできないようじゃ、うちにはいらない! とっとと辞めちまえ』
研修半年、配属されて三ヶ月。何度こうやって怒鳴られてきたことか。
結菜の会社は防災機器メーカーで、ビルの防災機器の、設置からメンテナンスまでを主に手掛けている。
消防法から電気の配線まで、覚えなくてはならないことは山ほどある。
特に彼女の部署は、ゼネコンや設計事務所が顧客の営業本部。下手をすれば客の方が知識が豊富という、新人には恐ろしい部署だ。
それでも。
配属されたからには頑張ろうと決めて、ここまで努力してきた。
でも……
堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、ひたすら頑張ってきたけれど、もう限界だ。
営業本部営業二課全員の湯呑みを並べる。
先ずは田中太一以外の上司と先輩に、この数ヶ月で学んだ格別においしいお茶を淹れる。
そして、アイツ…田中太一には。
結菜の中の悪魔がニヤリと微笑んだ。
洗ってある真っ白な台フキンを取り出す。
水で濡らし、給湯室の隅々まで丁寧に拭き掃除をする。
「なんて理想的な汚れ方」
結菜はフキンを広げて、うっとりと酔い痴れた。真っ白なフキンは今や埃まみれで、真っ黒なフキンに姿を変えていた。
この三ヶ月、見積書の他にも、結菜には闘ってきたものがあった。
二課の事務職の先輩から聞いた、『イヤな上司へのささやかな報復・その一』を試したいと思う、自分自身だ。
それを聞いた瞬間から、試したい気持ちはマックスまで膨れ上がった。しかし、仕事ができないから怒られるのだと自身を戒めてきた。さっきまでは。
広げたフキンを、もう一度小さくたたむ。
水道の蛇口をひねる。水が細く線を描いた。
結菜がそっとフキンを差し出すと、乾き始めたそれは、みるみるうちに水を吸い込んだ。
アイツの湯呑みに少しだけたらせば、結菜の心は満たされるはずなのだ。今日のところは。
一滴たらそうとしたその時。
「結菜ちゃん、それはまずいでしょ」
からかうような呆れたような低い声が、結菜の動きを止めた。
この声……
「それ、お茶とブレンドしても、美味しくないと思うよ」
間違えようもない。結菜が配属当初から憧れている五十嵐先輩。
振り向くと、給湯室の入り口に、もたれるように五十嵐が立っていた。
見られた!
結菜の頬がカッと熱くなった。
結菜だって、その行為が正しいことではないと知っていた。だからこっそりと、一滴だけお茶に絞り汁を混ぜることにしたのだ。台フキンにしたのも温情だ。先輩はぞうきんの絞り汁って言ってたんだから。
絞り汁入り緑茶を飲まされる田中太一にしてみれば、どちらも同じこと。理不尽な理屈だろう。
「気持ちはよく分かるけど、田中課長も悪気があって厳しくしてるんじゃないよ」
憧れの先輩が気遣ってくれるのは嬉しい。しかし、この三ヶ月のつらい気持ちが結菜から素直さを奪っていた。
「そんなわけないです。だって、どこが間違っているのかも、どうしたらいいのかも教えてくれないんですよ。上司だったら教えてくれてもいいじゃないですか! 私が嫌いなんです、課長は。同期はもう外回りもしているのに、私はまだ見積りしかやらせてもらってないですし」
言っているうちに情けなくなってくる。鼻をズズーッとすすると、瞼に浮かんだ涙を、指で乱暴に拭った。
「私みたいな無能な人間、課長はいらないんです。今日から武藤結菜改め、無能結菜になります。どうして私なんかが営業本部なんですか?」
「『私なんか』って。君、入社試験でトップだったんでしょ。研修での成績も良かったし、無能じゃないよ。無能結菜はカッコ悪いから止めなさい。ね?」
「い、いいんです。お、お勉強しか、できないんだから。ヒック。課長にも、ヒック、言われたことしかできないって」
五十嵐に優しくされればされるほど惨めになる。
堪えていた涙が結菜の頬を伝い、床にポトリと落ちた。
「さっき見積書を突き返されてたね。泣いてる原因は、それ?」
顔を上げると、腕を組んで何事かを考え込んでいる五十嵐が視界に入った。結菜は泣いていたことも怒っていたことも忘れて、その端整な顔に釘付けになった。
キリッとしているのに優しい目。鼻筋の通った鼻は高く、ペチャ鼻の結菜は心底うらやましい。
――男の人なのに、綺麗。
どっかのバ課長も、黙っていれば麗しい顔をしている。でも、優しい五十嵐と比べると、陰険さが滲み出ていて冷たい印象がぬぐえない。
うっとりと五十嵐を見つめる結菜の目に、白い何かが迫ってきた。
慌てて目を閉じた直後、瞼に柔らかい布地が押しあてられた。
「ここでは思いっきり泣いていいよ。ただし、一歩ここを出たら涙は見せないこと。約束できる?」
涙を拭ってくれるハンカチからは、柔軟剤の優しい香りがした。それは五十嵐と同じ香りで、結菜が彼に包み込まれている、そんな錯覚を起こさせる。そして、結菜の頑なな気持ちをゆるゆると解してくれるのだった。
「はい」
ごく自然に頷いていた。コクンと首を縦に振る結菜の頭を撫で、五十嵐は話を続ける。
「課長はじっくり育てようとしているんだと思うよ。営業は見積りができなきゃ話にならないだろ。ましてやこの業界、まだまだ男社会だ。基礎をみっちりやって、女だからと舐められないようにしてるんじゃないかな。俺の同期の女の子でいたんだ。お客さんは優しいけど、営業として見てもらえない。子供のお使いじゃない、って辞めていった子」
「ひどい……」
「でも、現実なんだよ。簡単な事務連絡こそ、その子に入るけど、営業としての相談を受けるのはいつも上司だった。客との信頼関係を築けないまま、彼女は自分の存在意義をなくしていったんだ。その上司というのが、当時係長だった田中課長なんだ。『女一人育てられないのか』って、影でかなり言われたらしい。それ以来、営業本部に女性の営業が配属されることはなかったんだ。そして今年、君が来た。期待されているんだよ、課長に。だから海千山千の客に潰されないように、大事に、でも厳しく育てているんじゃないかな」
海千山千の客に潰される前に、課長に潰されそうです。
喉元まで出かかった言葉は言わずに飲み込んだ。自分のことではないのに苦しそうに語る五十嵐に、更に苦痛を与えてしまう気がしたのだ。
「長い目で見たら、今やっていることは決して無駄じゃない。だから、辞めたらダメだよ。俺も力になるから」
結菜も会社を辞めようとまでは思っていない。憎い課長に、こっそり報復できれば満足だったのだ。でも、それは思い違いだったかもしれない。
たとえ報復できたとしても、今ほどの充足感を得られたとは思えない。
何故今、これほど満ち足りた思いでいられるのか。
それは、五十嵐が結菜の現状を理解してくれたから。『力になる』と言ってくれたから。
目の前に下ろされた蜘蛛の糸を、結菜は必死の思いで握りしめたのだ。
「先輩。ありがとうございます。正直、課長は好きにはなれませんが、やる気は戻ってきました。それと、絞り汁はやめておきます。もっと力を付けて、正面から正々堂々と課長を見返してやります」
「うん。課長を好きになる必要は、全然ないからね。ヤル気がでたならそれで十分だよ。見返すのも結構。怒りはヤル気の増幅器だからね」
満足そうに頷いている五十嵐に、結菜は感激もひとしおだ。
てっきり『課長の立場も少しはわかってあげて』と言われるかと思ったのだけれど、返ってきた言葉は『ケンカ上等』的な、結菜寄りのものだった。
――なんていい人!
恥ずかしいところを見られてしまったが、五十嵐に見られたことを神様に感謝したいくらいだ。
「さ。戻ろう。見てあげるから、見積書」
「ホントですか!? よろしくお願いします。あ。でも、中途半端なので、これだけ淹れちゃいますから先に戻っててください。直ぐに行きますから」
淹れかけのお茶を指差す結菜に、五十嵐が笑みを返す。
「じゃ、おいしいのを頼むよ」
爽やかな風と共に、五十嵐は部署へと戻っていった。
残された結菜は、鼻歌混じりで、格別においしいお茶を淹れるのだった。