表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/9

嫌な上司へのささやかな報復

似たような会社を知っている! と思っても、どうか胸に収めておいてください。

この物語はフィクションです。実在する団体・人物とは全く関係ありません。

結菜には嫌いなものが三つある。なすとねずみと、上司の田中太一だ。


なすは食感、ねずみは見た目、田中太一は性格が大嫌い。


割りと仕事ができて、割りといい男風で、割りと背が高い。と、いうのが結菜の田中太一評だ。


しかし、いくら(割りと)面が良くても優しさのかけらもないあんな男、結菜にとっては生ゴミ以下だ。むしろ生ゴミの方が肥料として役に立つ分、社会的貢献度が高いと言えよう。


「田中太一なんて、小学一年生でも漢字で書ける名前のくせに」


呟きながら、先程、怒鳴られて突っ返された見積書を睨み付ける。その呟きこそが小学生レベルだとは気付かない。


「人間、顔の善し悪しじゃないんだから。あー。わかんない」


何度見直しても自分には完璧な見積書に見える。


仕様書と見積書の、商品の個数もあっている。計算間違いもしていない。当たり前だ。機械がみんなやってくれるんだから。


一体、田中太一は何が気に入らないのだろう。


結菜は叫び出したくなる気持ちを抑えて、見積書のチェックを始める。しかし、内なる思いに心が折れ、すぐにペンは止まってしまう。


同期の営業職の仲間は、もう、一人で顧客を回っている。それに引き換え、自分は先輩から頼まれた見積書を作る毎日。営業事務をやりたくて営業を希望したわけじゃないのに。


考えると涙で視界がぼやけてくる。焦る気持ちと惨めな劣等感で、最近は同期の飲み会にも参加していない。


「ソレもコレも、あのバ課長めが!」


怒りでプルプルと手が震える。力が入りすぎて、シャープペンの芯がバキンと音をたてて折れた。危うくお気に入りのカエルちゃんのシャープペンを、真っ二つにしてしまうところだった。


これ以上物を壊さないうちに、自分のなかで暴れている怒りを何とかしなくては。


ひとつため息を吐いて、結菜は給湯室へ足を向けた。





『バカ野郎! こんな見積を、よく恥ずかしげもなく出せたもんだな。言われたことしかできないようじゃ、うちにはいらない! とっとと辞めちまえ』


研修半年、配属されて三ヶ月。何度こうやって怒鳴られてきたことか。


結菜の会社は防災機器メーカーで、ビルの防災機器の、設置からメンテナンスまでを主に手掛けている。


消防法から電気の配線まで、覚えなくてはならないことは山ほどある。


特に彼女の部署は、ゼネコンや設計事務所が顧客の営業本部。下手をすれば客の方が知識が豊富という、新人には恐ろしい部署だ。


それでも。


配属されたからには頑張ろうと決めて、ここまで努力してきた。


でも……


堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、ひたすら頑張ってきたけれど、もう限界だ。


営業本部営業二課全員の湯呑みを並べる。


先ずは田中太一以外の上司と先輩に、この数ヶ月で学んだ格別においしいお茶を淹れる。


そして、アイツ…田中太一には。


結菜の中の悪魔がニヤリと微笑んだ。


洗ってある真っ白な台フキンを取り出す。


水で濡らし、給湯室の隅々まで丁寧に拭き掃除をする。


「なんて理想的な汚れ方」


結菜はフキンを広げて、うっとりと酔い痴れた。真っ白なフキンは今や埃まみれで、真っ黒なフキンに姿を変えていた。


この三ヶ月、見積書の他にも、結菜には闘ってきたものがあった。


二課の事務職の先輩から聞いた、『イヤな上司へのささやかな報復・その一』を試したいと思う、自分自身だ。


それを聞いた瞬間から、試したい気持ちはマックスまで膨れ上がった。しかし、仕事ができないから怒られるのだと自身を戒めてきた。さっきまでは。


広げたフキンを、もう一度小さくたたむ。


水道の蛇口をひねる。水が細く線を描いた。


結菜がそっとフキンを差し出すと、乾き始めたそれは、みるみるうちに水を吸い込んだ。


アイツの湯呑みに少しだけたらせば、結菜の心は満たされるはずなのだ。今日のところは。


一滴たらそうとしたその時。


「結菜ちゃん、それはまずいでしょ」


からかうような呆れたような低い声が、結菜の動きを止めた。


この声……


「それ、お茶とブレンドしても、美味しくないと思うよ」


間違えようもない。結菜が配属当初から憧れている五十嵐先輩。


振り向くと、給湯室の入り口に、もたれるように五十嵐が立っていた。


見られた!


結菜の頬がカッと熱くなった。


結菜だって、その行為が正しいことではないと知っていた。だからこっそりと、一滴だけお茶に絞り汁を混ぜることにしたのだ。台フキンにしたのも温情だ。先輩はぞうきんの絞り汁って言ってたんだから。


絞り汁入り緑茶を飲まされる田中太一にしてみれば、どちらも同じこと。理不尽な理屈だろう。


「気持ちはよく分かるけど、田中課長も悪気があって厳しくしてるんじゃないよ」


憧れの先輩が気遣ってくれるのは嬉しい。しかし、この三ヶ月のつらい気持ちが結菜から素直さを奪っていた。


「そんなわけないです。だって、どこが間違っているのかも、どうしたらいいのかも教えてくれないんですよ。上司だったら教えてくれてもいいじゃないですか! 私が嫌いなんです、課長は。同期はもう外回りもしているのに、私はまだ見積りしかやらせてもらってないですし」


言っているうちに情けなくなってくる。鼻をズズーッとすすると、瞼に浮かんだ涙を、指で乱暴に拭った。


「私みたいな無能な人間、課長はいらないんです。今日から武藤結菜改め、無能結菜になります。どうして私なんかが営業本部なんですか?」


「『私なんか』って。君、入社試験でトップだったんでしょ。研修での成績も良かったし、無能じゃないよ。無能結菜はカッコ悪いから止めなさい。ね?」


「い、いいんです。お、お勉強しか、できないんだから。ヒック。課長にも、ヒック、言われたことしかできないって」


五十嵐に優しくされればされるほど惨めになる。


堪えていた涙が結菜の頬を伝い、床にポトリと落ちた。


「さっき見積書を突き返されてたね。泣いてる原因は、それ?」


顔を上げると、腕を組んで何事かを考え込んでいる五十嵐が視界に入った。結菜は泣いていたことも怒っていたことも忘れて、その端整な顔に釘付けになった。


キリッとしているのに優しい目。鼻筋の通った鼻は高く、ペチャ鼻の結菜は心底うらやましい。


――男の人なのに、綺麗。


どっかのバ課長も、黙っていれば麗しい顔をしている。でも、優しい五十嵐と比べると、陰険さが滲み出ていて冷たい印象がぬぐえない。


うっとりと五十嵐を見つめる結菜の目に、白い何かが迫ってきた。


慌てて目を閉じた直後、瞼に柔らかい布地が押しあてられた。


「ここでは思いっきり泣いていいよ。ただし、一歩ここを出たら涙は見せないこと。約束できる?」


涙を拭ってくれるハンカチからは、柔軟剤の優しい香りがした。それは五十嵐と同じ香りで、結菜が彼に包み込まれている、そんな錯覚を起こさせる。そして、結菜の頑なな気持ちをゆるゆると解してくれるのだった。


「はい」


ごく自然に頷いていた。コクンと首を縦に振る結菜の頭を撫で、五十嵐は話を続ける。


「課長はじっくり育てようとしているんだと思うよ。営業は見積りができなきゃ話にならないだろ。ましてやこの業界、まだまだ男社会だ。基礎をみっちりやって、女だからと舐められないようにしてるんじゃないかな。俺の同期の女の子でいたんだ。お客さんは優しいけど、営業として見てもらえない。子供のお使いじゃない、って辞めていった子」


「ひどい……」


「でも、現実なんだよ。簡単な事務連絡こそ、その子に入るけど、営業としての相談を受けるのはいつも上司だった。客との信頼関係を築けないまま、彼女は自分の存在意義をなくしていったんだ。その上司というのが、当時係長だった田中課長なんだ。『女一人育てられないのか』って、影でかなり言われたらしい。それ以来、営業本部に女性の営業が配属されることはなかったんだ。そして今年、君が来た。期待されているんだよ、課長に。だから海千山千の客に潰されないように、大事に、でも厳しく育てているんじゃないかな」


海千山千の客に潰される前に、課長に潰されそうです。


喉元まで出かかった言葉は言わずに飲み込んだ。自分のことではないのに苦しそうに語る五十嵐に、更に苦痛を与えてしまう気がしたのだ。


「長い目で見たら、今やっていることは決して無駄じゃない。だから、辞めたらダメだよ。俺も力になるから」


結菜も会社を辞めようとまでは思っていない。憎い課長に、こっそり報復できれば満足だったのだ。でも、それは思い違いだったかもしれない。


たとえ報復できたとしても、今ほどの充足感を得られたとは思えない。


何故今、これほど満ち足りた思いでいられるのか。


それは、五十嵐が結菜の現状を理解してくれたから。『力になる』と言ってくれたから。


目の前に下ろされた蜘蛛の糸を、結菜は必死の思いで握りしめたのだ。


「先輩。ありがとうございます。正直、課長は好きにはなれませんが、やる気は戻ってきました。それと、絞り汁はやめておきます。もっと力を付けて、正面から正々堂々と課長を見返してやります」


「うん。課長を好きになる必要は、全然ないからね。ヤル気がでたならそれで十分だよ。見返すのも結構。怒りはヤル気の増幅器だからね」


満足そうに頷いている五十嵐に、結菜は感激もひとしおだ。


てっきり『課長の立場も少しはわかってあげて』と言われるかと思ったのだけれど、返ってきた言葉は『ケンカ上等』的な、結菜寄りのものだった。


――なんていい人!


恥ずかしいところを見られてしまったが、五十嵐に見られたことを神様に感謝したいくらいだ。


「さ。戻ろう。見てあげるから、見積書」


「ホントですか!? よろしくお願いします。あ。でも、中途半端なので、これだけ淹れちゃいますから先に戻っててください。直ぐに行きますから」


淹れかけのお茶を指差す結菜に、五十嵐が笑みを返す。


「じゃ、おいしいのを頼むよ」


爽やかな風と共に、五十嵐は部署へと戻っていった。


残された結菜は、鼻歌混じりで、格別においしいお茶を淹れるのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ