少女と海
引き継がれない文明は容易く忘れ去られる。そこに人がいないのならば、人のいた記憶など必要が無いのかもしれない。そんな事を考えながら、アムは電波塔が立ち並ぶ草原を見ていた。
赤褐色の表皮は所々錆びて崩れ落ち、途切れ途切れに頭頂部を伝う電線に、夥しい数の鳥が留まっていた。
これはまだ人間が動力をどこかで集中して生産していた時代の遺物だ。ほんの数十年前まで人々が享受していた事にも関わらず、もうそれがどういうものだったのかを知る人間は少ない。
膝まで背丈が伸びた草原を踏みしめながら、アムはケルトを追った。背が高く早足な彼女を追うのにアムは一生懸命だった。
あの食堂の出来事から、どこから出してきたのか、ケルトは大型のバイクの後ろにアムを乗せてエルノアを飛び出した。
「お前は付けろ。転んだらすぐ死にそうだ」という言葉と共に、栗色の頭にヘルメットを被せ、そのままアムはケルトの背中に引っ付いた。スロットルを回す動作と共に、大排気量のエンジンが轟音を立てて運動する。後輪をスピンさせながら加速して飛び出す二輪車は、もしかしたらクジーに乗るよりも恐ろしいものかもしれないとアムには思えた。
エルノアを出て、鉛色の空の下を走る。
街並みはどこもかしこも同じようなもので、車両の運搬用に瓦礫がどけられた道路だけが綺麗に平坦だった。エルノアから延びた所にあるネストというの街、そのまた外縁部まで行くと田園風景が広がっていて、色褪せたような人間達を見るのに辟易していたアムに、その光景は新鮮に映った。
「なあ、ちょっといいか」
今までずっと黙っていたケルトが話しかけてきて、風景に見とれていたアムは反応に遅れた。風の音の中でもケルトの声は澄んで、はっきりとアムの耳の中に残るぐらいに鮮明だった。
「何でお前は怒らないんだ? あの緑髪の女、お前の友達だったんだろ?」
そういえばどうして自分があの光景に心が動かなかったのか、アムは少し不思議になって考えた。
「わからない」
「わからないって何だよ」
「わらかないものは、わからないわ。ケルトがカイムを殴ったときに何も感じなかった。でもそれがどうしてだかさっぱりわからない」
「仲が良い振りして、何とも思ってなかったのか?」
「違う。私は友達だと思ってた。知り合ったのは最近だけれども、大切な友達だと思ってた」
今まで友達なんていたことが無いからかも、どうしていいかわからなかったからかもしれない。と言いながらアムはケルトの背中に体重を持たれ掛けた。その後何かを思いついたかのように顔を上げると、ハンドルを握るケルトに向かって話し掛けた。
「多分、だけどね。カイムがケルトに殴りかかったからかな」
「報復は正当化されるべき。って奴か?」
「うん。殴るなら、殴ろうとするならば、殴り返されても仕方が無いと思うの。誰だってそう、他人を殺そうとするのなら、殺されても文句は言えない。ずっとそう思って生きていたからかもしれない」
私と同じだ。とケルトは消え入りそうな声で言って、その後に黙り込んだ。頭に被ったゴーグルの位置を治すと、そのまま二輪車は加速する。
道路は地平線の果てまで続いていた。ケルトが何処に向かっているのかわからないけれども、アムは安心しながら世界を眺めていた。
小高い丘に電波塔が見えて、そこを過ぎたあたりに海が見えた。
「ここはさ、よく親父が休みになると連れてってくれたんだよ。ネヴィアなんてやってくる前に、ここによく来てたらしいんだ」
路肩にバイクを止めて草原の中を歩き始めた。先導するケルトは落ちていた木の枝で草を振り分けながら進んで、いろんな話をした。ノルの中では見せないような気楽な表情を見て、アムはとても綺麗だと思った。
「昔からここに住んでたの?」
「ああ、親父はクジーに乗ってたんだ。エルノアでも頭ひとつ抜けてたって話だ。凄いパイロットだったんだ」
父親の話をする時のケルトは嬉しそうだった。自分が大切にしているものを自慢するかのように話をするケルトに、初めて年相応の姿を見たという感じがした。
「いっぱい勲章だってもってたんだ。休みの日は胸にピカピカ貼り付けてさ、何にもわかんない子供だった私に自慢してくるんだ。どっちが子供だかわかんないよな」
「好きだったのね。お父さんの事」
「誇りに思ってた。いや、今でも大切に思ってる」
電線の下を潜り丘に登ると、灰色の空の下に一面の海が広がっていた。地平線の果てでは藍色と鉛色が交じり合っていて、海鳥がそれを横切るかのように群れを成して飛んでいた。潮の香りと寄せて返す波の風景。初めて海を見たアムはその光景にただただ感じ入った。
「もしかして海を見るのは初めてだったか?」
「うん……、うん!」
「凄いだろ、これ。私も始めて見たときは感動した」
そう言ってケルトは近くの手頃な岩に腰を掛け、アムはその横に並んで座った。
無言の空間。だがそれは別に息苦しいものでもないし、不愉快なそれではない。ケルトの事なんてぜんぜん知らないのに、どこか似たもの同士であるようにアムは感じ、二人にとって居心地のいいまどろみのような時間だけがただ過ぎ去っていった。
「なあ。お前がなんでここに呼ばれたか知ってるか?」
日が暮れて、灰色の空が僅かに赤く染まり始めた頃。意を決したかのような表情をしてケルトは話を始めた。
「うん。適性があったからだって。人よりも、いいや誰よりも強い適性があったからだってグラスゴーさんが言ってた」
「それもあるんだけどな」
「あるんだけどって、違う理由があるの?」
歯切れのいい言葉をいつも吐き出すケルトには珍しく、言葉を濁すような言い方だった。
「適性値って奴がある。生まれ持ったそれで、コアとの接続のしやすさを測る数値だ。お前のは飛びぬけて高い。特異型のクジーはレベル4以上のネヴィアのコアを使ってて、まともに接続するにはかなりの適性値がいる。エルノアに配置されてる私たちだって、普通のパイロットと比べたらかなり高い。だけどお前はその中でも飛びぬけている」
「知らなかった。そんな事、誰も言ってくれなかった」
「全員知ってて、全員見ない振りをしてるんだ。コアとの適性値が高い奴は異常な人間が多い。お前が今普通に見えたって、いつか致命的な破滅を引き起こすかもしれない。お前の横で笑ってる奴だって、きっとそう思ってる」
「そんな事は無い! 絶対にそんな事は無いよ……。だって友達だって言ってくれた。私を信じるって……」
手のひらを握り締め俯くアムの横で、そういえばさっき殴り飛ばしてたなとケルトは小さく笑った。黙りこくった二人の間に波の音が響く。暫くして、アムが落ち着いたのを見計らってからケルトはまた話し始めた。
「でも実は、お前の適性値は一番じゃないんだ」
「そうなの?」
ケルトは一息置いて、足をぶらつかせながらアムの方を見た。
「ああ、お前は本来ならその娘の予備として呼ばれる予定だった。エクレシアだってお前のものじゃなかったし、お前が呼ばれるのだってずっとずっと後になる予定だった」
「なら、何で?」
「エルノアからの迎えが来る数日前、誰かに攫われた」
アムの背筋に冷たい物が走った。
「初めに気付いたのはそいつの母親だった。生臭い鉄の匂いと共にドアの隙間から血が漏れ出しているのを見つけたらしい。鍵の掛かったドアを父親が蹴破って入ったらあたり一面血の海で、白い壁紙に血文字で狂ったような文章が書いてあったという話だ」
「それで、その娘は?」
「さあ? 致死量以上の血液をばら撒いてどっかに消えたんだ。ただそことは全然関係無い場所で、その娘を見たという証言がある。とんだ与太話だが、その出元は信憑性があるみたいだ。死んでいるという話と同様に、死んでないという話もある」
ケルトはニッと笑みを浮かべて、畳み掛けるように語った。
「ここまではただのオカルトだが、ここからが本題だ。実は特異型クジーというのは本人とのマッチングに時間が掛かる。これは本人のデータをぶち込んで、同調しやすくなる作業だ。通常なら数日だが、特異型では数ヶ月掛かる事も稀ではない」
語り口から何かを察したかのように、アムは青ざめた。
「ねえ、その娘が攫われたのは何時なの?」
「お前が来る二週間前だ。そしてお前はもうエクレシアとのマッチングを終えて、第一段階までの接続をやり終えている」
「ねえ、今の話本当なの?」
「本当だ。その娘が失踪したという話も事実だし。事前にお前だけが来るかのようにノルは準備をしていたのは、紛れも無い事実だ。だからわざわざここまで来た」
「それって……」
「ここは磁場がぶっ壊れてるから、だから秘密の場所なんだよ」
アムは急いでポケットから端末を取り出して起動したが、電波状況を表す欄にはただLOSTと書かれていた。その慌てる様子を見たケルトは笑い転げた。アムが少し不機嫌になるまで彼女は笑った。一頻り笑って落ち着いたのか、足をバタバタさせながら愉快そうな顔をした。
「おいおい、今気付いたのか! お前は察しがいいから、薄々感じていると思ったけどな!」
「ちょっと!」
「ああ悪いな、ちょっと面白かったからな」
落ち着いた後、ケルトは急に真面目な顔をした。
「で、この話のオチなんだけどな。その娘の名前はエーリカっていうんだ」
「ん? わからない」
「いいから聞けよ。フルネームはエーリカ・アウストル。グラスゴー・アウストルの一人娘だ」
「それって……」
「あれがまったく虚偽の報告だとは思わない。事実夥しい血痕が存在したのは事実らしい。だが、何らかの形で加担している事は間違いない。実際お前の扱いは完全にあいつの監督下にある」
ケルトはそこで息を吐いた。
「気をつけろ。具体的な事は何もわからないし、目的も何もかもがわからない。だがお前を使ってどうこうしようとしている奴がいる。連中の手先が、お前の取り巻きに潜んでいるかもしれない。もしかしたらお前が一番信用している奴かもしれない」
いいか、誰も信じるな。
何か言い返そうとするが、言葉が胸に詰まって出てこないアムと、何でもないような顔をして海を見ているケルト。二人はそうやって、日が落ちてしまいそうな薄暗闇の中で隣り合って座っていた。