アムの話
アム・ネルサドラルはこの幸せな一日が過ごせた幸福と、闇色に蠢くそれに対する報復を祭壇の前に祈っていた。こじんまりとした教会のカーペットに片膝を立てて跪き、両手を組んで聖像の前で瞳を閉じて祈っていた。
彼女がここで目を瞑ったときに頭の中を決まってよぎるのは、いつもこの光景である。アムの家族の命が一瞬にして奪われたあの瞬間の出来事である。
ネヴィアが何なのかはまったくわかっていない。突然宇宙に、そして地球の至る所に現れたそれに、多くの人間は押し殺された。一切の常識が通用しないそれは、もはや生命体なのかさえ不明瞭だ。ただコアを破壊すれば消えるという事だけが、人類にわかっている唯一の事だった。
アムは歓喜していた。ネヴィアに家族を殺されたアムのような子供はたくさんいて、この修道院にはそんな連中が集まっている。彼らは揃いも揃って腑抜けで、そして諦めているようにアムの目には映った。そんな中で彼女だけが諦めずに前を向き続け、ついに復讐のチャンスを掴み取ったのだ。
――――『クジーに適正あり』
軍の人間が送ってきた書類の内容にアムは歓喜した。孤児院の子供に施した試験の結果の一文一文を舐めるように読み、喜びに打ち震えた。即日で返事を出した彼女は急いで準備を始めた。彼女には自分の命に対する未練なんてものは無かったし、後悔なんて感情はあの日の瓦礫に埋まって燃えてしまった。
自分をこの孤児院に引き入れてくれた修道女には少し悪いと思ったが、ただ自分の気持ちが時間と保身と共にすり潰されるのだけは我慢が出来なかったのである。
アム・ネルサドラルがエルノア極北領土保全基地に配属される事になった4/16という日付は、偶然にも四年前、彼女の家族が死んだ日と同じであった。
ポケットに手を突っ込んで指先で冷たい鉄の感触を確かめる。あの日から何か決断をした時にやる癖になった。誕生日に弟から貰った懐中時計は、あの日の時間で罅割れたガラスと共に短針と長針を止めてしまっていた。
約束の日に孤児院にやってきた男はグラスゴーと名乗り、対ネヴィア特殊機関ノルの機関長と書かれた名刺をアムに渡した。引っ込み思案で緊張しいのアムはおどおどとした様子でその名刺を受け取ると、大切そうにオーバーオールの胸ポケットにしまいこんだ。
「クジーに乗ってネヴィアを殺せるまで、どれぐらい時間が掛かるんですか?」
最初にグラスゴーに会ったアムがした質問がそれだった。それを聴いた瞬間の驚きと、そして一瞬悲しそうな表情をした後に「すぐにでも乗れるよ」と答えた。
「クジーにはネヴィアのコアを模した物が使われている。知っているね? そしてネヴィアと戦うためにクジーに必要なのは莫大な出力と、ネヴィアの散発的で突発的な攻撃に対応するための感度だ。これらは当然高度に発達したAIによって補助されるが、当然ながら君の裁量も大きい。訓練すればいずれ君も強力なパイロットになれる」
「それじゃあ時間が掛かるんじゃないんですか? 私は今すぐにでもクジーに乗ってネヴィアを殺したいんです」
「クジーは適正のある人間じゃないとコアから出力を得られない。そして君はその適正に飛びぬけて秀でている。大丈夫だ。功を焦って自滅しても仕様が無いと思わないかい?」
「でもそれじゃ見てるだけじゃないですか。誰かの影で震えているだけの今と変わらないじゃないですか!」
「焦る気持ちもわかる。君の境遇は聞いているよ。だけど我慢をするんだ」
「クジーに、クジーに乗れさえすれば……」
そういってアムは俯き、何かに向かって呟いた。男は優しい顔をしながらそんなアムの栗色の頭を撫でた。ゴツゴツとした大きな掌がアムの短く切りそろえられた栗毛をゆっくりと撫でた。何かを説くような含みを持ったグラスゴーのそれと、自分の意識とのギャップが、少女には酷く不愉快に思えた。
「基地までは車に乗って六時間ぐらいだ。それまでに十分に自分と折り合いをつけるといい。幸福は君に味方をしたが、現実は君に中立だった。ただそれだけの事だと思うといい。これからも現実は君に対して常に残酷なそれを示し続けるだろう。クジーに乗るなら尚更だ」
「覚悟は出来てます」
「皆、そういうんだ」
「私は違います」
やれやれ、といった様子で男は帽子を脱いだ。アムと向き合ったグラスゴーは白髪が目立っていて、父と同じぐらいの年齢に見えるとアムは思った。
車内の座席は向き合うように広く設置されていた。最初はいかにも上質そうな皮が張ってあり居心地が悪かったが、暫くすると慣れたのかシートに背をもたれ掛かった。車内に広がる不穏な空気と、ピリピリとした緊張感のそれと向き合いながらも、アムは決して折れなかった。
車窓の隅に肘を掛け外の景色を見ると、曇り空の下で瓦礫と家屋が不規則に立ち並び、その近くではアスファルトの欠片の上に座り呆然としている大人や、それでも元気に走り回る子供の姿があった。
ここらへんは同じような景色が何処までも広がっていて、復興もまだ始まってすらいない。立て直した所でネヴィアはまたやってくるという諦めと、澱みを含んだかのような空気が漂う崩壊した町並みを、アムは心の底から嫌悪していた。
「元々君の住んでた街はここらへんだったらしいね」
「はい」
湖面のように静かな瞳でアムを見据え、穏やかだが明朗な声でグラスゴーは話しかけた。
「君には、あの孤児院を出てそのままここで暮らすという選択肢もある。ここで思い出すなら別の街に行ったっていい。ネヴィアがやってきてない土地だって人類にはまだまだ残されている」
「でも、それでも段々減っていってるんですよね? あのネームドのネヴィアが大量に現れた夜から、世界がゴッソリ切り取られた夜明けから」
「それでも……。それでも君は全てが終わるまで幸せに生きる事が出来る」
「本当にこれでいいのか?」という男の無言の声に、彼女は俯いて暫く何も言わなかった。車輪が舗装もはげ掛けた道路の石で跳ねる振動だけが彼と彼女の間にあった。両膝の上で握り締めた掌が震えて、その上に水滴が落ちた。
彼女は迷っていたのではない。ただ、悔しかった。
「私は。私は目の前で両親を殺されたんです。パパは私を守って、ママは私を逃がそうとして死にました。ネヴィアの闇色に巻き込まれてズタズタになった死んだんです」
それは呪いのようなものだった。心に刻み込まれた瞬間から永遠に支配され続ける、暗い鎖のようなものだった。
「あの人たちは幸せになれるようにって言いながら死んだんです。それなのに、私だけが目を背けて幸せになんて出来るわけないでしょう……!力がもしあるのなら、牙があるのなら食らい尽くしてやりたい、そう思って私は生きてきた」
吐き出した。何もかもを吐き出した。彼女の存在意義を、報復の決意を、決死の後悔を。
「すまなかった。君の覚悟をどうやら見くびってたみたいだ」
「気にしないでください。孤児院の連中はみんなそうでしたから、私もそう思われるのも仕方が無いです」
彼女は頷いた。今まであった震えや弱さを全部押さえ込んだかのように真っ直ぐ目の前の男を、強い意志を持った瞳で見据えた。
相も変わらず濁った雲が空を覆い、どこを見ても鉛色の暗さが世界を覆っていた。