第9話 国境での直接対決! 元婚約者の前で熟睡してしまいました
国境の平原は、異様な緊張感に包まれていた。
……らしい。
「ふあぁ……」
私は豪華な馬車の中で、本日十回目くらいのあくびを噛み殺した。
クッションにもたれかかり、ぼんやりと窓の外を眺める。
早朝四時起きである。
これは拷問と言っていい。
私の安眠契約には「日の出前の起床は禁止」という条項を追加すべきだった。
「気分はどうだ、アリア」
向かいの席で、クラウス陛下が心配そうに私を覗き込んでいる。
彼は完全武装だ。
漆黒の鎧に身を包み、腰には愛用の長剣。
普段の執務服姿も素敵だが、戦装束の陛下もまた凛々しくて目が覚める――ことはなく、やっぱり眠いものは眠い。
「最悪です。眠いです。帰りたいです」
「すまない。だが、あいつらが五月蝿くてな」
陛下が苦虫を噛み潰したような顔で、窓の外を睨んだ。
外からは、ビリビリと空気を震わせるような大音声が響いている。
『――聞け! 野蛮なる帝国の兵士どもよ! 貴様らは騙されているのだ!』
拡声魔法だ。
無駄によく通る、甲高い声。
聞き間違えるはずもない。元婚約者、ライル殿下の声だ。
『聖女アリアは、貴様らの皇帝による卑劣な洗脳魔法を受けている! 我々は彼女を救い出し、正義の鉄槌を下すために来た! 直ちに彼女を解放せよ!』
一言一句が頭に響く。
まるで日曜の朝に家の前で工事を始められたような不快感だ。
「……元気ですね、あの人」
「ああ。五千の兵を率いてきたそうだ。国が傾いているというのに、よくもまあ金があったものだ」
陛下が冷ややかに吐き捨てる。
五千人。
結構な大軍だ。
対する帝国軍は、国境警備隊を含めても二千ほど。
数だけ見れば劣勢らしい。
「アリア。お前はここから出るな」
陛下が立ち上がり、剣の柄に手をかけた。
「俺が出る。あいつの口を物理的に塞いでくる」
「殺しますか?」
「死なない程度には手加減するつもりだが……手元が狂うかもしれん」
陛下の赤い瞳が、昏い光を宿している。
本気だ。
ライル殿下の命運は風前の灯火である。
陛下が馬車の扉を開けた。
途端に、外の騒音が倍増して流れ込んでくる。
『出てこい、卑怯者クラウス! 私の愛するアリアを返せぇぇぇ!』
愛する?
どの口が言っているのだろう。
「顔を見るだけで吐き気がする」と言ったのは、どこの誰だったか。
イラッとした。
純粋な怒りではない。
私の貴重な二度寝タイムを妨害されたことへの、生理的な苛立ちだ。
「……陛下」
「ん?」
「私も行きます」
「なっ、馬鹿を言うな。ここは戦場だぞ」
陛下が止めようとするのを、私は手で制した。
ブランケットを肩から羽織り、ふらりと立ち上がる。
「大丈夫です。話し合いで解決します。……というか、静かにさせます」
私は陛下を押しのけて、馬車のステップを降りた。
***
草原の風が吹き抜ける。
帝国の陣営の最前線。
そこから見下ろす緩やかな斜面の下に、ルミナス王国軍が展開していた。
きらびやかな鎧。翻る旗。
そして、先頭に立つ白馬に乗った王子様。
ライル殿下だ。
隣には例のバルニエ伯爵もいる。
彼らは私に気づくと、パァッと顔を輝かせた。
「アリア! おお、アリア!」
ライル殿下が馬を進めてくる。
拡声魔法がかかっているせいで、声が無駄にでかい。
「やつらに酷いことをされたのだろう!? やつれた顔をして……可哀想に!」
やつれているのではない。
寝不足なだけだ。
この区別がつかないあたり、相変わらず私のことを見ていない人だ。
「安心しろ、今すぐ助けてやる! さあ、こっちへ走ってくるんだ!」
ドラマの主人公気取りで手を差し伸べてくる。
私は大きくため息をついた。
隣に立つ陛下が、殺気を隠そうともせず剣を抜きかけている。
セバスチャンさんが後ろで「まあまあ」となだめているが、その目も笑っていない。
「ライル殿下」
私は声を張り上げる……気力もなかったので、普通に話しかけた。
距離はあるが、風に乗って届くだろう。
「お久しぶりです。そして、お帰りください」
「なっ……!?」
「私は帝国で幸せに暮らしています。毎朝十時まで寝て、美味しい紅茶を飲んで、陛下とお昼寝をしています。最高の生活です」
正直に現状を伝えた。
これなら彼も諦めるだろう。
しかし、ライル殿下の反応は斜め上だった。
「……なんだって? 十時まで睡眠? お昼寝?」
彼はわなわなと震え出し、顔を真っ赤にして叫んだ。
「洗脳だ! やはり強力な精神魔法を受けている! あの勤勉で真面目なアリアが、そんな堕落した生活を喜ぶはずがない!」
あ、だめだこの人。
自分の知っている「都合のいいアリア像」しか信じないタイプだ。
話が通じない。
「全軍、突撃準備! 魔法部隊、詠唱開始!」
ライル殿下が剣を振り上げた。
背後の兵士たちが一斉に動き出す。
魔法使いたちが杖を構え、赤い光が集束していく。
ファイアボールか何かだろうか。
こちらに向けて撃つ気満々だ。
「チッ……!」
陛下が私の前に立ち塞がった。
帝国の兵士たちも盾を構える。
うるさい。
本当に、うるさい。
金属音。
詠唱の声。
ライル殿下の叫び声。
私は限界だった。
眠いのだ。
ただでさえ早起きして機嫌が悪いのに、こんな騒音の中で突っ立っていられるか。
もういい。
全部終わらせて、馬車で寝よう。
私は陛下の方をポンと叩いた。
「陛下、耳を塞いでいてください」
「え?」
「あと、支えてくださいね。倒れるかもしれないので」
陛下の返事を待たず、私は一歩前へ出た。
そして、迫りくる五千の軍勢と、魔法の光を見据え――。
思い切り、息を吸い込んだ。
「……ふあぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」
心の底からの、混じり気のない、特大のあくび。
涙が出るほど気持ちいい。
全身の力が抜けていく。
その瞬間。
世界から音が消えた。
バタバタバタバタバタッ!
ドミノ倒しかと思った。
突撃しようとしていた最前列の騎士たちが、糸の切れた人形のように馬から崩れ落ちたのだ。
馬もまた、嘶くことなく膝を折り、その場で横になる。
後続の兵士たちも同様だ。
走っていた勢いのまま地面に突っ伏し、あるいは立ったまま槍を枕にして崩れ落ちる。
「え?」
魔法を詠唱していた魔導師たちは、杖を取り落とし、白目を剥いてその場に沈んだ。
集束していた魔力が霧散し、キラキラとした光の粒子になって消えていく。
ものの数秒。
本当に、瞬きする間の出来事だった。
五千の軍勢が、全員寝た。
死屍累々ではない。
あちこちから、野太い寝息といびきの大合唱が聞こえてくる。
「……スピィ……」
「ムニャ……母ちゃん……」
戦場は一瞬にして、巨大な青空寝室と化した。
唯一立っているのは、ライル殿下だけだ。
彼は呆然と周囲を見回し、剣を震わせている。
「な、なんだこれは……何が起きた! 貴様ら、起きろ! 戦え!」
殿下が近くの兵士を蹴飛ばすが、兵士は「あと五分……」と呟いて寝返りを打つだけだ。
「ば、馬鹿な……こんな魔法、聞いたことが……」
ライル殿下が私を見る。
恐怖に引きつった顔だ。
私は涙目をこすりながら、彼に言った。
「おやすみなさい、殿下。夢の中でなら、いくらでもお相手しますよ」
その言葉がトドメだったらしい。
殿下の目がうつろになり、膝ががくりと折れた。
そして、白馬のたてがみに顔を埋め、ずるずると滑り落ちていった。
ドサッ。
完全沈黙。
平原に、平和な風が吹き抜ける。
「……終わった」
私は満足して、後ろに倒れ込んだ。
予想通り、硬い鎧の感触が私を受け止めてくれる。
クラウス陛下だ。
「……アリア」
陛下の声が震えている。
見上げると、彼は信じられないものを見る目で、寝静まった敵軍を見下ろしていた。
「お前、本当に……何者なんだ?」
「ただの眠い人です」
私は陛下の胸に顔を埋めた。
金属の冷たさが気持ちいい。
安心する匂いがする。
「陛下、約束通り終わらせましたよ。帰って二度寝しましょう」
「……ああ。そうだな」
陛下が力強く私を抱きしめた。
周囲を見渡すと、帝国軍の兵士たちは全員無事だった。
彼らは耳栓をし、あらかじめ配られていた「激辛キャンディ」を舐めて耐えていたらしい。
セバスチャンさん、用意周到すぎる。
「全軍、撤収!」
陛下の号令が響く。
兵士たちが「うおおお! 皇后陛下万歳!」と勝ち鬨を上げる。
まだ皇后じゃないし、万歳三唱するほどうるさくしないでほしい。
私は陛下の腕の中で、意識を手放した。
遠くでライル殿下のいびきが聞こえた気がしたが、もうどうでもよかった。
私の勝利だ。
睡眠の勝利なのだ。




